#2287/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 92/10/20 2:13 (198)
場所固定>月面 −嫦娥−
★内容
「嫦娥っていう名前」
おれの問いかけに、女は一瞬の間をおいて小さく「え?」と訊きかえしてきた。
「いや、あんたの名前さ。嫦娥っての。本名なの?」
声のない笑いの気配が、ステアリングを握るおれの背後でかすかに夜気を震わせ
る。
「ちがうわよ。戸籍上ではね」
バックミラーごしにつりあげた眉で疑問を送ると、女はさらに謎めいた答えをお
れに投げかけた。
「月の女神のことよ。嫦娥って」
「わからんなあ」
「わからなくて当然。だってこれは月の女神が見る夢のなかのできごとだもの」
「で、あんたがその夢見る女神さまってわけか?」
「そうよ」
女の声音は、自信に満ちあふれているような気がした。なんのことやらわけがわ
からず話の接ぎ目をうしなったおれは再び無言にかえり、明けていく街路にワゴン
を走らせた。あいにくの曇り空で、月はどこにも見当たらない
「このあたりだったな」
「三回目よ。いいかげん覚えてもいいころじゃない?」
「極度の方向オンチなんだ」
苦笑まじりに揶揄する女へそういうと、嫦娥は嘲弄とも親しみともとれる微笑で、
バックミラーごしにおれを見つめる。
世界が女の瞳で占拠され、おれの間隔は下半身の膨張に収斂する。
「ふたりきりね」
挑発か単なるからかいか、おれは判断をとりあえず保留する。
「今日は指名が多かったからな。あんた」
女は笑顔のままふん、と鼻をならし、窓外に視線をそらせた。
「そのうち、もっと増えてくるぜ。それこそ一晩じゃこなしきれないくらいな」
と言うと、女はバックシートから身をのりだし、ヘッドレストごしにおれの耳に
ささやいた。
「妬ける?」
息がうなじを快くくすぐった。おれは女の匂いを大きく一息、肺におさめ、
「ああ」
ちらりと横目で女に視線を走らせる。
いたずらっぽく微笑む少女めいた顔のなかで、その両の瞳だけがくり抜いた闇の
ように底なしだった。
その黒瞳が、ふいに瞼のベールに隠される。
ふふんと女は笑い、ふたたびシートに深く背をあずけた。
おとずれた沈黙は、長く狂おしい飢餓感でおれを責め苛んだ。
「いつかは月にかえるわ」
つぶやきのような言葉は、奈落の底で響くように虚ろだった。
「あん?」
と間抜けに訊きかえすおれに返答はなく、越えがたい壁への返礼のように沈黙を
重く横たえて女は、頑なな視線を窓の外に向けるだけだ。
「ここらへんだったよな」
見覚えのある角を曲がりながら訊くと、「そこよ」と指し示す女の指先にたしか
に二度、横づけしたことのあるアパートが建っている。
「六畳一間のアパートにすむ淫売の女神さま、か」
小さくつぶやいたつもりだったが、夜明け間際の静けさが彼女に言葉を届けちま
ったらしい。
「八畳よ」
「八畳? そりゃ珍しい」
答えのかわりに、後部ドアがスライドする音。
助手席がわの窓の横に立つと、嫦娥はガラスごしによそいきの微笑をおれに向け
る。ありがとう、お疲れさま、と彼女の唇が動く前に、おれは助手席の窓の開閉ハ
ンドルを急いでまわした。
「喉がかわいた」
言って、笑って見せる。「こどものような笑顔ね」と以前ある女に目をうるませ
ながら言われたことがある。効果のほどは一定しないが、機会があれば意識して使
うようになった。
「お茶でも飲ませろって?」
警戒というよりは、挑むような表情で女が問いかける。
「八畳間のアパートがどんな感じなのか、見聞してみたいんだ」
ふん、と鼻先で笑って女はくるりと背を向け、
「おいでよ」
後ろ手に手招いてみせた。
接客用の電話番号に女から電話がかかってくることは、さほど珍しいことでもな
かった。金に困った女などどこにだっているし、そんな女が肉体を切り売りして世
界をとり戻そうと思いたつのもありふれた決心にはちがいない。午後四時のワゴン
のなかで晴れない眠りから怠惰に醒めかけたおれが受けたあの日の電話も、そんな
女からのものなのだろうと思っていた。
手慣れていた、といえばいいのだろうか。無機質な調子のなかに、わずかな媚を
含めた声音は、おちついているというよりはどうでもいいといった感じの投げやり
な心情をひきずっていた。一声きいておれは素人じゃないことを直感した。同じよ
うに投げやりな気分だったから、事務的に待ち合わせの時間と場所を指定し、そし
て名前をきいた。
「嫦娥よ」
は、とわれながら間のぬけた反応に内心苦虫をかみつぶしつつ「じょうがさん、
ですか?」とおれは尋きかえす。
「そう。嫦娥」
淡々とくりかえす電話線のむこうの声につけ加わるようにして、謎めいた含み笑
いを耳にしたような気がしたのは、おれの思い過ごしだったかもしれない。もう一
度時間と場所を確認して会話を終えると、おれは相棒のポケットベルを鳴らした。
返事がくるまでに十数分間のタイムラグがあったのは、あきらめの悪い粘液質の
性格が明日を食いつなぐためにせいいっぱいの悪あがきを演じている最中だったか
らだろう。おれとちがって相棒は高利貸しの矢面に立たされているのだから無理も
ない。
幸運の女神とやらを信じているわけじゃないが、彼女がはじめておれたちの前に
姿を現した時、なんの脈絡もなくそんな言葉が頭のなかに閃いたのを覚えている。
ネオン街から道一本はずれた気だるい裏どおりに、黒を基調にした派手な、それで
いてどこか隙のない服装に身をつつんでたたずんでいた女は、どこかアンバランス、
というか不思議にちぐはぐな印象をただよわせていて、女神とか天使とかとはまる
でかけ離れていたこともたしかだ。
どちらかといえば稚い面だちの奥深くひそむ、挑むような、そしてあきらめたよ
うな表情はおれたちにとって見慣れたものに過ぎなかったが、そのさらに底にもう
ひとつのなにか、得体のしれないなにかが隠されているように思えたのは、いま思
えば単なる気のせいなどではなかったのかもしれない。
相棒の表情が彼女を目にした途端、天啓を受けたように輝きわたったこともよく
覚えている。底なしの暗闇の彼方に曙光を見出したようなその反応も、おれたちが
置かれていた状況を思えば当然のことだったろう。
事実、その女はある種の逆らいがたい魅力をただよわせていた。美少女という陳
腐な表現が最適だ。その容貌とはおよそ裏腹な、娼婦めいた気だるい雰囲気もまた、
女にアンビヴァレンツなよりいっそうの魅力を付加しているだけ。この業界ではよ
く口にされる。こんな女がなぜ売春婦を、と。だが、この女にかぎってはそうじゃ
なかった。容姿の清楚さにもかかわらず、まるで娼婦になるために生まれてきたよ
うな雰囲気を、彼女はぷんぷんと文字どおり匂うようにただよわせていた。
手近の喫茶店で、時おり質問と希望をさしはさんだだけで女は驚くほど簡単に就
労条件への応諾を出し、その夜からおれたちの下で働くことになった。
幸運はゆっくりとした足どりでおとずれる。“嫦娥”が街をさまよう二台のワゴ
ンの仲間に加わった夜を境に、少しずつ、少しずつ電話の量が増えはじめた。初め
て電話をかけてくる得体のしれない客がその内訳を多く占め、最初の二週間ほどは
おれも相棒も緊張のしどおしだった。しかし幸いなことに、料金トラブルや変態が
らみのちょっとした騒ぎが数件あっただけで、それらも大した事件にはならずにす
んだ。心配していたサツのトラップにもどうやらひっかからずにすみ、一箇月もす
るころには幸運が形をとっておれたちのサイフにころがりこむようになっていた。
おれも相棒も、嫦娥とともに幸運が舞いこんできたような気がしていた。
事実、「嫦娥さんを」と指定してくる客の数はほかの女たちとは桁がちがってい
た。かぎりある一夜という時間をどう割り振るかでてんやわんやだったが、不思議
なことに嫦娥の指名客はとりわけ筋のいい連中ばかりで、延長しろだの個人的にデ
ートしてくれだのといったかったるい類のことを言い出す奴も皆無だった。
こういう客をつかまえられる女がひとりいれば、あとは自動的に金がごろごろと
音をたててころがりこんでくる。濡れ手に粟だった。笑いがとまらない。おれたち
は毎晩派手に豪遊し――といきたいところだがそうもいかない。女を使う裏風俗産
業だ。いきおい、信用して営業をまかせられる男子従業員などまず滅多に見つかる
もんじゃない。おれたちは毎夜のように自らの手でワゴンを走らせ、電話を受け、
女たちを送りだしつづける。
嫦娥を乗せ、そして白んだ街を彼女の巣へと送りとどける特権はおれが独占して
いた。なに、ちょいとした強権を発動しただけだ。多少だがおれは警察に顔がきく。
内偵の情報を事前に聞きおよんでいちはやく危地を脱したこともあった。もともと
相棒がこの商売におれをひきずりこんだのもこれがあったからだし、こいつのおか
げでおれは相棒と対等以上の関係を維持していられたってわけだ。そうそう頻繁に
使うわけにもいかないジョーカーではあったが、嫦娥という女のために使うのであ
ればおしくはなかった。そしてたしかに、使い手のある女でもあった。
二十一、という女の自己申告を頭から信じていたわけじゃない。実際、女の肌と
肉は、十代の張りと硬さが同居していた。年齢をいつわって手っとり早く金を手に
入れたがる雌ガキどもは掃いて捨てるほどいる。そういう女を雇うのは、完全に非
合法に動いているおれたちのような連中にとってこそかえってリスクが大きい。雇
用に際して免許証を提示させる等という煩雑なてつづきをとるのも、当然のトラブ
ル回避の手段だ。が、上玉ひとりはこの原則を簡単にくつがえす。嫦娥の場合もそ
うだった。本名も――戸籍上の――、年齢も、女の素性をあらわすものはなにひと
つ知らない。もしかしたらこの女も、十八やそこらの、あるいはもっとまずいこと
にそれ以下の小娘なのかもしれない。実際、口数の少ないこの女がときおり見せる
笑顔は、ずいぶん推い感じに見える。
だけど、女の瞳の奥深くにひそむ得体のしれない虚無的な闇が、おれにそれを否
定させてもいた。
たしかなことなどなにひとつない。おれが、女の肉体と見えない素顔に、どうし
ようもなく魅せられていたことを除いては。
ガラにもなく図書館などに眠い目をこすりながら足を向けて、“嫦娥”という女
神のことを苦労して調べさせたのもそれだったのだろう。中国の古い月の女神は、
夫持ちだった。しかもその夫はある地方の伝説によれば、どうしようもないぐうた
ら男でもあったらしい。そんな夫がある日、不老不死の薬を手に入れてきた。嫦娥
はこれを横どりして逃げる。追手はかつての旦那のほかに、不老不死の薬のもとも
との持ち主である女禍という名の女神も加わっていたようだ。逃げる女神は月へと
赴き、あろうことかガマに化身してしまう。
八畳のかたすみで気だるく裸身を横たえる女に向けて、からかいまじりに「嫦娥
ってのは、最後はガマになっちまうんだってな」と問いかけたことがある。
女は静かに笑い、
「そう見えない?」
と答えただけだった。
そんなふうにして三月ほどの月日が気だるく流れ去った。ある夕、嫦娥は待ちあ
わせの場所に現れず、おれは他の女の迎えを相棒にむりやり任せて彼女のアパート
に車を走らせた。
前兆はあった。一、二週間も前あたりから徐々に、女はおちつきを失いはじめて
いた。待ちあわせの時間に遅れることや、場所の変更などもしばしばくりかえすよ
うになった。街を流している時も、口にこそ出さないものの特定の場所に近づくと
妙にそわそわしはじめるように思えた。問い正してみたが、いつもなにか言いたげ
にしていながら、最後には「なんでもないよ」とつくり笑いにまぎらせてしまって
いた。
深くつっこむ気にもならなかった。そうしていれば、と今になって思わないわけ
でもない。が、その日までおれは意識的に彼女の内面に踏み入ることを避けていた
らしい。
部屋に鍵はかけられていなかった。ある予感とともにおれは扉を開いて歩を踏み
もぬけのカラにでもなっていれば、いっそ気持ちよかっただろう。現実は、八畳
に決して少なくない家具衣類の類の大半が、残されたままだった。旅に出るのに必
要な最低限のものだけが、きれいに空白を形づくっている。いきさきを示す手がか
りをさがしたが、無駄だということもわかっていた。くだらねえ。あいつにとって
おれはなんの意味もなかったんだろう。そしてたぶん、おれにとっても、ほとんど
のところは。
そして幸運もそこで打ち止めだったようだ。
以前使っていた激ブスの淫売が杉並区の化け物屋敷のようなピンサロで働いてい
るところを摘発され、十八才未満であることが判明した。余罪を追求されておれた
ちの名前をゲロしやがり、相棒は拘留された。スポンサーのひとりに大金つんで弁
護士を仲介させてどうにか実刑は免れたものの、週刊誌にすっぱ抜かれて(五千万
円荒かせぎ、ときやがった、断じてそんなには稼いじゃいない)相棒は全国的に顔
写真入りで報道されちまう。なにより後始末やらなんやらで、稼いだ金はほとんど
使う間もなくきれいさっぱり消えちまい、あげくのはてに相棒は接待を強要されて
いた地回りに運悪く気に入られ、借金のカタにムリヤリ舎弟にされることに決まっ
たその日に姿をくらませた。もちろん、おれもだ。
夢から醒めた嫦娥が月に帰って、現実がおれたちに皺寄せちまったんだ。なんて
セリフ、口がさけても言うもんか。夫と、夫に貢いだ女の追手が迫って、ガマはも
うひとつべつの次元へ行方をくらませなきゃならなかったんだろう。おれのいるこ
の世界は、彼女にとってなんの助けにもならなかったってところだ。現実てのはそ
んなもんだと、自嘲めいて笑う気力さえわきゃしない。
おれはまたひとつ行き場所を喪い、届かない懐かしい顔を手に入れた。それだけ
のことさ。だがいいか、因果応報なんて言葉、聞く耳もちゃしねえぞ。おれはまだ
敗けちゃいねえんだ。
そしてもうひとつ、神話に新しい一節をつけ加えてやる。彼女を追う男がひとり、
また増えたってことを、よ。