#2775/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 9:31 (199)
Yの殺人 1 平野年男
★内容
*登場人物
畑洋二 (はた ようじ) 畑恵美 (はた えみ)
畑菊子 (はた きくこ) 畑百合子(はた ゆりこ)
畑孝亮 (はた こうすけ) 畑昌枝 (はた まさえ)
畑譲次 (はた じょうじ) 朝原育美(あさはら いくみ)
神尾友康(かみお ともやす) 神尾留依(かみお るい)
日熊一多(ひぐま いちた) 石橋昭 (いしばし あきら)
淵英造 (ふち えいぞう) 小室二郎(こむろ じろう)
鳥部竜雄(とりべ たつお) 片倉優右(かたくら ゆうすけ)
流次郎 (ながれ じろう) 平野年男(ひらの としお)
吉田 (よしだ) 浜本 (はまもと)
一九八八年、春先であった。
紅く昏い空間を、影が落下して行く。見ている者がいたならば、それは非常
にゆっくりとした光景と映っただろう。
影はしかし、見られることなく、自然の法則に従って、アスファルト道路に
激突した。何度かリバウンドを繰り返した後、勢いをなくしたスプリングウォ
ームのように、影はその場で動かなくなった。代わりに、影の中からは、赤い
液体がさらさら流れ出し始めている。
夕日を借景とし、何とも言えぬ美しさと醜さを、影は創り出していた。
畑洋二の死がその家族に伝えられたのは、同じ日の夜遅くだった。
「死んだ」
畑恵美は、年代物の揺り椅子に腰掛けたまま、相手の言葉をそのまま口にし
た。椅子の揺れはそれでも、常に一定であった。
「はい。幽霊マンションの廊下、あるいは屋上から落ちた様子で、即死だった
ようです。遺体が身につけていた名刺等から、こちらに伺ったのです。大学教
授ということで、そちらにも連絡を入れましたが」
刑事は、眼前の老女が畑家の気丈な女主人で、株のやり手だと知っているた
めらしく、上滑りな口上抜きに、事務的に事実を伝える。
「遺体の身元確認を、と思いまして、ご足労願えますか?」
「分かりました。朝原さん、すぐに子供達に知らせて。早く」
恵美にこう命じられた家政婦は、すぐに電話のある方を向いたが、その動き
が止まった。
「百合子お嬢さんは今夜、コンパで、一次会の会場しか存じ上げておりません
が」
「ああっ! なるべく努力なさい! とりあえず、孝亮だけはつかまえてちょ
うだい」
申し訳なさげな朝原の声にいらいらしたのか、恵美は声を大きくし、手すり
にかけていた手に力を込めた。
「はい」
短く答えてかけて行く家政婦を見やってから、刑事は口を開いた。
「今夜は、このお屋敷には、お二人だけで?」
「そうです。長女の菊子は旅行がちですし、次女は先ほど耳にされた通り、遊
び歩いている始末。孝亮は一家団らんとかで、嫁に孫と連れだって、昼から出
かけていましたから」
「確認は、どうされますか? こちらとすれば、できればお二人くらいはお願
いしたいのですが」
「私は一人で大丈夫です」
「いえ、身元の確認に万全を期すためで、他意はありません。息子さん、孝亮
さんですか? その人と一緒が妥当ですかね」
「……任せます」
ちょっと考えてから、恵美は答えた。
結局、孝亮らの家族が、行き着けのレストランへの連絡で呼び戻されたのは、
刑事の訪問から、軽く一時間経過していた。二人の娘の方はと言えば、長女は
連絡はついたものの、すぐには帰れない状況であり、次女は心配していた通り、
連絡さえつかなかった。
「昨夜は、本当に、ご協力ありがとうございました。心から……」
吉田刑事がその先を続けようとしたところ、畑恵美に遮られてしまった。
「形ばかりの悔やみなんていりません。どうか、捜査とやらを続けて下さい」
場所は、畑屋敷の玄関先。幸いにしてと言うべきか、畑家の主の死が表面化
した翌日は、日曜であった。比較的裕福な家族が集まっているこの一帯は、そ
れこそうららかな休みの朝を迎えていた。
そんな時間にはまるで似合わない、無粋な用件でやって来た吉田刑事は、昨
夜の内から前もって、畑家の人間全員を足止めしておくよう、目の前の女主人
に頼んでおいた。
「長女の菊子は、三十分もすれば戻って来るでしょう。次女の百合子の方は、
まだ見つかっておりません。全く、どこへ行ったのか」
恵美の口ぶりが独り言めいてきたそのとき、家政婦の朝原が駆け足で家の中
から出て来た。
「やっと分かりました。お友達の家に泊まられていまして、昨晩は連絡を入れ
る時間がなかったと……」
「そんなことはどうでもいんです! すぐに帰って来るよう、強く言ってやり
なさい!」
「それはもう、伝えてあります」
家政婦の声はしかし、小さくなりつつあった。恵美の勢いに圧倒されている。
「では、刑事さんをお迎えして。改めて紹介して差し上げるのです。私は部屋
にいますから、二人が帰って来たら、呼びなさい」
「はい。では、刑事さん……」
さっさと屋敷内に戻った恵美を見送ってから、朝原は、吉田刑事を促した。
黙って会釈し、彼女の後について行く吉田。
広間に案内されると、昨夜見た顔やそうでない顔があった。吉田刑事は、勧
められるがままにソファに腰を下ろし、部屋にいる全員を見回した。
「紹介は勝手にやりますので、退がって下さって結構ですよ」
吉田は、そう朝原に伝えた。
「そうですか。あ、あの、刑事さん。コーヒーと紅茶、それとも何か冷たいお
飲物がよろしいでしょうか?」
「ああ、どうも。お気遣いなく」
「いえ、お出ししませんと、奥様がうるさく言われますので」
「はあ。厳密には、もらってはいけないんですがね。では、そうですな。コー
ヒーをブラックで」
その答を聞くと、家政婦はパタパタとスリッパの音を立てて、出て行った。
「それでは、改めて……。こちらの御主人である畑洋二さんが亡くなられた件
で、少し調べさせてもらっています、吉田と言います」
こう言ってから、再び吉田は居間を見回した。
「昨日はどうも。私、洋二の息子の孝亮と言います。知らせを聞いたときは、
ちょうど家族団らんの真っ盛りでして、あまりの落差にちょっと疲れていまし
て。こんな顔で失礼します」
そう言った男の顔は、確かにみっともなかった。元はいいのだが、両目の下
に大きな黒々とした隈があり、疲労の深さがはっきりと分かる。体格はよく、
肉体的には健康そのものといった印象だけに、一層滑稽だ。
「あ、できれば、ご職業なんかも教えていただきたいですな」
「えー、スポーツインストラクターをやっています」
「と、言いますと?」
「私、母からお金を借りて、スポーツジムを始めました。そこで、ウェイトト
レーニングを主に教えています。夏には水泳やスキューバダイビングなんかも
教えます」
「ほう。そうなりますと、奥さんの方は」
「エアロビクス等の、美容と健康によい運動を教えておりますわ」
吉田がみなまで言う前に、孝亮の妻、昌枝が答えた。自信を持って答えただ
けに、年齢の割には若々しい肌をしている。夫の様子とは対照的だった。
「それはそれは。ですが、確か、お子さんがいると伺いましたが、そちらの方
で大変でしょう?」
「いいえぇ。譲君は、手の掛からない子でして。淵先生か小室さんがいてくだ
されば、まるで心配いらないんですの」
昌枝はそう言って、自分の子供の方を振り向いた。
大きなソファに体を埋めるようにして、眼鏡をかけた利発そうだが、生意気
そうでもある男の子がいた。小柄で色の白いその子は漫画を読んでおり、見た
目はガリ勉という感じだ。スポーツが得意な両親を持つとは思えない。
「ちょっと待って下さい。そう一度に名前を出されますと、混乱しますので。
譲君はちゃんとした名前だと、なんて言うんでしたっけ。昨夜お伺いしたのに
忘れてしまって」
「譲次、ですわ。譲るに次と書いて。小学校三年生です」
「あ、そうでしたそうでした。それから、淵先生とか小室とかおっしゃったの
は?」
「淵栄造さんといって、譲君の家庭教師を頼んでおります、大学院生ですの。
義父の教え子さんという縁で」
言い終わった昌枝の後を継ぐ形で、今度は孝亮が口を開いた。
「小室といいますのは、私の友人です。玩具メーカーの男で、よく商品を譲次
にもって来てくれるんです。譲次の奴、『しましまのおじさんが来た!』と言
っては、喜んじゃって、父親として嫉妬したくなるぐらいですよ」
「しましまのおじさん?」
「ええ。小室はいつも、横に縞の入った服を着て来るんです。季節に関係なく」
「ははあ。分かりましたが、そのお二人は、ここには来られてませんよね?」
「はい、今は。ひょっとしたら、淵君は来るかもしれませんが。連絡は行って
いるはずですから」
「分かりました。では、次はあなたのお名前を」
吉田は、端の席にいる女性に声をかけた。昨晩は見られなかった顔である。
「……」
しかし、その女性は答えなかった。ずっとうつむきがちにしていたのだが、
吉田の声に一度、はっとしたように顔を上げ、すぐにまた下を向いてしまった。
今の年齢の半分ぐらいの頃ならば、その美しさに目を見張ったであろうが、今
は彼女の雰囲気が、それを思い返すことさえ拒絶していた。それほどの、一種
の緊張感のような物が、彼女の周りにはあった。
「聞こえませんでしたか? あなたですよ」
吉田がやや腰を浮かせ加減にすると、ちょうどそのとき、家政婦の朝原と、
女主人の恵美が入って来た。
「やっと娘達が帰って来まして……。すぐに顔を出せると思います」
恵美がそう言っている合間に、朝原はトレイに載せてきた飲物を、各自の目
の前のテーブルに置いて行く。
吉田はまた座り直してから、こう言った。
「今、こちらの方に名前を聞こうとしていたのですが、答えてもらえんのです
よ」
「まあ! なんてことを!」
女主人が、いきなり金切り声を上げたので、吉田は正直、驚いてしまった。
最初は自分が何か悪いことを言ったのかと思ったが、そうでないらしいことが
次第に理解できた。
「孝亮に昌枝さん! どうして気を利かせないの! この子は初めての人は駄
目だって知っているんだろうに!」
矛先は、息子夫婦に向けられていたのだ。
顔を見合わせる孝亮に昌枝。しかし、こんな中でも、譲次は本を読んでいる
だけだった。
「お母さん。それなら、お母さんか育美が側についてやりゃあいいじゃないか。
俺達はこんな大人のお守をする義務なんてないんだ」
孝亮の言葉は、まるでさっきと違っていた。育美というのは、家政婦の下の
名前らしい。自分の名前に反応した朝原は、飲物を置き終わると、さっと一礼
をして、部屋から出て行ってしまった。
「そうですわ、お義母さん。こちらは譲次で手一杯ですのよ」
「昌枝さん、あなた、いつも手が掛からないって、譲ちゃんのことを自慢して
いませんでしたかね!」
気取った口ぶりの昌枝を、恵美が一喝した。
「刑事さん、すみませんでした。この子は留依と言います。私と前の夫との間
にできた子供で、四十になるのよね、留依?」
そう呼びかけられた先の女性は、かくんとうなずいた。
「前の夫と言われますと、畑洋二さん?」
「いえ、違います。洋二の前に結婚したことがありましたの、私。神尾友康と
いう名前です」
「失礼ですが、どんな経緯で別れられ、その子供さんがここにいるのですか?」
「友康とは死別したのです。私が二十八でしたから、友康は三十八のときでし
た」
いらいらしていた気持ちが収まったのか、女主人はようやく腰掛けた。
「どうしてお亡くなりに?」
「交通事故です。トラックに跳ねられて、即死だったと当時、聞きました」
当時というと……。吉田刑事は頭の中で計算する。この女主人・恵美が確か、
六十三才だから、二十八のときってのは、三十五年も昔か。
「留依は生まれたときから、身体が弱く、そのため、家に閉じ込もりがちでし
た。体力の方はだいぶ人並に近付いているそうなんですが、性格が内向的にな
りきってしまっていて、他人、特に初対面の人とは私か朝原さんか、医者の石
橋先生が間に入らないと、ご覧の通りになってしまうんです。この子を、私が
再婚するからといって、放っておける訳がありません」
恵美の口調は、最後には英語の構文を訳すようなところがあった。
「……ちょっと、途中で悪いのだが、刑事さん。吉田さんと言ったかな?」
「はあ?」
突然の呼びかけに、吉田はまたびっくりして、声の方を向いた。視線の先に
は、白髪と黒い髭がアンバランスな実年男性がいた。かなりがっしりした身体
つきだ。
−続く