#2621/3137 空中分解2
★タイトル (NEA ) 92/12/28 6:55 ( 77)
ろくじゅうにのにーさんよんぜろ(3) ほりこし
★内容
貴史を明日休ませる訳にはいかない。どうしても、今晩中に電話番号を言える
ようにしよう……美菜子はそう決意した。
まず、「0」という概念を覚えさせなければならない。
美菜子は少し考えて、財布の中から10円玉を3枚取り出し、それをオモチャ
で遊んでいる貴史の前に並べると、貴史はキョトンとして美菜子を見上げた。
美菜子の顔色を見てただごとでない事を察したのか、貴史の表情も引き締まり、遊
んでいる手を止めた。
「なあに……?」
「明日、おばあちゃんの所には行かないの。今日中に電話番号を覚えるのよ」
「今日中に?」
貴史は不安そうな目をして、美菜子に答えた。
「そう、今日中!」
「うん……」
貴史はしかたなさそうにうなずいて見せる。
「この10円玉、何枚ある? 数えてみて」
「えーと、いち……にー……さん……3枚!」
「じゃあ、これは?」
そう言うと、美菜子は10円玉を全部取り除いた。
「ない」
「ない事を『ぜろ』って言うの。言ってみて『ぜろ』」
「ぜろ?」
「そう、ぜろ」
美菜子は10円玉を何枚か置いては数えさせ、全部取り除いては「ぜろ」と言
わせた。
あなたには伸郎さんの血と私の血が流れているのよ。こんなことすぐ覚えられ
るはずよ……そう思いながら、必死に「ぜろ」ということを教える作業を続けた。
そうしているうちに、貴史は何にもないことが「ぜろ」と言う事を理解したよ
うだった。
今度は、美菜子はさっきの菓子折りの箱の残りで10枚のトランプ大のカード
を作り、マジックインキで「0」から「9」までの数字を書き入れた。
それから、美菜子は10枚のカードの中から「0」1枚を取り出して、貴史の
前に置いた。
「これがその『ぜろ』って言う数字なの」
「うん、分かった。『ぜろ』」
「0」から「9」までの数字のカードを取り出しては読ませ、また別のカード
を取り出しては読ませる。この繰り返しである。
貴史はそんなに苦もなくすんなりと答える。
やっぱり、あなたは違うのよ。「かすみちゃん」なんかとは比べものにならな
いわ……貴史が次々と数字を答えていくたびに、美菜子には自分の事のように嬉
しさがこみあげて来た。
あとは仕上げである。
美菜子が最初に作った「62の2340」と書いてある大きめの短冊を貴史の
目の前に見せる。
「『ろくじゅうにのにーさんよんぜろ』、読めるでしょ」
「うん、読める。『ろくじゅうにのにーさんよんぜろ』」
次は、短冊を美菜子の背中に隠してしまい、
「いま、なんて書いてあったっけ?」
「ろくじゅうにの……」
「はい、これよ」
と、美菜子はまた短冊を出して見せた。
「『にーさんよんぜろ』だ!」
美菜子は貴史に何度も何度も電話番号を暗唱させた。分からない時は短冊を出
して、また読ませる。
繰り返しているうち、貴史は自分の家の電話番号を短冊を見なくても暗唱でき
るようになってしまった。
「貴史、お家の電話番号は?」
「ろくじゅうにのにーさんよんぜろ!」
「電話番号、言えるじゃない。これで保育園休まなくてもいいわね」
「うん、明日、保育園に行く」
貴史は嬉しそうに答えた。
「貴史、アイスクリーム食べようか!」
「いいの? おやつの時でなくても」
「きょうは貴史が電話番号覚えたから特別」
「やった!」
貴史は喜んで冷蔵庫からアイスクリームを持って来た。
「貴史、アイスクリームで乾杯しようか」
「うん!」
「乾杯!」
「かんぱーい!」
貴史が電話番号を覚えた……伸郎が生きていたならなんていっただろう。私の
した事を誉めてくれるかな……伸郎のことだからきっとただにっこりするだけか
もしれない。
でも、美菜子は満足だった。
これから貴史と生きて行くうち、これより大変な事がたくさんあるだろう。し
かし、それも、乗り越えて行けるような気がした。
(終わり)