#2637/3137 空中分解2
★タイトル (ETB ) 93/ 1/ 1 22:32 (135)
「江戸日記:酒盗人(さけぬすみびと)その一」 太竹 数馬
★内容
大学に入って最初の夏休みだった。
東京での新しい生活環境に、慣れるだけて精一杯、まだ友達も少なく、一緒に遊び
に行く計画も立てられなかった。
しかたなしに帰った実家だった。
東京で暮らしている時には、なにも感じなかったのに、郷里に帰って気がついた。
初めて経験した一人ぼっちの暮らしが、子供だった自分を、すっかり大人に変えて
しまっている。
たった三ヶ月間離れたただけの故郷だったが、ここには、子供としての思い出しか
残っていない。
大人になった自分とは、すっかり遊離した存在に感じて、馴染めなかった。
何となく心さびしく、かと言って外出する気にもなれず、ゴロゴロと部屋にこもっ
て、数日を過ごしてしまった。
その日は朝からどんよりと曇った空模様だったし、部屋にいても気が滅入るだけだっ
たので、下駄を引っ掛けて裏庭に出てみることにした。
裏には、大きな酒倉が並んで建っているのだが、西の外れに、まるで今の僕の様に、
場違いに、ひっそりと、その小さな古い倉があった。
物置の代わりに使っている倉だったが、その中には、いつの頃からそこに有るのか
も、わからないような、古い収納物も入っている。
子供の頃には、友達とかくれんぼをしたりして遊んだ倉だが、成長するにつれ関心
が無くなり、ここ数年は入った記憶もなかった。
何気なく入った倉は、厚い漆喰で守られた別世界だった。
夏の熱気や湿気から適度に遮断され、ひんやりとして気持ちが良かった。
(古い物でも整理してみようか)
そんな気持ちになった。
倉には、板敷の中二階があった。小さな階段で上るのだが、板を組合わせただけの
簡素な造りで、とても重い物を持って上がることなどできそうにない。
重く大きな荷物はすべて一階に収納されており、二階には細々した物や、めったに
出し入れしない古い物が多かった。
子供の頃にも、滅多に二階には上がったことがなかった。
(本当に何年ぶりに上るんだろう)
そう思いながら、ギシギシと音をたてる階段を登った。
一階には、電燈線が引き込まれており、電球が吊るされていたが、二階には何の照
明設備もなかった。
小窓が、東西の面に一つずつ有り、明り取りの役目をはたしている。
おそらく、何年も開けたことがないと思われる、重い漆喰の窓を押し開いた。
光が室内にさし込み、薄暗く陰気だった中二階が、別世界になった。
そこには、古びた木箱がいく段にも積み重ねられ、箱にはおびただしいほこりが積
もっている。
そんな中でも、ひときわ古めかしい箱が目に付いた。
墨で書かれた箱書きも消えかかり、何が書いてあるかはわからなかったが、みょう
に気にかかり、開けてみる気持ちになった。
上に重ねられた箱を降ろし、その古箱を引きずり出した。
箱の中から出てきたのは、古い日記帳だった。
「奉公日記 太助」という文字が読めた。
我が家は、江戸時代の中期から続く、造り酒屋「菊乃酒造」である。
「太助」は、江戸末期の主人で、それまでは田舎の一造り酒屋でしかなかったこの家
を、全国的にも知られる、有名な酒造元にした、中興の粗だった。
我が家は、なぜか代々男の子に恵まれず、婿を迎えて主人としていた。
男の子である私が生まれた時には、
「天変地異が起こる」
と、本気で心配した古老もいたという。
「太助」は、私の祖父の父、曾祖父の名前だった。
もっとも、家督を継いで、主人になると、「勘右衛門」を名乗る習わしだったから、
この日記は、婿になる以前、江戸での奉公時代の物だろう。
太助は茨城は水郷の生まれで、十三才の時に日本橋にあった「天満屋」という酒問
屋に奉公した。
もともとまじめな性格の太助である。身を粉にして働いたし、影日向のない態度で
あったので、店の主人や番頭、先輩の手代達にもかわいがられていたという。
そんな太助が、十八才になり手代に昇進した頃、酒を送る荷駄とともに、江戸に上っ
た曾々祖父「勘右衛門」に見初められた。
ちょうど娘が年頃で婿を探していた勘右衛門は、太助を婿にと申し入れたのだった。
水飲み百姓の次男として生まれた太助だったから、縁談はとんとん拍子に進み、私
の曾祖父となった。
日記は、数年分・十数冊もあった。
書き始めの頃の物は、まだ文字も幼稚で読みにくかったが、パラパラと拾い読みす
るうちに、その内容に引き込まれてしまった。
商家の奉公人といえば、今は小僧でも、いずれは手代にもなり、番頭にもなって、
店を助けて働き、年期が開ければ「のれん」を分けてもらい、支店となって主家の支
えとならなければならない。
小僧のうちは、研修期間のようなものだ。
天満屋では、まだ子供の小僧であっても、修行のために「利き酒」の訓練を受ける。
今のように品質の良い酒がメーカーから好きなだけ仕入れられる時代では無かった
のだから、酒の品質鑑定は奉公人にとって重要な仕事だった。
太助は、年の割には身体も大きかったし、もともと酒に強い体質だったと見えて、
仲間の小僧達が、ほんの少しの酒で、ていもなく酔ってしまうのに、はるかに年長の
手代と飲み比べても負けなかった。
それはそれで、酒問屋の奉公人としては、優れた素質ではあるのだが、心配性の番
頭は警戒した。
「酒問屋の奉公人はね、酒に強くなくてはいけませんよ。でもね、酒に溺れる奉公人
はこまります。お前達、太助の様子には十分注意をしておいておくれ」
けして意地悪で言っているのではなかった。太助を思う気持ちからの、心配だった。
天満屋は大きな酒問屋だったが、卸しだけの商いではなく、近くに住む貧しい長屋
の住人のためにも、計り売りで小売りをしていた。
良質の、高価な酒は、倉の中に納めており、料理屋や、武家屋敷に配達する。
庶民用の安い酒は、酒樽を土間にいくつも並べて、客の求めに応じて、升で計って
売っていた。
「私はね、ここに座っているだけで、樽の中の酒の量が、どれだけ残っているのかちゃ
んとわかりますよ。ですからね、こっそり盗み飲みをしても、すぐにばれてしまいま
すからね」
喜作は、口癖のように言っていた。
手代が、残り少ない樽から、残量を確認もしないで、客の持ってきた「貧乏徳利」
に酒を入れようとすると、
「これこれ、その樽にはもう二・三合しか残っていませんよ。奥から新しい樽を運ん
でおいで」
と、注意をする。これがまた、不思議なくらいに良く当たった。
喜作がまだ若く、番頭に成り立てのころのこと、天満屋の奉公人の間に、盗み飲み
が横行した。
天満屋の主人は、まだ若かったし、いたって気の良い鷹揚な性格だったから、黙認
していたが、商売熱心な喜作が、その量を計算してビックリした。
一人一人の盗み飲む量はたかが知れているが、なにしろ人数が多い。それが、一年
間の量となると、ばかにならない金額になる。
喜作は、口をすっぱく奉公人に注意をしたが、一向に止まなかった。
そこで、奉公人の盗み酒を監視するつもりで、毎日、樽の残量を確認した。
そのうちに、帳場に座って、客と応対する手代や小僧の動きを見ているだけて、残
量がわかるようになっていた。熱心さが、一種の「特技」にまでなっているのだった。
酒屋の奉公人がこっそり店の酒を盗み飲みする、これが、店にとって、また、将来
一人前の商人になろうとする奉公人自身にとっても、最も良くないことである、そう
確信している喜作だった。
そんな喜作の努力のによって、ここ数年、盗み飲みはすっかりなくなっていた。
江戸の町はさすがに大都会である、天満屋くらいの大店になると、客は日に数百人
にもなったし、店の前に立って銭を恵んでもらう「物乞い」が、多い日では五・六人
も立つことがあった。
「物乞い」は、ある者は歌を歌い、またある者は僧侶の姿で「経」を読み、その日
の糧を得ていた。
大きな店では、そんな「物乞い」のために小銭を紙に包んだものを用意してあって、
番頭の座る机の小引出に入れている。店先で「物乞い」の声を聴くと、気がついた小
僧が番頭から包みを受取り、渡していた。
小僧という身分は、店では最下級の奉公人である。そんな彼らにとって、唯一自分
より目下の存在であるそんな「物乞い」に、日頃のうっぷんをはらす者も多かった。
しかし、生まれながらに気の優しかった太助は、「物乞い」にも親切に応対してい
たようだ。
特に、数日の間隔で店先に立つ年老いた僧侶には、別れてきた故郷の、祖父の面影
を見ていたようだ。
銭の包みを渡す時に、主人や番頭からもらった、饅頭や餅などをこっそり与え、一
言二言と言葉をかわしている。そんな光景が日記からうかがえた。
「お坊さま、寒くなりましたねぇ」
「そうよなぁ。昨夜は、寒くてよう眠れんだったわ」
「それは、いけませんねぇ。お身体を大切にしてくださいね。これは、番頭さんから
いただいた大福の残りですけど、良かったら食べてくださいね」
「小僧さんは、親切にようしてくれるのう。おかげで、今日はひもじゅうもならず、
暖かく眠れそうじゃ。ありがとうよ」
何度も何度も、頭を下げる僧侶だった。
つづく