#2292/3137 空中分解2
★タイトル (DRB ) 92/10/22 2:42 ( 78)
「随筆」うりとくり くり えいた
★内容
秋である。仕事から帰ってきた。家内と子供達は当然寝ている。台所
の電灯を付け、ジャーから冷や飯をよそう。ワゴンにビニール袋が置い
てある。中身はビスコとラムネと棒付きキャンデーとチョコレートであ
る。横に娘の水筒も置いてある。私は食卓につき、ご飯に湯をかける。
それを妙にしょっぱいたまり漬けと一緒にがさがさ流し込んだら咽喉が
くうっとなった。
瓜食めば 子供思ほゆ うりはめば こどもおもほゆ
栗食めば まして偲はゆ くりはめば ましてしぬはゆ
何處より 來たりしものそ いづくより きたりしものそ
眼交に もとな懸かりて まなかひに もとなかかりて
安眠し寢さぬ やすいしなさぬ
万葉集巻第五−802
この歌の作者山上憶良(やまのうえのおくら)が教科書どおりの根っ
から子供思いの良きパパであると思ったら大間違いである。少なくとも
私はそう思う。いつも子供の事を気に掛けている状態なら、その気持ち
はおよそこの詩作の動機たり得ないと思うからである。断言してしまお
う。このおっさんは私と同じで、普段は自分の子供の事など頭になく、
自分の事で頭が一杯だったのだ。大抵の父親というものはそうではない
かと想像する。
なぜこの父親が普段は子供の事など考えていないということが私にわ
かってしまうのか。それはこの詩を素直に読めばわかる。「瓜食めば
子供思ほゆ」つまり「瓜を食わなかったら」「子供は思わない」のであ
る。「栗食めば まして偲はゆ」つまり「栗を食わなかったら」「子供
は偲ばない」のである。「何處より 來たりしものそ」というのは「い
つもはそんな感情は私にはないのに、今の私にはある。いったいどこか
らやってきたのだ」と問いかけておるのだ。「安眠し寢さぬ」というの
は「昨日までぐうぐう寝ていたのに今日は妙に眠れん」と言うておるの
だ。だからごそごそ起き出してきてこの詩を書いておるのだ。ぜんたい
今日のこの己の心の変化が奇妙に切なくて歌を作るのである。この気持
ちはいったい何のせいなのだと叫ぶ歌である。
子供はうるさい。相手をすると可愛いという気持ちも起きるが、男に
とっては重荷であるという気持ちの方が正直なところである。何かに集
中しようとしているときなど、そばで騒がれると頭の一つも殴りたくな
る。だから勤務時間や出張のときなどはほとんどその存在さえ忘れてい
る。そんなものいちいち思い出していては仕事などできないし、上司に
怒られて卑屈に顔を歪めながら頭をかくことなどできないし、バイトの
女の子のお尻を触ることもできないし、出張中にストリップへ行くこと
すらできない。ましては相手は万葉にその名を残す立派な男、山上憶良
その人である。彼ほどの仕事をした人なら、当然普段は気持ちの上で家
族をほったらかしにしていたと考えてしかるべきである。
彼は家を離れているのである。上司にくっついての出張旅行であった
かもしれない。またそれに名を借りた愛人とのランデブーであったかも
しれない。そんなことは私の知ったこっちゃない。千年以上も前の父親
の大先輩がビスコやラムネ菓子のようなものを見てから子供の顔が眼に
ちらついてしょうがないと歌っているのが私には面白いのである。さっ
きまでは忘れていたのに、このつまらん食い物を見てからは夜切なくて
眠れんと哭いておるのが私にはなつかしいのである。
このまったくもって変な感情は子供を目の前にすると何故か起きない
ものである。子供にゆかりの「もの」を目の当たりにして初めて起こっ
てくるけったいな感覚である。みぞおちから胸にかけてが「くうん」と
なるような不可思議な体験である。眠れないのも無理はないのである。
この名前の付けられない感情を詩にして歌うのも無理はないのである。
だから今日も安眠のため、私は書斎の机に残されたビニールのレッド
キングの人形と緑色のクレヨンをわざわざ子供部屋まで片付けに行くの
だ。
そういうもんなんですかと聞くなかれ。そういうもんなのである。
瓜食めば 子供思ほゆ うりはめば こどもおもほゆ
栗食めば まして偲はゆ くりはめば ましてしぬはゆ
何處より 來たりしものそ いづくより きたりしものそ
眼交に もとな懸かりて まなかひに もとなかかりて
安眠し寢さぬ やすいしなさぬ
くり えいた