AWC 楽  理 (2)            RUI


        
#2153/3137 空中分解2
★タイトル (NZH     )  92/ 9/16  18:43  (115)
楽  理 (2)            RUI
★内容
 その思いは、まるで麻薬のようだった。
 曲に完全に魅せられてしまったのだ。
 クラッシックが好きと言っても、家じゃ、ロックをガンガン鳴らしてるのに、こ
れは一体、どうしたんだろう。
 曲を、ヴァイオリンでも、ピアノでも何でもいい。
 今は、聞かずにいられない。
 いっそ、何もかも忘れてしまった方がいいかもしれない。
 家族間も伐雑としていて面白くないし、俺のことを馬鹿にする。大学に行ったっ
てもてる訳でもなし、いい就職につけるわけでもなし。
 和人は、心に決め、顔を上げた。
「それでもいいです。----例え、何もかも忘れ去ることになっても」
「本当に……?」
 楽理は、切れ長の目をしばたかせて、和人の瞳を見据えた。信じられない、とい
った様子だ。
「本当にいいのね」
 楽理が念を押した。
「ええ。あなた-----楽理さんの言われるように、何もかも忘れてしまうのなら、
もう一度、初めからやり直すのも悪くないと思ったんです」
 楽理には、もう言葉の余地がなかった。
 ゆっくりとヴァイオリンを取って、『シャコンヌ』を弾き出した……。
 和人の目が、輝きに溢れていた。
 全神経を集中して、その音色を胸に刻んだ。
 その和音を覚えようとした。
 目で何かを感じ取ろうともした。



 楽理は、次々と弾いた。
 もう、何曲目だろう。
 ヴァイオリンだけではない。
 フルートもハープもビブラフォンも。
 その間、もう一度だけ、和人にもう、やめておいたら、と話しかけたが、あっ
さり拒絶されてしまった。
 もう、止められない……。
 チャイコフスキー、協奏曲二長調、第二楽章が終った時、楽理はやっと閉じて
いた瞳を薄く開けた。
 そして、和人の様子を見ると、第三楽章を弾かずに途中でやめてしまった。
「……最近は、私のいうことを聞いてくれない若者が多くて困るわ」
 楽理は、ため息をついた。
「段々、増えて来るわね。3000年の間の今までに、もう何百万人目かしら」
 そう呟いて、楽理はもう一度、和人の方を一暫した。
 和人は動かなかった。
 彼は、何もかも楽理の言葉通りに忘れてしまっていた。
 彼女のこと、家族のこと、大学のこと。楽しかった事、哀しかった事も。自分
の歳も。そして、自分が人間だったことさえも-----。
 ----和人は琥珀色の砂漠の砂のような人型の塊と化していた。
「だから、やめなさいと言ったのに……。それとも、この人はこうなるのがお望
みだったのかしら?」
 楽理は淡々と言った。
「私は今まで、人生の半分を音楽に費やしてきたわ。そのせいか、私の曲は聞く
人間の心と耳を捉えるのよ。一種の催眠術みたいなものかしら。確かに、曲を聞
くと気持ちよくなったり、若返ったような気分にはなるけど……ただし」
 楽理は、椅子から立つと、座っていた椅子にヴァイオリンを置いた。
「乱れた気持ちのまま多くの曲を聞くと、その音の魔力に取り込まれて魂を抜か
れて抜け殻になってしまうのだから……。リラックスしてと、あれだけ注意した
のに……」
 楽理は、立って行って、ガラス張りの店の中の窓を開けた。
 途端に風が舞い込み、つむじ風が踊った。
 その風は、人間だった和人の砂の塊をサラサラと崩していった。そして人型の
形もなくなった砂は、天井高く舞い上がって、風といっしょに渦を巻いて再び、
窓から出て行ってしまった。
 楽理はその様子を、顔を上げてずっと見守っていた。その顔には何故か、うっ
とりした表情が刻まれていた。
 ……あの和人という青年には、この方が幸せだったのかもしれない。
 単調で面白くもないといった人生を続けるより。
 森羅万象の砂と化した方が。
 あの砂は、きっとどこかで、また新しい生命を育むだろう。今までに消え去っ
て行った色々な人の砂と共におそらく……。
 楽理はパタンと窓を閉め、柔らかな微笑を浮かべた。



 楽理が窓を閉めると同時に、店のドアが開いて、初老の紳士が入って来た。
「おはようございます」
 楽理は、しとやかに振り向くと、その紳士に挨拶をした。
 この店のひいきの客である。
 もう髪は白髪だが、身体は大きくがっしりとしていて、三揃いの背広を着て
いる。足もしっかりとして、独特の風格さえ、持ち合わせている。
「おはよう。おや、朝からこんなに客がきたのかい? 楽器の山になってるじゃ
ないか」
 その紳士は面白そうに、楽理に尋ねた。
 楽理は、楽しそうに笑って、
「そんなんじゃありませんわ。----楽器の手入れをしてただけです」
「なんだ、そうか」
 紳士は、少しがっかりしたように言った。
 この紳士は、古きよき時代の歌を愛している一人だった。もとは、結構、名の
知られた指揮者でもあった。
「いつものピアノで、何かやってくれないか?」
 と、紳士は言い、楽理は、うなずくと黒光りするピアノの椅子に座って軽い調
律を始めた。
 そして、思いだしたように付け加えた。
「ただし、いつも言うようですが、リラックスして聞いてくださいね」
 紳士は、すぐに口を開いた。
「楽理君。……今更、何を言ってるんだ。音楽って奴はカチカチになって、真剣
に聞くものじゃない。子供のように無邪気にリラックスして聞くものだよ。だか
ら、音楽は今まで廃れることなく、生き続けて来たんじゃないか!」
 皮肉そうに笑うと、オーバーに両手を上げた。
 この辺りは、いかにも指揮者らしい。
「そうですね」
 楽理はその言葉を噛みしめるように、うなずいた。
「本当に、そうですね」
 調律が終った。



 楽理は、ピアノの白い鍵盤に静かに指をのせた。
「さあ」
 楽理は紳士の音楽を愛する瞳を---穏やかな瞳を見つめ、ニッコリ微笑んだ。
「何を弾きましょうか?」

                           (END)


              ----この小説を楽理という仇名に捧ぐ----





前のメッセージ 次のメッセージ 
「空中分解2」一覧 RUIの作品
修正・削除する         


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE