#2446/3137 空中分解2
★タイトル (GKG ) 92/12/ 8 1:36 (115)
海に咲く花 (上) 瑞城翔冴
★内容
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海に咲く花
瑞城翔冴
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潮騒が聞こえる。
「闇夜は嫌いだ。あれは月を喰らう。我があれに巡り会えるのは、月が天にある刻だ
けなのだ」
繰り返し、繰り返し。打ち寄せる波は岩にぶつかって砕け、白いしぶきがここまで
飛んでくる。
「我の時間は無限ではない。命果てる迄に、我はあの方に会いたいのに」
海へと吹く風が衣を、花を揺らし、彼方へ流れていく。
「会いたい、のだ……」
天の極みから又一つ、星が海へ流れた。
天を見上げて繰り返す水仙(ハナ)の化身。その肩は白く華奢で、触れれば砕けると錯
覚する。しかし、凛として海と正対する細い躯は身を切り裂く刄をものとせず、ただ
遠い彼方を見据える。
一面に咲き乱れる白い水仙。その只中に立つ、白い衣の少女。
いかなる強風が吹き荒れても、その背を折る事は出来ない……きっと。
――俺は、どうしてこうしているのだろう……
彼はぼんやりと考えながら、彼女の背中を眺めていた。
それは、身を切る程に冷たい風の吹く夜。
空に月は無く、海にも灯火の無い、そんな夜。
峠を越すと、海が見える。そして、その海に降り注ぐ流星も共に。
――俺は、眠れなくて海を見に来たんだよな……
むせ返るような花の匂い。甘く、強く、心を惑わす。
まだ夜の明けぬ、逢魔が時。海を見に来た自分は、道を外れてこの白い花の咲く岩
場へ降りていった。
かかとで蹴飛ばした石が、乾いた音を立てて転がり落ちた。
その音で、そこにいた人影が動いた。立上り、身体をこちらへ向けた。
白い空間。咲き乱れる白の花。その只中で立ち尽くす一つの立姿。
衣の端が風になびく。風に揺れ、地を擦る間際までに茎がしなる。それでも尚、土
に塗れる事を拒み、更に香を放つ。それは花の様で……
『――ラーフ?!』
……星、天より流れ落つる。
飛びつかれて尻餅を着いた、長い悲鳴を上げた事だけ覚えている……
寄せては返す、海の波。気の遠くなる程の彼方から、続けられた原始の波動。
天と地との遥かな境目は夜に呑まれて見いだせず、海は暗黒となり彼等の前に巨大
な口を開ける。
海は黄泉に最も近いのだと、誰かが教えてくれたのを思い出す。ここは黄泉平坂、
生者と死者の別れる果て。
……視界の端を、刹那星が流れていく。
「……どうした?」
思いが破れる。
海を見ていた筈の彼女が、今は自分を見ていた。
「眠そうな顔をしているぞ……」
「そ、そうか?」
声に混じる雰囲気が彼を慌てさせる。小さな微笑が風に舞い上がった髪の蔭からこぼ
れた。瑕瑾の一つも無い指が、うるさげに落ちてきたそれをかき揚げる。
圧倒的な存在感。綺麗で、綺麗な……愁い?
華奢で儚げな透明な刄。たとえ砕けたとて、破片と化しても地に伏さない。
紅に染まる、凍った白い花弁。
幻影に戸惑う彼に笑い声が届いた。見れば、少女が袖で口元を覆って笑っている。
「――?」
「いやな、今の御前の顔が先程に瓜二つだ……あんな大声を出されるとは、我はそ
れほど醜悪であったか?」
「いや、そんな事はない、絶対無い!」
大声に、少女がきょとんとする。少し身体を傾けた姿勢で止まってしまった彼女。岩
に遮られる波頭。出来てしまった静寂に、潮騒だけが繰り返す。
強く握り締めた拳を自ら左右交互に見て、彼はぎこちなくそれを降ろした。
――何やってんだ? 俺。
目の前にいるのは白い印度の民族衣装に似た衣を纏った華奢な少女で、どうして悲
鳴など上げたのか理由が思い付かない。
気が付けば、こうやって話をしている自分がいる。
「それは……感謝する」
彼女は小さく肩をすくめるようにして笑った。混じり気のない、絹糸にも似た長い髪
が笑う振動を伝えて揺れる。
凍て付いた幾千の星。瞬きさえ止めるかと思うほどの冷気。
雲一つない空、星は天に撒き散らされた光の砂粒。
「珍しいぐらいだな。ここまで良く晴れたのは」
背後から水平線に掛けて――丁度、天頂から北極星を経て水平線まで。常なら水平線
辺りを覆う靄も、今日はなりを潜めている。
彼の言葉に少女も小さく同意した。そして、再び彼に背を向ける。飽きもせず、身
じろぎさえしないで空を見上げる少女。肩や拳に力を込め、天を仰いで立ち尽くす。
風がくるぶしまで届く髪を吹き流す。闇夜の中で、それを鮮やかに見る事のできる
不思議。それが周囲に溶けこまない違和感の為だと判ったのは遥か後の事。足元に咲
き誇る水仙の化身に見えたその子供は、どんなに美しくとも花ではなかったのだと、
気付いたのはずっと後。総てが終ってしまった後の事となる。
静かに海に還る星座達を、彼等は黙ったまま眺めていた。
花が、揺れている。
むせかえる水仙の香。微かに漂っていた潮の匂いも、もはや感じとれぬ。
――俺は、何をしている?
自らに問いかける。吹き付ける風は容赦なくその身にぶち当り、僅かに露出した肌
から体温を奪う。手足の端から冷気という名の微粒子が降り注ぎ、布を肌を越えて染
み通っていく。
風が、あの美しい白絹を舞わせる。闇が、その姿を煌かせる。
かの者は静かに天を仰ぐ。吹き乱される純白の衣。
山より来る青ざめた刄。かの者を守るのはその身に纏わせた色の違う空気。馥郁た
る花の香。
カチカチカチカチ……
唯一の不協和音。
耳に届くのは己の歯が鳴らす音。風渡る音、葉ずれの音、波の砕ける音。降り積も
る静寂を飾る音色の鼓動はカオス。
細かい震えが止まらない。
――何故だ?
確かに寒い。肌からは血の気が失せ、筋肉が硬直する。しかし、それだけではない。
外からでなく、身体の芯から湧き上がる震え。
網膜に華奢な立姿が焼き付く。姿から眼が離せない。
――何故? 俺は一度も、あいつの顔を正面から見てすらいないんだぞ。
ならば、どうして自分はここに立っているのだろうか。
何故、これ程あれの一挙一足に目を奪われるのだろうか。
そして、なにゆえに視線を会わせる事が出来ないのだろうか?
身振るいする。身体のあちこちが硬直する。
――俺は、あの時何を見たのだろうか……
風は、吹きやまない……。