#2409/3137 空中分解2
★タイトル (RAD ) 92/11/27 0:28 ( 74)
希望の果てに……(5) 悠歩
★内容
生け贄はリンともう一人若い男だった。
男の方は抵抗する力は残っていないようだったが、「助けてくれ、助けてくれ」と
必死に命乞いをした。しかしやくざ達はそれを無視して、リンと男の手をロープで縛
り、そのロープの端を船の手摺に括り付けた。
「よーく、見てなよ。あんたに懐いていた娘の最期だ。あんたが希望するなら、あの
娘の代わりにあんたを殺してもいいんだけどねえ……」
私はリンを殺させたくなかった。しかしそれ以上に私自信が生きたかった。
『リンの代わりに私を殺してくれ!』
喉まで出掛かったその言葉を飲み込んだ。
いやだ。私は死にたくない………。
「やれ」
シンの合図と共に、哀れな二人の犠牲者の体は海に投げ入れられた。
リンと男は必死に泳ごうとした。しかし極端に衰弱した体の上に、両手を縛られて
いては、まともに泳ぐことなど出来はしない。
弱々しくもがく二人の体が、海面に浮かんだり沈んだりしている。
海面に浮かんだリンの目が私の方を見つめている。気の性かもしれない。必死に泳
ぐリンにそんな余裕などある筈はない。だが、私の目にははっきりとリンが私の方を
見ているように写った。
やがて二人は海面に出ている時間より、海中に沈んでいる時間の方が長くなり、始
めにリンが、その後すぐ男が力尽きた。
やくざ達は手摺に結んだロープを手繰り、リンと男の亡骸を引き上げた。そして、
二人の亡骸を大きな鉈でばらばらに刻んだ。
それを元々は飲み水を蓄えるために用意された鍋に、海水を満たしたものに入れて
ぐつぐつと煮込んだ。
「さあ、召し上がれ」
シンが私に差し出したのはリンの右手首だった。
あの可愛らしい無垢な少女が、無残な姿となって私の前にある。
私は吐き気を覚え、何もない筈の胃から胃液を吐いてしまった。
「おや? 食べないのなら、捨ててしまいますよ」
いやらしく笑いながらシンはそれを海に捨てようとした。私は慌てて、それに飛び
付いて頬張り始めた。
「そうそう、人間正直にならなければ…ね」
こんな事を言っても誰にも理解して貰えないだろうが、リンの右手はとてもうまかっ
た。昨日食べたあれよりも。食べながら私の頭の中には、リンの笑顔や泣き顔、はに
かんだ顔、驚いた顔、様々な表情が浮かんできていた。それでも私はそれを食べ続け
た。食べることを止められなかった。
シンも肉の固まりをかじりながら、私の耳元でそっと囁いた。
「明日は、あんたの番だ」
私は今こうしてニッポンにいる。つまり私の番は回ってこなかったのだ。 翌日の
早朝、私たちの船はニッポンの漁船に発見され、連絡を受けた海上保安庁の巡視艇よっ
て曳航されてきたのだ。
私は始め、殺されずに済んだことと、ニッポンに着けたことに喜んだ。しかし時間
が経つにつれ、自分のしたことの恐ろしさに気付き、気が狂いそうになってきた。
シン達が処罰されるのかどうかは分からない。
係の人の話だと私が処罰されることは恐らく無いと言うことだった。処罰された方
がどれ程、気が楽になった事だろう。
ニッポンの現実もベトナムで聞いていた話とは違っているようだ。いくら私たちが
希望しても、この国が私たちの受入れを認めるかどうか分からない。
もし受入れが認められても、私には素晴らしい生活が待っているとは思えない。
自らの命を断つ勇気さえない私は、これから一生ホアとリンの母娘の事を背負って
いかなければならない。いやだ。忘れたい。
もし私たちが発見されるのが遅ければ、私は何も考えることは無かったろう。しか
し、それは考えるだけでも恐ろしい。
もし発見されるのが一日早かったら……。
こんな事は所詮、言い訳に過ぎない。私は己が生きたいがため、リンを口にした。
被害者を装いながら、その実はシン達と同罪なのだ。いや、それ以上に私は卑怯な汚
い人間なのかも知れない。
明日、国連難民高等弁務所での面接がある。そろそろ寝たほうがいいだろう。しか
し私に安眠はない。あれから私の夢の中には必ずホアかリンが現れる。きっとこんな
事が生涯続くのだろう。
私の心に救われる日は来るのだろうか。それは空しい希望だ。罪を犯した私には当
然の報いである。
たぶん、もう私は家族と顔を会わせることは無いと思う。私自信の心がそれを許さ
ないからだ。ニッポンで働くことが許されたなら、お金だけは送るつもりだ。
それから……ホアとリンのお墓も私が建てなければならないだろう。
(終)