AWC    教授のスーツは着たきり雀    椿 美枝子


        
#2242/3137 空中分解2
★タイトル (RMM     )  92/10/ 6  23:57  (177)
   教授のスーツは着たきり雀    椿 美枝子
★内容
 十一月の風が吹きすさぶ中を、教育の研究棟目指して歩く。
 ノックをする。閑散とした廊下。この部屋だけ灯っているあかり。
「開いてるよ。」
 ぶっきらぼうで早口な江戸っ子口調。扉を開けると細く小さい、どこやら少年
のような教授。こんな遅い時間に顔を出すのは一年も先の修士論文の為、と思う
と馬鹿らしい。
「どうだい調子は。」
 決まり文句なので僕は、悪いです、と答える事にしている。
 そうだ今日は出がけに変わった事があったんだ。ポストの中に珍しい郵便物。
差出人は去年迄4年間学部で一緒だった同級生の中、ただ一人の、女性。彼女は
大学院に進学せずに、卒業と同時に引っ越してしまったようだが、音沙汰がなかっ
たので僕はひそかに気にはしていたのだった。
 僕は躊躇して、教授に気取られた。
「何か変わった事があったのかい。」
 去年の、あの、彼女から、手紙が。
 そう言うと、教授の瞳はまるきり少年の瞳へ。
 僕は悔しかった。言いたくなかった。手紙の内容と教授の瞳が、悔しかった。
 そして、僕は、思い出した。
 昔、僕らが入学したての頃から、教授が、少年の瞳で彼女を見ていた事を。

 四月に引越荷物をほどいていたら、僕から借りた文庫本を見付けたので、返そ
うと思っていたがついつい忘れて遅くなり、もう半年になるので小包にして送る
旨。大学院に進んだ僕へありふれた幾つかの疑問を投げかけ、最後に滔々と僕ら
の担当教官だった今目の前に居るこの教授の事を尋ねる文。それは、教授の健康
状態に始まって、研究内容、近刊予定、学会の事、教授の腰巾着助教授のヒステ
リー具合、教授のコンピューター購入計画のその後、最後に教授の着ているいつ
も同じスーツのズボンからは、まだ、足首が10センチ見えますか。幾つかの近
況と、教授への伝言、便箋三枚に細かい字でびっしりと、最後に教授に宜しく、
とある。

 僕らの教授は定年間近、その歳を感じさせない機敏な四肢はほっそり服から突
き出し、本人は、病気で痩せてね、と言うけれど噂では病気は十年以上前の事で、
着古されたズボンとつんつるてんの丈とが互いを強調しあっている。
 先の噂には続きがある。教授の奥様は教授のお召し物やその他色々に随分無関
心でいらっしゃる、と溜息混じりに続くのだ。
 こう語り継がれるようになって久しい、という事を本人は知る由もないし、時
折の威勢良い言葉遣いや口の悪さや無造作な仕草に、少年の頃の姿が偲ばれる、
そんな教授にはスーツや奥様の事など無縁に思えなくもない。

 渋々小包の中から便箋を取り出して言う、伝言があるので読みますね。
 教授はちょっと思案顔、次に真剣な顔をして言った。
「僕に見せて呉れ給え。」
 なんて図々しいんだ。しかし、あまり逆らいたくはない。全部ですか、と尋ね
る。
「とにかく、見せて呉れ給え。」
 やっぱり全部じゃないか。まあ、いいや。手紙をあっさり渡した。

「まず、始め。半年も君の本を放ったらかしといて、今頃になって、返して来た。
どうしてだと思う。近況を読めばわかる。最近になってようやく家庭教師を始め
た、とある。彼女は就職しなかったからね。それまでだと近況が無職、となって
しまう。そう書きたくなかったんだろう。次に、君に関する事。これはお義理程
度にしか書かれていない。全くの挨拶だね。その後、私の事を尋ねている。この
量が、尋常じゃないね。本当はこれが主要な用件だろう。ここ、あのヒステリ女
史の事を書いている。彼女は嫌ってたからね、ヒステリ女史の事を。どうしてだ
と思う。ヒステリ女史はかつての僕の教え子だからね、僕の退官時に入れ替わり
に教授になりたくて、僕に的を絞ってゴマをするからね。本人、あれで礼を尽く
しているつもりなんだろうがね、露骨でいけねえやなあ。」

 僕は、困惑していた。教授は延々と、手紙の分析を続けた。教授の講座は教育
だし、出身は健康教育学だ、心理は専門じゃない筈だ。僕だって専門じゃないけ
どさ。気が付くと話は手紙を離れ、彼女の生育歴に迄及んでいた。何故知ってい
るのだろう。愚問だな、彼女が打ち明けたに決まってる。

「彼女は幼い頃父親を無くしてね。埋め難い、父親の喪失感ある。かつて付き合っ
た男性に対しても、父親的なものを求めて、失敗している。同年代では得られる
訳がないんだ、これが。」

 僕は段々とつのる不愉快さにとうとう、大声で遮った。
「どうして僕の前で言うんです。教授がそれ程まで知っているという事は、教授
がカウンセリングでもしていたんでしょう。それなら、クライエントの秘密は守
るべきなんでしょう。」

 教授は穏やかな声で言った。
「君が黙っていればいいんだよ。」
 そして、寂しげな顔をして、言った。
「引き継いで置かないとね。」
 僕には訳がわからなかった。


 翌日だった。教授が休講を連絡せずにする事は、珍しかった。事務が心配して
自宅に電話をした時に、逆に奥様に問い質されたという。昨日から帰っていない、
黙って居なくなった、という。この噂は瞬く間に教育の研究棟に広まって、それ
迄の悪妻説に拍車を掛けた。
 同級生達が僕をからかう。一番最後に会ったのはお前だろ。お前いじめたのか。
何か言い残した事は。心当たりは。
 まさか、心当たりなんて、と言い掛けて、つぐんだ。

 彼女に会いに行ったのだろうか。

 そんな馬鹿な。でも、あの時の様子では、まるで彼女の手紙を待っていたかの
だった。もしかして、あれは何かの合図だったのか。そういえば、手紙の末尾に
彼女は住所を書いていた。新しい住所。まさか。

 僕は妙な義務感と台風の夜みたいな期待を感じて、鞄の中の怠惰に入れたまま
にしてあった小包から手紙を引き出す。知った地名だ。電車を乗り継いで、2時
間位かな。教授のおかげで休講だし、よし、行こう。


 僕が突然来た訳を判じかねるように彼女は玄関に立っていた。
 先取りするように、実家に帰りたくなくて親戚の家に下宿しているのよ、とい
う。僕は勘が外れたな、と失望を禁じ得ない顔をしていただろう。
 教授がふいに居なくなったからさ、と言い訳がましく言う僕。
 駆け落ちでもしたか、と思ってさ。
 僕は笑って言ったつもりだった。

 彼女は蒼ざめ、僕に矢継ぎ早に尋ねる。
 何があったの、いつから居なくなったの、どうして、ねえ、教えて。

 僕の憧れていた微笑みは姿を消して、彼女は今にも壊れてしまいそうじゃない
か。僕は教授を呪った。


 一週間経った。教授がまるで、何事もなかったかのように帰って来た。僕は本
当に、腹を立てた。先週と同じように修論研究の時間一人研究室に入って行くと、
僕にしては珍しく、正直な気持ちを言い捨てた。
 自殺でもしたかと思ったんですよ、大体最初は例の彼女と駆け落ちかと思った
のに、彼女家に居るじゃないですか、確かめに行って馬鹿を見ましたよ、一体こ
の一週間何をしてたんです、何が『引き継いで置かないとね』ですか、期待に答
えて自殺でも駆け落ちでもしてくれなきゃ面白くも何ともないじゃないですか。
「まあまあ、そう言うなって。」
 教授が肩をすくめて苦笑い。
「家内にも散々言われたんだからさ、この歳になっての家出は恥しいから出張で
我慢して下さい、だとさ。」
 本当に一体何をしてらしたんですか、その位教えて下さったって構いませんよ
ね、違いますか。僕は、にじり寄る。
「ほら。」
 教授は椅子に座ったまま、ぶらん、と僕に足を投げて見せる。
「新調したよ、スーツをね。ありゃあ、着たきり雀だったからな。」
 それは、確かに新しかった。教授の細い足首が隠れているのを見るのは、初め
てだった。前と全く同じ色とデザインなので、僕は言われる迄気付かなかったけ
れど。
「宿題は出来たかい。」
 僕の呆れ果てるのを他所に、教授が言う。
 宿題なんてありましたっけ、と僕。
「引き継いで置かないと、と言った理由だよ。仕方ねぇな。ヒントだ。何故、彼
女が君の所に、あれだけ長い手紙を寄越したか。何も、君には小包だけぽんと寄
越して、僕に手紙を書いたっていいんだ。」
 そんな。わかりません。
「鈍い奴だな。そんな風で彼女の所に慌てふためいて会いに行ったのかい、とん
だでくの坊だな。せめて、彼女が取り乱したら落ちつく迄居てやっただろうな、
このうすらとんかちは。」
 返答に困った僕は、話を逸らされた気がしたので、逆襲を試みる。
 教授は彼女の事をお好きなんだ。どうして何もしないんですか。
「君が思っている程、僕は若くないよ。そして、彼女はようやく父親役が要らな
くなったんだ。それは彼女にとっては、良い事なんだ。だが、僕は、いわば、失
恋したのさ。」


 僕は何もかもわからなかった。ただ、今度の修士論文の為に少し一人で心理学
をやっておこう、と思った。心理学に関しては、教授はあてにしない方がいい、
と。


 あの後しばらくして僕は彼女と付き合い始めた。それを言うと教授は、やっぱ
り、と笑った。
 一年半後、僕は大学院を終え、教授は退官し、ヒステリ女史より年上で真面目
な性格の助教授が教授に駒を進め、そうして繰り上がって出来た助手の空きポス
トに思いがけなく僕がついた。教授の推薦があったようだった。今にして思うと
僕は、気に入られていたのだろう。

 時折思い出す。想像する。もしや、教授はあの一週間、彼女の家のそば迄行っ
て、逡巡してうろうろしたのではなかろうか。遠い所から彼女を見つめていたの
ではなかろうか。僕が彼女の家に行って話しているのも見ていたのではなかろう
か。彼女をさらって逃げる誘惑と、戦っていたのではなかろうか。
 本当は僕の知らない所で、そう、教授だって、泣いたりしていたのではなかろ
うか。少年のように。

 そして、時折、思い出す。
 昔、僕らが入学したての頃から、教授が、少年の瞳で彼女を見ていた事を。


                       1992.8.
                       1992.10.05.28:35

                  終

          楽理という仇名 こと 椿 美枝子




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