#2319/3137 空中分解2
★タイトル (YQA ) 92/10/27 8:57 (143)
◇悲しいじゃたりない◇ らっこ
★内容
僕は車をとめた。左に海が見える。砂浜にはカップルらしいのが4、5
組いるくらいで淋しいものだった。
「海だね」彼女は車を降りた。そして海を見つめている。
僕も車を降りた。彼女の髪を眺めて、それから海を見た。
「どうして海って大きいのかな」彼女が言った。
「晴れてて良かった。ね?」
彼女は黙って海へと歩いていく。
僕もそれに従った。
昨日。海が見たい、彼女は突然言った。僕は何もきかずに「じゃあ明日
行こう」としか言わなかった。言えなかった。
彼女の態度も僕の態度も、昔とは違っていた。何もかも、昔のようにい
かないことは前から気付いていた。
もう終りかな。彼女にそう言ったことはないけれど。じわじわ感じる不
安に、ショックや淋しさはなかった。ただ恐ろしい。
彼女は砂浜に腰をおろした。「他の恋人達って、どうやって別れ話始め
るんだろね」
「さあ」僕の心臓は激しくなった。「別れよう、って言うんじゃん?」
「じゃあ、……別れよう?」
僕は微笑んだ。それしかなかった。会話の滑稽さのせいにして。
もう完全に僕は救われないと思った。でもまた、まだ何かどこかに僕を
救ってくれる道があるような気がした。
僕は足元に視線をおとして「どして?」
「だからあたし、もうハタチになるでしょ?」
「俺もなるよ」僕は座らずに立っている。
「そこなの」彼女は僕の眼を見た。車を降りて初めて眼があったのかもし
れない。「あたしは短大卒業して就職するけど……」
「俺が問題ってわけだ? 2浪こいてる俺が? アハ」
「だから、大学行く気があるんだったら真面目に勉強してさ」
「だって俺が行きたいの美大だもん。なかなか手ごわいんだよ」
「だから勉強しないと。今だって全然やってないじゃん。画塾だってさぼ
ってるみたいだし」
「勉強はやってるよ。でも試験には運ってのがあるじゃん」
浪人は辛い。辛かった。みんなはどんどん進んでいくのに自分だけ取り
残された気がして。1年目は本当に辛かった。人前じゃ笑っていたけど、
いつも不安だった。でもそういう異常な状況が長い間続くこと、それはあ
まりにも耐え難いものなんだ。毎日が苦痛なんだ。だから僕は開き直って、
苦痛を感じることを放棄したんだ。
僕の苦労もわかってよ。いや、わかれと言う方が無理か。彼女も順調に
進んでいった人種なんだ。僕も好きな人に自分の苦労を聞かせるほど馬鹿
じゃない。
「じゃもう少し真面目にやるとか」彼女の追い打ちはやまない。好きな人
からのそれを、僕は冷静に受け止める。それが好きってことじゃないけれ
ど。
「普通の大学なら受かりそうなんだけど、美大は難しいよ」
「じゃあ普通のにしちゃえば?」彼女は立ち上がって「絵が上達しないん
なら」
そんなのわかってる。僕は馬鹿だって。絵だって下手だ。そんなのわか
ってる。ただ好きな人には言われたくないだけだ。気付かれたくないだけ
だ。だからいつでも強がってきたのに。
「やっぱり才能がある人が行くんだと思うよ、美大って。このままじゃ3
浪しちゃう……」
僕はしゃがみこんだ。「ねえ何なの? 何が不満なの?」
彼女がどっかに行っちゃうということより深い絶望だった。悲しさだっ
た。今までただの一度だって、こんなことはなかった。
才能がある人。彼女の言葉が重たかった。才能ですべてが決まってたま
るか。普段気軽に「悲しい」っていう言葉を使っているけど、それなら今
の気持ちはなんて言葉で表現したらいいんだろう。「悲しい」じゃたりな
い。
「ごめん、言いすぎた……」彼女もしゃがんで僕の顔を覗いた。「でもそ
のとおりだと思う。親にだっていつまでも面倒みてもらうわけにはいかな
いでしょ?」
「だからいつかビッグになってさ」僕は腰をおろした。「借りは全部返す
予定だし」
「ねえ、それって本気で言ってるの?」
彼女が恐くなった。とても、恐くなった。ちょっと前までは励ましてく
れてたのに。僕が有名になるのが楽しみだって、言ってくれてたのに。僕
は顔をそむけるようにうつむいた。「頼むよ。恐くならないでよ。悪魔に、
魔女に、ならないでよ」
「え? 何? 聞こえない」
「僕は君が好きなんだよ……」耳が熱くなるのが辛かった。
「何? もっと大きな声で」
「本気だよ、って言ったんだよ」もう強がるのは疲れた。僕が彼女を好き
になってからもうずっと強がってきたんだ。でも今更やめられない。「本
気で言ってる。俺は90年代のスーパースターになる。絵を勉強して、絵
で食べていくんだ。それが子供の頃からの夢なんだ。今でも、信じてる。
俺にはそれができるって」
「……」
「だってよく、俺の絵すごいって褒めてくれたじゃん」
「はあ」彼女はため息をついた。「そんなに絵に自信があるんだったら、
今ごろ美大受かってるんじゃない?」
僕はどう出ようか迷っていた。今更どうにもならない。何を言っても無
駄だ。逆に何も言わなくても無駄だ。それが痛かった。さっきまで感じて
た僕を救ってくれる道に、あざ笑われた。
「でもさ、俺の絵は売れるよ。昔、一緒に夜の池袋で売ったじゃん」
「酔っぱらったサラリーマンに泣きつけば売れるんじゃない、やっぱり。
すごい安くだったし。それに売れたって言ったって……」
こんなものか。女って。
彼女は僕のすぐ横に腰をおろしながら「3日で2枚でしょ? 売れたっ
て言っていいのかなあ」
こんなに恐くなれるものなのか。女って。今更気付いたことじゃないけ
れど。
彼女もいろいろ悩んだすえにこんなに攻撃的に出るようにしたんだろう。
ちょっとでも情けをかけたら、この馬鹿な男がつけこむからって。
彼女は手を後ろについて、足を前に投げ出して座っている。
僕は彼女の左手に右手をのばした。触れた。皮膚と皮膚が触れ合った。
僕は右手に力を入れた。
「もう帰ろうかな」彼女の左手は逃げた。「とにかく、そういうこと。も
う会わないから」
今まで彼女の手を触っていた僕の右手は行き場に困って、砂を握りしめ
た。「あったかいよ。この砂、あったかいよ」
彼女は僕を見ながら立ち上がった。
「ねえ、知ってた? この砂、あったかいよ」僕は笑った。頬が固くなっ
ていた。
「……」彼女は僕を見下ろす。スカートについた砂をはらいながら。
「まったくどうしたってこうしたって思い通りにならないことってあるん
だな。あー、もお」
僕がバタバタ小学生みたいな真似をしたんで彼女は微笑んだ。微笑むし
かなかったのかもしれない。僕があまりにみじめだったんで。僕だってみ
じめに振舞うしかなかった。
「一番好きな人にわけわからないまま逃げられてさ。そのくせこの砂は何
の屈託もなくここにこうしていつまでもあってさ。美術館に行けばこれま
た何の屈託もなく絵画が並んでる。そして家に帰れば昔一緒に聴いたレコ
ードだって何の屈託もなく同じ音を出してさ」
しっかり、一語一語ちゃんと発音したはずだったのに声が少し震えてい
た。僕の心の動揺を見抜かれることが、今になって、恥ずかしくなった。
ふたりは黙った。海を見ると波がたっている。これまた何の屈託もなく
よせてはかえしの単純作業。海ってやつはなんて馬鹿なんだ。馬鹿ってな
んて幸せなんだ。
「とにかく。あたしあなたが好きじゃなくなったのごめんなさい」これば
っかりは彼女もまともには言えなかったらしくて、一息に早口で言った。
「僕はまだ好きだよ……」僕はうつむいた。深く。
「え? 何? 聞こえない」
「痛いよ……。ホラ、こんなに、痛いよ」
「え? 何?」
「わかったさよなら、って言ったんだよ」
彼女は少し怪訝な顔をして「じゃああたし、電車で帰るから。ここで、
さよなら」
砂を踏み締める音が遠ざかっていく。それがトラックの騒音で消される
のが恐かった。僕は顔をあげて振り返った。
彼女が歩いていく。
僕は立ち上がった。そして笑いながら叫んだ。
「人類史上最高の天才はあの海に誓って言おう。僕は君のためなら、死ん
でもいいと思ってた」
背中を見せたまま彼女は少し立ち止まって、また歩いていった。
僕はタバコに火をつけた。右手の中のジバンシィのライター。彼女がプ
レゼントしてくれたものだ。
好きなんです。いつまでも、君と一緒にいたいんです。心の中でひたす
ら、もう見えなくなった彼女に語りかけている自分に気がついた。僕は馬
鹿だった。
少し落ち着いてから辺りを見回すと、赤の他人どもが僕を見てる。僕っ
て男はまた、恥をかかなくちゃならないのか。