#2271/3137 空中分解2
★タイトル (TEM ) 92/10/15 1: 3 ( 89)
残酷な現実 うちだ
★内容
かおるも真理子も窓のない冷暖房完備の大きな工場で働いている。品物を顕微
鏡で検査する仕事を、わき目もふれず一日じゅうする。月曜から金曜、朝8時
50分から夕方5時まで、右手から左手へ製品が顕微鏡の下をくぐり、1時間
に900台がながれていく。週休2日制で給料がいい、多分名前を聞けば、誰
もが知っているような企業である。チャイムで定時を告げられて、仕事が終わ
る。電車の時刻に間に合うように、ロッカーで急いで着替えして、電車に駆け
込む。駅からは歩いて5分、家についたら夕飯を食べて、テレビを見て、彼女
たちの1日は終わる。休日は車を洗ったり、ビデオを見たり、カラオケに行っ
たり、寝たり。1カ月が気付かないうちに過ぎ、そんな繰り返しで5年も過ぎ
た。
「ねえ毎日、楽しい?なんか変わったことない?」
駅で真利子と出会うと、かおるはいつもの質問を投げかける。なんとなく慌た
だしい駅のコンコースに置かれたベンチに腰掛け、缶のウーロン茶を飲みなが
らの無駄話となる。ふたりとも今年で24歳になる。
「ねぇね、真理ちゃんは彼氏いないの?」
「・・・いないよぉ。かおるこそ結婚しないの?」
「相手がいればね・・・じゃあさー仕事つづける?」
真理子はぐいと最後の一口を飲み干すと、缶をぺこぺこと凹ませながら答えた。
「そーだなぁ、つまんないけど、ここより給料いいとこってあんましないし。
かおるだってそうじゃないの?」
「まーね。でも違うことしたいと思うでしょ」
「そりゃーね。でも資格もコネもないしねー。理想と現実は違うよ」
「現実って何?」
「今こうしていることでしょ」
「違う」かおるは首を振った。「こうして今、話しているのが現実だと思って
いるんでしょ。違うのよ」
「??」
「今、私たちって何してる?」
かおるの言葉に困惑しつつ、真理子は答えた。
「・・・会社帰りに、駅で喋ってる」
「と思うでしょ。本当はね、こうして駅で喋っている私と真理ちゃんっていう
のはね、活字の中で書かれたことがらにすぎないのよ。この夕暮れ時の駅のコ
ンコースも、ベンチに座る酔っ払いのオッサンも、あそこの壁に寄り掛かる高
校生の女の子も、公衆電話にいるヤンキー男も、全て活字で書かれたことがら
なのよ。これが私とあなたの真実」
真理子はむっとして答えた。
「・・・じゃあこれは現実じゃないって言うの?この体は何なのよ。今喋って
いるこの場所は何なのよ。こんなにリアルなのにこれが全部、つくりごとだっ
て言うわけ?」
「・・・リアルだと思っているのは真理ちゃんだけだと思うけど・・・」
「え?そーなの?」
「書かれたことがすべてなのよ。真理ちゃんは私の顔、分かる?見えているは
ずよね、でも書かれていないから、ほら、特徴が分からないでしょ」
そう言われればそうだった。真理子には目の前のかおるの特徴がはっきりと分
からないのだった。真理子はかすれた声でたずねた。
「かおるは何でこれが現実じゃないって知ったの?」
「今言ったからよ・・・つまりそう書いてあるからよ。」
もどかしげにかおるが言った。だからといって真理子には与えられたこの現実
しか実感がないのだ。
「私・・・私にはこれが現実じゃないなんて信じられないの。明日も同じよう
に続くわ。だってそれ以外の何があるっていうの?」
「・・・可哀想な人。頭の固い設定なのね。私はもう降りるわよ。」
気の毒そうに言うかおるに、真理子は少し腹を立てた。
「かおるの理論でいけばこうして話す言葉も全部、誰かに文字で書かれたこと
なのよね。そんなのがかおる自身の真実なの?」
かおるは少し黙ってから、答えた。
「・・・わからないわ。でもこんなつまらない繰り返しの毎日はもうたくさんっ
て、私かその誰かが、とにかく思ってるのよ。それが真実。どっちにしたって
楽しく暮らせるならそのほうがいいわ。幸せだって不幸だってただの主観じゃ
ない。真理ちゃんはどうする?」
「どうするって・・・・かおるはこれからどうするって言うの?」
ベンチに腰掛けたままの真理子にニコリとほほ笑み、かおるは立ち上がった。
「私はこんな平凡な日常とさよならするわ」
「・・・言葉でだったら何とでも言えるわよね。実際いつどうするっていうの」
「変わるわよ。今すぐに」
その瞬間。
駅のコンコースが、行き交う人々が、窓の外の景色が、何もかもが消えた。そ
れこそなにもかも。ただ一人、真理子は残された。
「おーい。」
真理子の声だけが空しく残る。かおるは、世界は、この日常ではないどこへ行っ
たのだろうか。真理子には何も見えなかった。この先どうしたらいいのか、見
当もつかなかった。だが、どのみち真理子だってこの行でお仕舞いなのだった。