AWC  場所固定>月面                    瑞城


        
#2348/3137 空中分解2
★タイトル (GKG     )  92/11/ 8  21:45  (195)
 場所固定>月面                    瑞城
★内容
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 場所固定>月面
               無夢廃園
                                 瑞城翔冴
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―― 月の面にがまのような斑点が見えるのは、即ち嫦娥(こうが)の姿である。こ
  の女は夫が西王母から貰い受けた不死の仙薬を飲んだ。そして夫の怒りを恐れて
  大空に逃げ昇り、ついには月宮に身を隠して月の精になったという。
                            『中国の神話』より


    ……そは罪か?


 ぽーん、ぽーん、ぽーん……
 ゆったりとして、そのくせ軽快な足音が狭い月面に響く。
 柔らかくて綺麗な毛皮に、天より清浄な青白い光が降り注ぐ。跳ね回る二羽の月兎
を、天を占める青い星が見つめている。
 荒涼たる月宮に、動いているのは彼等ばかり。
 兎達はあるところまで来て足を止めた。互いにつつきあうばかりでその先に進もう
としない。   マドイボシ
 行く手には、女の姿があった。玉座である岩に腰を降ろし、地の端に掛かった惑星
を見ている。その姿は静寂に包まれ、兎達は声を掛けるのをためらった。
 彼等の足元で砂が崩れた。緩やかに静かに、深みに落ちていく。
 草一本生えていない不毛の大地、あるのは砂ばかり。
 つつきあう二羽、そのピンと立った長い耳に、笑いの波動が届く。
「おや、玉兎達。揃って何処へ行く?」
声を掛けたのは、星を見上げていた女である。少し笑いを含んだ表情で――それでも
何処か哀しい笑みで――二羽を見ている。
「今日は仙薬をつかずとも良いのか?」
 女は若かった。身を飾る宝石もない姿が虚空より来る星明りに煌く。典麗なその容
姿には、曇りのない笑みこそが宿るべきと誰もが思うであろう。だが、今その瞳に見
えるのはは深い暗闇。夢も希望も見いだす事の出来ない、絶望と云う名の底無し沼。
 ここは月。夜を照らすべき月鏡。
―― 月の中には兎が棲んでいる。これを玉兎という。夜になり、月が空に照り出す
  と、一生懸命になって薬をつき、世の人々に幸福を降す。人はいう。これはそれ
  らの業であると……
 兎達は顔を見合わせると、嬉しげに足元に飛び寄った。
 果ての無い漆黒に浮かぶ奇跡、輝ける青い星。ここは青き地界を巡る衛星、月宮。
 砂と岩の月宮に誇るべき唯一つの輝き。月に棲む者、月の精。天地を統べるの黄金
律に定められた月宮の主、その名を嫦娥という。
「はい、嫦娥様。今宵は新月で御座います故。我等の仕事は休みであります」
「今日はお天気も良いので、一つ星見と洒落こもうかと思いまして」
兎達ははきはきと答える。古来より兎の瞳は赤と決まっているものだが、月に棲む彼
等のそれは深青であり薄紫である。それは杵を振るう兄兎が天より降る青に染まり、
返しを入れる妹兎が下ばかり見て兄より淡く染まったからだという。
「媛様もおいでませ。今日は月兎特製の餅もあるので御座いますよ」
「今宵は和風に致しまして。お茶も毛繊も準備してありますよ」
「おいでませ。ねえ」
妹兎がそっと袖を引く。嫦娥は緩やかに微笑んだ。
「では、馳走になろうか」
兄妹は嬉しくてぽーんぽーんと跳ね回る。手放しの喜び様に、その瞳が僅かに和んだ。


 見通しの良い月面に、目にも鮮やかな紅毛繊。見上げる天に覆いかぶさる巨大な星。
 一人と二羽は、揃って青白い星の輝きを浴びる。
「はい、嫦娥様。どんどん召し上ってくださいな」
妹兎が餅の皿を勧める。皿にうずたかく積まれた餅は、薄桃色をしている。
 兄妹は嬉しそうに彼女の脇で喋っていた。彼女を見て笑い、互いの顔を見て笑う。
「全く、よいお日和ですねえ」
「あんなに地界が綺麗に。ねえ嫦娥様」
地界――惑星――地球。水に覆われ、緑に覆われた星は、日輪の光を浴びて光り輝く。
 月面から地界を見上げる。まるで、のしかかるような青緑の天。
   双子星。共に日輪を巡る。
   地界の上からも、誰かが月を見上げている。
    見えるだろうか?
    ここに、我が居ることが。
 微動だにせず、惑星を見つめる彼女。小さな溜息がこぼれる。
「……嫦娥様? ねえ、媛様? 如何なされました?」
青白い光を浴び、彼女の白い面に蔭を落とす。隠せぬほどの哀しみの色に、不安になっ
た兄兎が袖を引く。
 ふわりと、綿飴が融けるような感触。
 夢から引き戻された旅人。青白い笑みをたたえる。
「ああ、すまぬな。つい地界に魅入られてしまった」
「嫦娥様、月宮より地界がお好きですの?」
妹兎がこわごわと尋ねる。小さな前足が衣の端を強く掴む。
 兎の目に映るのは、彼方へ消え去る月の精。
 ……はかなくなる。
「何処へも行かないで下さいまし。玉兎一生のお願いにございますから」
「莫迦な事を。私は月宮の主。ここより在るべき場所はない」
突然何を言い出すのかと、嫦娥は目をしばたかせる。
「地界は惑星。あの美しさに暫し惑わされるだけ。それだけだ」
身を擦り寄せてくる妹兎をそっと抱き寄せる。傍らの体温は彼女を月に繋ぎ止める鎖。
 声に出さず反芻する。幾度となく繰り返す。
――あれはまどいぼし。
  ただ、それだけ。
「絶対ですよ。絶対、絶対のお約束」
「……ああ」
見上げる空は何処までも深く、彼方まで星を連ねる。空を占める青い星が月面を照ら
し、紅毛繊の上で、総ては何事もなく進む。
「はい、媛様。お茶をどうぞ」
「兄様。玉兎の分は?」
「甘えるんじゃない。茶ぐらい自分で入れろ」
「――けち」
じゃれあう兄妹。彼女の面に小さな、純粋に楽しそうな微笑が浮かぶ。
 天を仰げば、星が彼等を見下ろしている。
「本当に、良い日和だな……」
正確に言えば、良い天気なのはこの月面ではなく、地上のほうなのだが。天気の良い
日となれば、雲の向こうに樹木に覆われた大陸が見える。単調な月面を思えば、それ
は目を疑う程鮮やかだ。
「今宵こそ見えるでしょうか? 地界の模様」
だからこそ、彼女等は星を見上げる。宴を張る。
「あ、あそこ。雲の向こうに見えますよ」
兄兎の指し示す先。渦巻く雲の彼方に見えたもの。
 青と緑、茶と緑。白く霞む大気を通しても、彼等の目を奪うその輝き。
「えと、あれが大地、あれが海、そいで森、山……」
妹兎がつぶやく。それは、彼女が二羽に教えた言葉。
 目を奪われる。魅入られる。
 冷たい雫が頬をつたい、乾いた土に滴って消えた。
「嫦娥様?!」
――確かに、あそこに居たのだ。
  優しい大地と、湿った空気の中に。
「嫦娥様、媛様?!」
荒涼たる大地の声は、耳に届かない。

「ああ、何という事。いつか死なねばならぬとは、何とつまらない事だろう」
そう言っていたのは彼女の夫。
「ああ、いつまでも生きていることはできないものか」
そう願っていたのも夫。
 何も告げず突然消えた夫は、再び突然に戻ってきた。彼女の存在を無視して。笑い
ながら、震えながら、ただ薬を握り占めていた。
「……これで死なずにすむ。これで俺は死なずにすむ。俺は不死になれる。俺は……」
笑い声が、枯木の様だった。瞳はくすみ、くすぶる燠に似た赤黒い光だけが浮かんで
いた。
…… 貴方は、一人で良かったのですか?  私を置き去りにして、一人永劫を生きる
  のが望みだったのですか?
 西王母は、天上の母なる女神は、何を思って彼に不死の妙薬を与えたのだろうか。
何一つ成したわけでもない只人の彼に、どうして貴重な仙薬を与えたのだろうか?
 それとも、この結末を見通していたのか?
 結局、置き去りにしたのは彼女。
…… 長い、時間が流れた…
 彼は、悲しみ失望し、只の人として生きて死んだ。緑の大地の土になった。
 彼女は、彼の怒りを恐れてこの不毛の大地まで逃れた。時の流れを見続けるだけの
月宮の主となった。
 仰ぎ見る地球。彼女がそこを離れて、既に幾千の夜を終えたのか。
 泣き繰れる、幾億の日々が過ぎたのか。
……こんな結果を得たかったのでは無かったのに!!
  唯、貴方と在りたかっただけなのに……
 たった一人で生きるなど望みはしなかった。ただ、朽ちるまで共にありたかった。
…… 忘れられない。私は忘れない。貴方の存在、貴方を。
   黄金律の裁きを受けたこの身でも。
 彼女は涙を流す。涙でうるむ目に映るのは、命満ちる緑の天地。青い惑星。
 還りたくて、還れない。懐かしい大地。

 唯、惑星を見上げる女性。不意に、その瞳が揺れて光った。
 凍り付いた月宮の主の頬を、冷たい雫が一粒伝わった。
「……こうがさま、嫦娥様?、如何なさいました?」
「嫦娥様、媛様」
ここぞとばかりに、両側から兎達がゆさぶった。
 緩やかに、彼女は夢から引き戻される。
「……わたしは……夢を見ていたか?」
「媛様……」
兄妹の必死の表情に、彼女は自分の状態を悟った。
「ああ、済まなかったな。もう心配は要らぬ」  ウツツ
嫦娥は両手で二羽を抱き寄せた。暖かな温もりが、彼女を現へ、月面へ繋ぎ止める。
「惑星に惑わされて、夢に溺れていただけだから……」
「……どんな、夢で御座いましたか?」
兄兎に問われて、彼女は眉をひそめた。思いだそうにも、思い出せない記憶の破片。
「……私は、何を、見たのかな……。何も思い出せぬ……」
「きっと、たわいもない事だったんですわ」
妹兎は傍らの主に小さな身をすり付ける。傍らに美しい媛がいてくれる事が嬉しくて、
それらに声を聞かせてくれる事が楽しくて。それだけを幸せと思う、月面の化身達。
「そうだな。きっと些細な事であったのだな……」
 何だか、違う気もした。けれども、考えても思い当たる事はない。泣かねばならぬ
ような記憶に思い当たる節が無い。
 きっと惑星に惑わされたのだ。哀しみに満ちた地界に魅いられたのだ、だろうと思
う。希望と憤怒と悲哀と喜びが渦巻く星。だからこそ天に浮かぶ星はそう呼ばれ、故
に二羽の兎は夜毎に幸福を降り撒くのだ。
……忘レナイ、絶対ニ忘レナイ。何ヨリモ思ウ、貴方ヲ。
 嘆く声、叫び続ける記憶。それすらも忘却の淵に沈む。
「さあ、お茶でも飲んで、気をお静め下さい」
兄兎が濃緑の茶をたててくれる。妹兎が勧める餅を貰って、嫦娥はふわりと笑った。
「それにしても、一体、何時の間に餅などついておったのだ?」
本当なら仙薬をつく臼でついたという餅はほのかに甘く、はっかに似た清涼感が口内
に広がる。
「我等のお勤めは、日の入りから月の入りまで。幸福は闇にこそ振りまくものでござ
いましょう。さすれば、黄昏時の手空きの内に」
「我等は昼間は寝てしまいますもの。明方や夕闇の内についておりました」
「ほほう。それでこの餅は地球光に染まったか」
餅を頬張り、茶をすすり、美しき惑星を見上げる。
「おお、今宵も地界は美しいのう……」
 岩に覆われた大地。渇ききった地表。引かれた紅毛繊が異様な程鮮やかだ。
 兎達が笑う。月宮の主も微笑する。
 そして、地球は今日も青い。


      ……これは、罰である。


 古来より、月のおもてには兎がいて餅をつくとか、桂の樹が生えていると言われて
きた。しかし現実の月面は水も大気も無く、生命が存在し得ない死の世界である……。

                                <END>




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