#2393/3137 空中分解2
★タイトル (DRB ) 92/11/23 3: 7 (198)
フクさんのいた年(二) くり えいた
★内容
恍惚としている私に唐突にフクさんがそんなことを言うので面食らった。
あの顔のどこがハーフなのだ。眼は切れるように鋭いけれど目蓋は一重
だし、髪の毛だって真っ黒だ。
「お父さんが日本人、お母さんが韓国人」
そう言いながらフクさんが立ち上がった、いや、膝をついて起き上がっ
た。襟を両手で正し、帯をぎゅっと締める。柿本さんがフクさんに目で
礼をする。
フクさんの怒涛の連続正拳突きは凄まじかった。フクさんの場合、相
手の腹を狙おうと思うと普通より上に突かねばならないから、疲れは倍
増する。それが全く休みなく、息をつかせぬスピードで連続して繰り出
されるのだ。柿本さんはさっきの様に後ろに廻り込んだりせず、正面か
らブロックしたり横に流したりして真剣に受けていた。フクさんのパン
チの何発かはまともに入った。柿本さんはやっぱり速いまわし蹴りをと
きどき入れたが、さっきの最後の蹴りのような力は決して入れていなか
った。フクさんはしっかり両手で受けていた。パンチの応酬になること
はあったが、柿本先輩の技にフクさんの足を狙うような蹴りは一本だっ
てなかったことは素人の僕にだってわかった。フクさんの技は最初から
最後まで正拳突きだけだった。
最後に皆で並んで社の神棚に礼をする。左手から夕暮れの木洩れ日が
やわらかく差し込んで、男達の稽古着が何だかとっても赤かった。
夏
僕は蚊取り線香の匂いが好きだ。この煙の匂いを嗅ぐと、小学校の頃、
夏休みに祖母の家で蚊帳を釣り釣り寝た晩を思い出す。布団に頬っぺた
を押し付けた時のひんやり冷たい感触がよみがえる。バラックの道場の
夏は夜も暑い。窓や戸口を開け放すので、どうしても蚊が多くて嫌にな
る。さっきから僕はこの煙の匂いを吸い込みながらサンドバックを蹴っ
ている。稽古が終わった後に、これを三十分間ほどまわし蹴りしてから
帰るようになったのだ。稽古はまだまだきつかったけど、体力に少し余
裕が出てきたせいもある。それよりも何よりも僕は、まわし蹴りが出来
るようになったことが嬉しくて仕方がなかったのだ。もちろん僕のは真
似事で、山崎さんや柿本さんの蹴りなんかとはまるで格が違う。でも身
体の柔らかさには多少自信があったので、足は結構高く上がったし、腰
も回ってサンドバックは「ぱーん・ぱーん」と小気味良い音を立てた。
懐手をしながらそばで見ていたフクさんも「うん、いいね」なんて言っ
てくれて、蒸し暑い宵のひととき、もう気分だけはしっかりブルース・
リーだった。
「いっ、にっ、あん、ちいっ、ごっ、ぅおく、いっち、あち、ぐっ」
ボケ松が数を数えている声である。ボケ松はしゃがみこんで、むんむ
んベンチプレスをやっている柿本さんを飽きもせず眺めていた。バーベ
ルが上がり下がりするのと、ボケ松の黒目の上がり下がりとはきちっと
同期していた。彼は人間カウンターである。柿本さんが止めないとおそ
らく死ぬまで気合を入れて数え続けるだろう。
「押忍」と挨拶をして、僕等白帯コンビは必ず一緒に道場を出た。振
り返ると、柿本さんとフクさんが一緒に反対側の灯りに消えていくのが
見えた。ボケ松と一緒に出たのはワケがある。僕等は白い白い月明りの
田んぼ道の石を蹴りながら、何も言わずに歩いた。まだ青いねこじゃら
しをぐるぐる振り回すボケ松の白いTシャツに、黄金虫がくっついてき
らきらしていた。どこかで盆踊りの太鼓の音が聞こえる。僕はこの町が
やっぱり好きじゃなかったけど、夏の田舎は好きだ。賑やかな炭坑節の
音楽が終わると、風が気の早い虫の声を運んでくるのに気がついた。川
の水音が聞こえる。ふと土手の上を見ると派手な外車が置いてある。派
手な外車は夏の田舎にお似合いだ。誘蛾灯の青紫が黒塗りのボンネット
に反射して、どこか夢で見た風景だと思った。
僕等は「ちんぽこ岩」の頭を撫でてから、石段を一気に駆け昇った。
僕等の秘密の特訓の始まりだ。ただ一つ灯った裸電球の下、僕等はお互
いに向き合って構えをとる。何のことはない先輩達の組み手にしっかり
感動してしまって、その真似事を最近この境内で毎晩やっていたのだ。
白帯は組み手は禁止だから、夜人気のないこんな場所でやるしか仕方が
なかったのだ。僕等が派手な気合を入れてぼかぼかやりあっているのを
先輩達が見たら吹き出すようなものかもしれないが、僕等は結構真剣だ
った。ボケ松は下半身がしっかりしていて見た目より体重がある。子供
の頃から自転車で新聞配達をしているせいだとフクさんが言っていた。
ボケ松がまわし打ちを連発する。ちょうどボクシングのフックのように
拳を外側から腹に当てるのだ。ブロックしている腕の上から当たっても
結構痛い。僕は後ずさりしながら無防備のボケ松の顔に高いまわし蹴り
をお見舞いした。とはいっても頬ぺたにパンと当てただけだ゚が。ボケ松
は「あ」と言って尻餅をついて笑う。
「ごめんごめん」と僕がボケ松の手を持って起こそうとしたときだっ
た。社の方の暗がりからくすくす嗤い声が聞こえた。僕等ははっとして
顔を見合わせる。ボケ松の顔が真っ赤になるのがわかった。おそらく僕
もそうだったろう。人影が二つ三つと近づいてきて裸電球の光の届く範
囲に入った。いい匂いがした。細い煙を吐く紅い唇、半分金色に染めた
髪、短いスカートの奥からまっすぐに伸びた白い脚、肩を出した黒い服
の前面はぷっくり盛り上がって、おっぱいの谷間が覗いていた。その後
から来た影はゴリラかと思うほど大きかった。その顔に見覚えがあった。
後のアロハの二人はひょろひょろしていたが、頭の形と目つきを見ると、
あまりお付き合いしたくない方達だった。
「お兄さん、すごいキックだね。俺も稽古の仲間に入れてよ」
にやにやしながらボクシングの構えをするゴリラは僕の大学の一級上、
相撲部の副将だった。いや正確に言うと相撲部は退部させられたから、
ただのチンピラだった。うちの大学は相撲部だけは強いので、全国大会
の壮行会を正門前で大々的にやっているのを眺めたことがあったのだ。
なにせ巨漢揃いの相撲部でひときわ大きかったので、その顔は忘れない。
町のその筋の方々と傷害事件を起して、ひところ大騒ぎになったことが
あった。やくざとモメてもその後元気でいられたのは、ひとえに彼の親
父さんが市会議員だったからだと、地元の友人に聞いたことがある。そ
ういえばあの外車……ゴリラの息は酒臭かった。
ボケ松と顔を見合わせる。ボケ松の顔はさっきの赤さはどこへやら、
蝋人形のように真っ白だった。おそらく僕もまったく同じだったろう。
「ぼ、僕等は……もう帰ろうかと……思ってたんです」
僕はお臍の奥がきゅっとなって声が少し裏返っていた。ゴリラはしゃが
んで僕の顔をへらへら笑いながら眺め上げていたが、突然目が釣り上が
って、どす赤い顔を僕の方に向けたまま右手を伸ばしてボケ松の股間を
ぎゅっとつかんだ。ボケ松は「あっ」と叫んで、丸くなった。
「メグミちゃんもさあ、そいつにちゃんと付いてるか、見てやって、見
てやって」
汚い口髭のヤンキーがそんなことを言った。メグミという女はゴリラの
前にしゃがんで僕の顔を見上げた。目が大きくて鼻筋の通った顔立ちだ。
こんな状況でなくて、町ですれ違っていれば振り返ったろう。ゴリラの
手が後ろからメグミの乳房をつかむ。女は小悪魔のようなうすら笑いを
浮かべて、マニキュアで真っ赤な指をまっすぐ突っ立ったままの僕の下
半身にひょいと差し出した。僕は思わず後ろに下がって、その手をぱし
っと払いのけた。突然ゴリラが立ち上がって僕の方に飛び掛かり、頭の
上から髪の毛を鷲掴みにした。そのスキにボケ松がひょっこり起き上が
って、だっと一目散に石段に駆け出した。「おんどら、おんどら」何を
言っているのかわからなかったが、そんな事を言いながら猛烈なスピー
ドで転がるようにボケ松は石段を駆け降りていった。ヤンキーの一人が
後を追いかける。持つべきものは友である。
「ねえっ、稽古やろうよ」
そう言いながら髪の毛をつかんだ手と反対側の手でまた僕の股間を握ろ
うとする。あまりのしつこさにかっとして、僕はその顔めがけて思い切
りまわし蹴りを打ち込んだ。ばしっと音がして手応えを感じたが、その
足は地面には決して降りなかった。股間を握ろうとしていたその手が僕
の足を顔の横でしっかり握っていた。髪の毛をつかんだ手が放されて、
その分厚い手のひらが僕の顔の前で突然大きくなった。頭の中に真っ白
い閃光が走り、つーんと何かが焦げるような匂いがした。涙で裸電球の
光がぐにゃぐにゃに歪んだ。咽喉の奥がぬるぬると熱かった。後ろに頭
からふっ飛んだ僕は、何が起ったのかわからずにうつぶせにはいはいを
するように下生えをまさぐった。生暖かいものが糸を引いて鼻から地面
へ流れ落ちた。メグミという女が「やっちゃえ、やっちゃえ」と興奮し
ているのが見える。美しい顔は笑っているが目の端が釣り上がっていて、
口の横に白い泡のような唾をためていた。僕にはそれが田舎のおばあち
ゃんの家にあった般若のお面に見えた。
どのくらい時間がたったのだろう。さんざん遊ばれた僕は、聞いたこ
とのある音を天の川の夜空に聞いた。見えたのはボケ松の顔だった。そ
の後にフクさんの顔だった。僕の身体からするんと力が抜けた。かしゃ
んかしゃん音を響かせながら僕等の方に歩み寄ったフクさんは、僕の胸
倉をつかんで引きずり回しているゴリラの顔を覗きこみながらゆっくり
と言った。
「すいませんが、こいつはうちの道場生なんです。どんな失礼を働いた
かは知りませんが、勘弁してやってください」
ゴリラは赤い顔をちょっとフクさんの方に向けたが何も言わずに片手
でフクさんの胸をどんと突いた。フクさんはそのまま両足をまっすぐに
したまま後ろへどんと尻餅をついた。そう言えばつい忘れがちになるが、
フクさんは常に竹馬に乗っているようなものなのだ。また私の方を向き
直ったゴリラの肩にもう一人の手がかかった。ゴリラが振り向くと柿本
先輩の顔が見えた。柿本さんの例の眼に何かを感じたのか、今度はゴリ
ラは僕の襟首から手を離して柿本さんの方へ向き直って胸を張った。こ
うやって並ぶと、柿本さんはゴリラの半分くらいの身長に見えた。ゴリ
ラが例の張り手が飛んだ。
「すいません。勘弁してください。お願いします。あ、暴力は止めて
ください。謝ります。すいませーん。すいませーん。すいませーん。す
いませーん。すいませーん。すいませーん。ごめんなさーい」
柿本さんが大きな声で叫んでいた。勝負はついた。こうやって書くと
柿本さんが土下座して謝っているように思うであろう。だから無粋な解
説をする。最初の「すいません」の所で、ゴリラの張り手を左の内受け
で払いながら左サイドにステップし「勘弁してください」と言いながら
左手でゴリラの肩をしっかり握って前のめりにさせ、右の正拳を顎にす
こーんと叩きこむ。「お願いします」でそのまま左足を軸足にして右足
を後ろに引き、くるっとゴリラの斜め後ろに廻り込み、右手で首を上か
ら押さえて頭を下げさせる。「あ、暴力はやめてください」と柿本さん
は情けない声を出しながら、肩を固定され首を押さえつけられて丸くな
ったゴリラをぐるんぐるん振り回し、境内中を引きずり回すのだが、
「すいませーん」とひとつずつ言うたびに強烈な「膝蹴り」を右手で上
から押さえつけた首にカウンター気味にゴンッ・ゴンッと思い切り叩き
こんでいるのだ。いくら大きい人間でも顔だけは鍛えようがない。見る
見るゴリラの顔は血まみれの平家蟹になった。最後の「ごめんなさーい」
がもちろんあの伝家の宝刀「まわし蹴り」であったことは言うまでもな
い。
僕は地面に尻をついたままぼーっとまるで映画でも見るように、柿本
さんの立ち回りを眺めていた。
柿本さんはにこにこしながらフクさんを起す。僕はボケ松に起しても
らいながら、周りを見回した。ヤンキーの口髭のお兄さんが一人で惚け
たような顔をして立っている。メグミという女はいつの間にやら消えて
いた。柿本さんは彼に気がついたのか、そちらへ歩み寄ってその直立不
動の男に低い声でつぶやいた。
「もうこんなに謝ったんだから、許してくれるでしょ」
男は「はいっ」と裏返った返事をして飛ぶように逃げていった。
「飲み直すか」とフクさんが言った。そばの茂みで虫がちちちと鳴いた。
僕等四人は明りの消えた道場の前を素通りして、繁華街の方へ向かっ
た。さっきボケ松を追って行った男が鼻血を流しながら大の字になって
横丁の路地で寝ていた。フクさんが扉を押した店の看板は「ゴンドラ」
となっていた。看板は「ラ」の字の上の一本線が取れてなくなっていた
が、接着剤の跡が残っていたので、ちゃんと読めたのだ。さっきボケ松
が「おんどら、おんどら」と叫んで駆けていった意味が僕にもやっとわ
かった。僕等四人はまだ飲みかけのグラスの二つ残るテーブルについた。
ドレスの上にエプロンをした背の高いママさんがグラスと氷のお代わり
を持ってきてくれた。この田舎には珍しい宝塚の男役のように目鼻立ち
のはっきりした顔が僕の顔を眉間に皺をよせて覗きこんだ。
「あれ、この子なんて顔かね」
僕はまるで母親が子供を叱るときのような言葉を駆けられて、思わず手
を鼻の下に持って行った。ママさんはお構いなしにひょいと花柄のハン
カチを取り出すと、ミネラルウォーターで湿らせて、僕のすっかり乾い
て黒ずんだ鼻血の跡を拭ってくれた。「喧嘩したらいかんよ。喧嘩した
らいかんよ」と何度も言いながら。ハスキーな声だ。ぱりぱりとはがれ
るように黒い血の塊はハンカチを汚した。ママさんの手はとってもいい
匂いがした。僕はさっきのメグミという女を思い出した。ママさんは
「こんな子に喧嘩させたらいかん」とフクさんに向かって小さい声で言
った。フクさんはうつむいて赤い顔をして笑っていた。
(三)に続く