#2280/3137 空中分解2
★タイトル (BCG ) 92/10/18 10:46 (194)
狐穴小屋であったことは(1) くじらの木
★内容
その山小屋は朝日岳に続く稜線から東に五分ほど下った這い松帯のなかにあ
った。
朝日連峰の多くの山小屋がこの数年の間に新しく立派に建てなおされたなか
で、無人の狐穴小屋だけが忘れられたようにそこに建っていた。
大城勇一はザックを下ろし、小屋の脇に立て掛けると、ふーと大きく息をし
た。
白い息がゆっくり流れた。
東に寒河江川に続くなだらかな尾根が続き、北には今勇一が登ってきた以東
岳の穏やかな姿が見えた。
十月も下旬の山は所々、昨日降った雪が積もっていて、夕日がそんな山の頂
上だけを赤く染めていた。
汗が引くと、今まで心地よく感じていた風が急に冷たく感じられた。
もうすぐ冬だ。
勇一が山に登りだしたのは四十を過ぎてからだった。もともと妻の美佐子が
好きだった山登りだったが、五年ほどまえに美佐子に誘われて、秋の巻機山に
登ってから山の魅力に取りつかれた。
「派手な山じゃないんだけど、ゆったりして優しくて、あたし好きだなあ」
そう言った美佐子の言葉を思い出した。
美佐子は去年の同じ頃、一人で大鳥池から朝日岳に登る途中でこの狐穴小屋
に泊まったと言っていた。
今日も本来は二人で登る計画だったのだが、美佐子が前日になって急に風邪
をひいてしまって、結局勇一ひとりできたのだった。
入り口の前に腰を下ろし、ザックから水筒を取り出して水を一口飲んだ。
不意に、良子のことを思い出した。
もう清算する時期かもしれない。
七年は長すぎる。
良子とこんなふうになったのを子供ができなかったせいにするつもりはなか
ったが、それでも勇一は、もし夫婦の間に子供がいたらもっと別の幸せが二人
にあったように思われた。
古びてはいるが、がっしりとしたドアを開けると、中は二十畳ほどの広さの
板張になっていて、真ん中に一メートル四方のブリキでできた浅い囲炉裏状の
物が備え付けてあった。
正面に小さな窓があり、両脇は二メートルぐらいの高さで棚状に中二階が作
ってあった。
薄暗く、湿った黴のような匂いがした。
人のいる気配はしない。
外でかたかたと何かが擦れるような音がしていた。
勇一はそれから二時間かかって夕食の支度をし、食事が終わったときは八時
を過ぎていた。
食後のコーヒーを飲もうとしたときだった。
ゴトン、と後で何かが転がるような音がした。
驚いて振り返ると、中二階の隅に、勇一のヘッドランプに照らされて男が一
人シュラフにくるまったままこちらを向いている
勇一の喉がひゆうと音をたてた。
勇一の所からは、ちょうど柱の影になって気が付かなかったが、もう一人泊
まっている人が居たのだ。
勇一は、慌てて話しかけた。
「ああ、失礼、一人っきりだと思っていたものだから、どうですか、コーヒー
でも飲みませんか」
男は聞こえなかったかのように、無言のままごろりと背中を向けた。
まあいいさ、そうゆうやつもいる、自分だってその方が気楽でいい。
柱にかかっている大学ノートが目についた。
とってみると、表紙には狐穴小屋日記と書いてある。
中身はどこの山小屋にもある雑記帳のたぐいだが、暇つぶしにはなる。
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六月十日(雨)
朝方晴れていたので、南俣沢出合から入る、昼から降りだしそれからやまず
に降り続ける。明日は同じ道を下る予定。
八月三日(晴れのち曇り)
前日は朝日岳小屋に泊まりました、もうめちゃ混みでトイレの脇に寝たんだ
けど、ここはがらがら、古いけどまあいいっか。
九月十三日(晴れ)
当方三十二の独身の男性。山好きのあなたを待っています。
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そんな内容が続き、ぱらぱらと飛ばし読みをして、最後の日付を見た。
それは十月二十六日になっている。
今日だ。
あの後の男が書いたのだろうか。
勇一は、ちょっと後を振り返り、またノートに視線を戻した。
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十月二十六日(曇りのち晴れ)
僕は一年前に人を殺しました。まだ捕まっていません。
これから先も捕まることは無いでしょう。
世の中には完全犯罪などというものは小説や、映画の中だけのことと思って
いる人がいるかも知れませんが、これは実は簡単なことなのです。
今日は僕がいかにして完全犯罪をやり遂げたかについてお話しましょう。
今から一年半前、秋山洋輔と僕の妻が関係を持っていると知ったとき、僕は
秋山を殺すことに決めたのです。
秋山は僕の勤める小さな工作機械の輸入商社で僕の直属の上司でした。
学生時代はラグビーで慣らしたというがっしりとした体と、いつも日に焼け
た甘いマスクの男でしたが、部下のミスをいつまでもねちねち責め立てるよう
なところがあり、社内で信望があついとはとても言えないような男でした。
彼は趣味の多い男で、その一つに山登りがありました。
一年前、その秋山が一人でこの朝日岳に登るというのを同僚から聞いたとき
、僕はこの時以外にないと思ったのです。
僕は学生時代から、あちこちの山に登っていて、山の知識はかなりあるほう
でしたから、山で人を殺すことがいかに簡単かを知っていたのです。
山というのはどんな低い山でも、ここから落ちれば必ず死ぬという所が一つ
や二つあるものなのです。
そこから突き落とすのを人に見られさえしなければ、殺人が発覚することは
絶対に無いのです。
秋山の予定は、タクシーで泡滝ダムまで入り、そこの登山口から登り始め、
大鳥池を通り、以東岳を登って狐穴小屋で一泊し、翌日朝日岳を登って、古寺
鉱泉に下るとゆうものでした。
このコースは僕も以前に登ったことがあり、途中に確かに四ヶ所ほど危険な
場所があるのです。
その日僕は妻には別の山にいくといって家をでました。
朝暗いうちから山に入り、以東岳を下ったところで秋山を待つことにしたの
です。
あなたが今日通ってきたならどこだか検討はつくと思いますが、そこは登山
道の西側が大きくガレていて、下の西俣沢まで百メートルは崩れ落ちているの
です。
僕はその細い登山道に帽子を深くかぶったまま山側を背にして座り、秋山を
待ちました。
ちょうど昼ごろだったでしょうか、以東岳のほうから足音が聞こえました。
この季節にはほとんど人の入らない山ですから、それは秋山であるのに違い
ありません。
カツ、カツ、という音が近付くにつれて、僕の心臓は十倍にも膨れたかとも
思うほど高鳴っていました。
僕は深くかぶった帽子の下からやがてあらわれるだろう秋山を待ちました。
すっかり葉を落としたブナの木々の間から赤いシャツが見えました。
が、それは秋山ではありませんでした。
四十前後の女性で、女性の割には足元がしっかりしていて、山に登り慣れて
いるといった感じがしました。
急に緊張が解け、何かぐったりとしてしまいました。
僕は顔を見られないようにやり過ごすことにしました。
「どうかなされたんですか」
僕はびっくりして顔を上げました。
下を向いてこんな所に座っている僕をみて気分が悪くなったのだろうと思っ
たようでした。
「いいえ、だいじょうぶです」
僕は慌ててこたえ、また下を向きました。
彼女は特に気に留める様子もなく、そのまま僕の前を通りすぎました。
その時またカツ、カツ、という足音が聞こえました。
今度こそ秋山に違いありません。
僕は、迷いました。
ここで秋山を突き落とせば、彼女に突き落とすところは見られないにしても
秋山が落ちて行く音は聞こえるに違いありません。そうなれば彼女は僕のこと
を怪しいと思うでしょう。
やはり現われたのは秋山でした。
僕はここで秋山を殺すのを諦め、登山道を少し歩き、ガレ場をすぎた辺りで
木の陰に隠れて彼をやり過ごしました。
秋山が通りすぎたあと、僕はこの計画を変更しなければならないことに気が
付きました。
秋山も、あの女も、歩く速度は同じようなものです。たぶん登り始めた時間
も三十分と違わないでしょう。そうすると秋山の近くを常にあの女が歩いてい
るということになり、だれもいないところで秋山を突き落とすということは少
なくとも今日は不可能ということになるのです。
それにいまから僕が秋山を突き落とそうとすれば、彼に後から追い付いて突
き落とすことになり、それはタイミング的に失敗する確率が高いように思われ
ました。
下手をすれば僕も秋山と一緒に転落してしまう危険もありました。
僕の予定では二時ごろまでに秋山を殺し、すぐ下山して、万一の場合に備え
て月山にその日のうちに登り、翌日アリバイを作るというものでした。
そのためにふもとにバイクを隠してありました。
ですから計画を明日までは延ばすことはできないのです。
僕が立てた次の計画は、そう、ここ狐穴小屋で彼を殺すことでした。
狐穴小屋の近くまでは三時ごろにつきましたが、小屋には入らず稜線に立っ
て小屋の様子を探りました。
あと二時間も登れば建て替えられて綺麗になった竜門小屋があるはずですか
ら、先程の女性もたぶんそちらに泊まっているに違いないと思ったのですが念
には念を入れたのです。
五時まで待ちましたが、秋山以外にだれも泊まっている様子はありません。
ここは水場が六分ほど下ったところにあるのと、トイレが付いていないので
、たいてい泊まっている人は、外に一度はでるのです。
僕は稜線から下り、小屋の近くでソフトボール大の石を拾い、ドアをそっと
開けました。
やはりそこにいたのは秋山一人だけでした。
彼は夕食の支度をしているようでした。
彼がゆっくりこちらを向き、僕と目が合いました。
「田宮じゃないか」
妙に間の抜けた声で彼は言いました。
僕は靴のまま床に上がり、早足で秋山の所までかけよると、持っていた石で
秋山の頭をおもいきり殴り付けました。
思ったほど血は出ませんでした。
あっという間のことでした。
死んでしまった秋山にしても、何が起きたのかわからなかったかも知れませ
ん。
その後、秋山の死体を十五分ほど下ったところにある沢まで運び、彼のザッ
クと共に下に落としました。
もううっすらと雪が積もっていました。
あと数日もすれば本格的な雪になり、少なくとも来年の春までは、彼は発見
されないだろうと思いました。
結局、彼は今だに発見されていません。
遭難したことになっているのです。
もちろん、床の血は拭き取り、僕の血の付いたシャツは外で燃やしました。
それから夜の山を下り、隠してあったバイクに乗って、僕はその日のうちに
月山に登り始めたのです。
もっとも結果的にはそんなアリバイ工作などする必要はなかったのですが。
これは作り話ではありませんよ、ほら、そこに黒いしみがあるでしょう、そ
れが証拠です。
それでも信用できない、それでは水場の下の沢筋に下りてみるといいですよ
。秋山のしょっていたロウの赤いザックがまだあるかも知れません。
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勇一はそこまで読むと、はっと顔を上げ、後を振り向いた。
あの男がこちらを見ているような気がしたからだったが、ヘッドランプに照
らされた彼はシュラフにくるまって背中を向けたままだった。
勇一は再びそのノートを読み始めた。
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僕はこれで完全犯罪に成功したと思いました。
ところがもう一つやらなければいけないことになってしまったのです。
もちろん、殺人を。
つづく