#2342/3137 空中分解2
★タイトル (RAD ) 92/11/ 4 20:23 (195)
達磨 悠歩
★内容
「達磨」
悠歩
バスを降りてから、もう三十分ほど歩いただろうか。
真っ白なTシャツが汗でぐっしょりと濡れ、それが体に張り付いて心地が悪い。
先程から絶え間なく聞こえる蝉の声が頭の芯まで染み込んできそうだ。
「ふーっ。しかし、これだけの田舎って言うのも今時珍しいかも知れないな」
高志は一人呟いた。
日本から、田舎の風景が消えて行く、などという話題をよくテレビで耳にする。
だがここにはそんな言葉もまるで当てはまらない。
うねうねと曲がりくねった砂利道の左手には鬱蒼と繁るブナや楢の広葉樹と杉など
の針葉樹の入り交じった雑木林。昔はよくここでかぶと虫やくわがたなどを採ったも
のだ。
右手には青々とした田んぼが何処までも続いている。その向こうに時折、ぽつりぽ
つりと民家が見える。
この辺りの家はほとんどが平屋建である。二階建の家を見かけるのはほとんど希だ。
地べたがふんだんに使えるため、わざわざ二階を作る必要がないのだ。欲しい部屋
数の分だけ、直接地面の上に増やして行けばいいのだ。
だが、さすがにこの辺りでも藁ぶきの屋根の家は珍しくなってきていた。高志が小
学校に通っている頃にはまだ、半数近くの家が藁ぶきの屋根だったものだが… 今で
は一割弱程度の家が残っているくらいだろうか。それだけ残っているのも、珍しいこ
となのだろう。
しかしあと何年もしない内に、この村からも藁ぶき屋根の家は姿を消してしまうだろ
う。
そんなことを考えながら歩いているうちに左手の雑木林も終わり、田んぼの中の一
本道に出る。
このまま真っ直ぐ歩いて行けば二年振りに帰る懐かしい母と弟の住む家が見えてく
る。
「ただいま母さん」
「兄ちゃん!」
「高志!」
高志が勢いよく引き戸を開けて家の中に入ると茶の間の母と弟が同時にこちらを振
り返った。
そのまま高志は茶の間に座り込み、大きく息をついた。
「ふーっ、やっぱりここは落ち着くわぁ。どうも東京はせわしなくていかん。」
我ながら年寄り臭い話し方だと高志は思った。
「あっ、ほら、母ちゃんこれ土産だ。聡にはこっちだ」
ショルダーバックの中から包みを二つ取り出し、それぞれ、母と弟に手渡した。
「わーっ、兄ちゃんありがとう」
高志と十三も歳の離れた弟は大喜びで包みを破り開ける。
「すげー! ピカピカのグローブだ」
大手スポーツ用品メーカーの少年用グローブを手に聡は大はしゃぎだった。
母のほうの包みには外国の有名ブランドのハンドバックが入っていた。
「高志…お前、こんな高いもの、大丈夫なのかい」
そういった物には疎い母も、このバックが決して安いものではないことは見当がつ
く様だ。ロゴ・マークにテレビで見覚えがあったのだ。
「ははは、大丈夫だって。これでも俺、東京じゃ結構稼いでるんだぜ」
「そうかい…じゃあ、ありがたくもらっておくよ。ありがとう」
母の皺の寄った目尻に涙が浮かんでいた。
僅か二年間会わなかっただけで、母は随分老けた様に見えた。
長い間会わないでいると、父母のイメージというのはとかく自分にとって一番楽し
かった少年の頃の若い父母のイメージが強くなってしまう。だが、自分が成長すると
ともに親も確実に歳老いて行くのだ。
そんなことは高志も充分承知しているつもりだった。
それでもこの二年間で、母が急激に老けてしまったように感じられた。やはり父が
死んでしまったことが母を老け込ませてしまったのだろうか。高志が二年前帰ってき
たのは、危篤の父の最期を見送るためだった。
歳老いていく母の姿を寂しく感じながらも、若い父母の姿を知る自分は幸せなのだ
ろうと高志は思った。
高志と十三歳の離れた弟の聡はまだ小学校の五年生なのに、母はもう五十歳に近い。
聡にとり、母は常に歳老いたものとして記憶の中に残るのだろう。
「ねえ、兄ちゃん。キャッチボールしようよ、キャッチボール!」
そんな高志の考えを遮るように聡が言った。
「よし、久しぶりにやるか! 聡、お前の古いグローブ持って来い」
「うん」
聡はまさに飛ぶようにして、グローブを取りに行った。
「せっかく二年振りに帰って来たんだから、今夜は御馳走を作ってやりたいんだけど、
お前何も連絡なしで帰ってくるから…」
母の言葉に、少し照れたように笑いながら高志は言った。
「そんなこといいって。俺に取っちゃ、母さんが作ってくれたものなら何でも御馳走
なんだから」
母はこの言葉に目を丸くして、驚いたようだった。
「あらあ高志、お前随分と殊勝なことを言うようになったもんだねぇ」
「もう五年も東京で暮らしてるからね。お世辞の一つも覚えるさ」
そこへ新品のグローブと偉く古ぼけたものとを抱え聡が戻ってきたため、二人の会
話はそこで中断された。
二人は家から十五分ほど歩いた丘になった草原でキャッチボールを始めた。
キャッチボール位なら家の近くで充分に出来るのだが、ここまで来たのは高志の希
望だった。ここは村のなかで一番眺めがよく海と山が同時に見渡せる。
少年時代、高志はよくここで友達と鬼ごっこをしたり、凧上げをしたりして遊んだ
ものだ。
「行くよ、兄ちゃん」
「よし来い、聡」
高志の左手にはめられた古いグローブは、成人した高志にとってかなり小さいもの
ではあったが、かつては自分のものとしてよく手に馴染んだ物だっただけに、使い心
地は悪くなかった。
しかしこんな古いグローブを聡はよく、文句の一つも言わず今日まで大事に使ってき
たものだ。母の事と合わせ、辛いことを弟一人に押し付けてしまったような気がして
高志は後ろめたいものを感じた。
「どうだ、聡。新しいグローブの使い心地は?」
山なりの緩い球を投げながら高志は弟に聞いてみた。ポンと軽快な音を立てて、真
新しいグローブに球が収まる。
「最高だよ、兄ちゃん。でも…」
聡の投げ返した球を受けると高志のグローブはグシャという何とも情けない音を立
てた。
それ程早い球を投げ返された訳でもないのに手のひらにじーんとしたしびれが伝わっ
てくる。
(本当に限界だったな、このグローブは)
東京に戻ったら今度はバットでも送ってやろうか、などと二年の間滅多に思い出す
ことの無かった弟を目の前にして急に高志は優しい兄になっていた。
「でも…って何だ? 何かまずいところでもあったのか」
「ううん、そうじゃなくて。こんな固いグローブをするの初めてだから、なんだかちょ
っと慣れなくて手が痛いみたい」
「ははは、そんなことか。なら、今晩兄ちゃんが油を塗っといてやるよ」
「本当。じゃあお願いしちゃおうかな」
考えてみれば高志のグローブが聡の手に渡ったときには既に中のアンコも潰れきっ
ていたのだ。もしかすると聡にとって固いグローブを手にはめるのは生まれて初めて
では無いだろうか。
しばらくキャッチボールを続けた後、高志は腰を落としながら弟に向かって言った。
「そろそろ肩も暖まって来ただろう。兄ちゃんがキャッチャーをやってやるから、お
前ピッチャーやってみろ」
聡は嬉しそうに頷いて、高志の言葉に従った。
ゆっくりと振りかぶり、高志のグローブ目掛け球を投じる。
−−グシャ−−
なんとも情けない音ではあったが聡の球は高志の想像以上に威力のあるものだった。
(こいつ、本格的に鍛えたらプロに成れるんじゃないか?)
それは多分に兄としての贔屓目もあった。
次第に調子付いてきた聡はプロ野球投手のピッチングホームを真似しだした。
桑田投手に始まり、荒木、斎藤、湯舟、石井…この辺りまでは良かった。球の威力
こそは聡本人のものに比べて、大分落ちていたがかろうじてストライクコースに投じ
ることができていた。
ところが近鉄の野茂投手のピッチングホームを真似しようとした時だった。トルネー
ド投方と呼ばれる体を極端にひねって投じるそのホームは野茂投手自身さえ、コント
ロールが定まらないのである。俄か仕込みの物真似でまともに投げられよう筈もない。
聡の投じた球は、高志の遥か頭上を飛んで行った。
「ご、ごめん、兄ちゃん」
「はは、ドンマイ、ドンマイ」
球を追って駆け出そうとした弟を制して、高志は小走りに球の飛んで行った方向に
向かった。
球はこの草原に一本だけ生えている大きな樫の木の近くまで転がって行った。
そして高志の目は球を追いながら、樫の木の根元に腰を降ろしている少女の姿を捕
らえた。球は少女のすぐ前で動きを止めた。
「すいませーん。そのボール、取ってもらえますかー?」
高志の声に少女は、それまで読んでいた草の上に置かれた本から視線を外し顔を上
げた。
「あ…」
一瞬、高志は言葉を失った。少女の距離は未だ十メートルほど離れていたのだが、
高志には少女の容姿がはっきりと見て取れたのだ。
−−美少女−−
余りにもありきたりで何とも芸の無い呼びかただが、咄嗟にそれ以外の言葉が見つ
からない。
その少女の何か憂いを帯びた顔は高志の見知った者の顔ではなかった。長い間、東
京で暮らしていてしばらく村人達と顔を合わせることが無かったとは言え、小さな村
のことである。昔からの村人ならばたいがい顔は分かる。それに村から出て行く者は
いても、新たに村に入ってくる者などまず、いない。
しかし、確かに美しくはあったが高志は何か少女に不自然なものを感じた。
「ボール…取って頂けますか」
やっとのことで高志はそれを言葉にした。
「ご自分でお取り下さい」
少女は素っ気なくそう言って再び草の上の本に視線を落とした。
(ちっ、何だ。ちょっと可愛いからってお高くとまってんのか?)
高志は幾分気分を害しながら、少女の元まで歩いて行き球を拾い上げた。そのとき
一陣の風が通り過ぎて行った。
「あっ」
高志はその声に誘われるように少女のほうに目をやった。風に吹かれ少女の長く美
しい黒髪が靡いている。そしてその黒髪と伴に白いブラウスの袖も鯉登りの吹き流し
のように靡いていた。
高志は少女に感じた不自然なものを理解した。少女には両腕が無かったのだ。
「ご、ごめん。気が付かなくて…」
少女の言葉に気分を害したことを高志は心から恥じた。
「いえ」
短くそう答えただけで少女は本から視線を動かすことはなかった。たが少女にはそ
の本のページを捲るにも腕が無い。
高志は以前テレビで見た、両腕を事故で失った人が日常の生活のほとんどの事を足
を使ってこなしていたのを思い出した。この少女も、足を使ってページを捲っている
のだろうか? それはこの美しい少女には余りにも似つかわしくない行為に思えた。
だが、少女が決してそのようなことをする筈はないということがすぐに高志には理
解できた。
なぜなら、その為の足すら少女にはなかったのだ。
高志はそれ以上、少女の姿を正視することが出来なかった。なまじ、美しいが故に
その姿が痛々しい。
少女は一日中、こうやって本の同じページだけを見ていたのか。いや、正しくは同
じページだけではない。時折吹く風が、全く気まぐれに開かれたページを変えて行く。
「兄ちゃん」
高志がなかなか戻ってこないのを心配して様子を見にきた弟の声で高志は我に帰っ
た。
「帰ろう、兄ちゃん」
聡は高志の腕を強く引いた。
「おい、帰るって… おい」
弟に引かれるまま、少女のことが気に掛かりながらも、高志は家路に就いた。
「ああ、達磨の事か」
高志の茶碗に真白な御飯をつぎながら母は言った。
「ダルマ?」
「あいつに捕まったら、手足を食べられちゃうんだ」
母の言葉を受けて聡がそんなことを言った。
この弟の無邪気な言葉に高志はかっとなった。
「聡! お前…」
だが高志の言葉はここで止まってしまった。弟は不思議そうに高志の顔を見つめて
いる。
(俺に聡のことが言えるのか?)