AWC ハイ−アングル(後編1)       青木無常


        
#2089/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ     )  92/ 8/24   3:21  (195)
ハイ−アングル(後編1)       青木無常
★内容


    7


 開かれた障子の間に、五色の炎が夜天に閃く。飛び散る火の尾が河面にゆらゆら
と照り映えるさまを、美貴はぼんやりと眺めおろしていた。
 室内では先刻から男ふたりが、夏の風物詩に毛ほどの興もしめさぬままむっつり
と黙りこみ、しきりに酒杯をかたむけつづけている。場の雰囲気をとりもとうとい
う無益な努力はとうにあきらめた。手をひく、と強硬に主張する教授に和晃もさす
がに万策つきはてた、といった風情だ。
 美貴の心奥に、河畔に集う浴衣姿の群衆を羨む気持ちがふいに浮かぶ。庶民には
無縁の高級料亭の特等席に、不倫とはいえ思い人と席を同じくしているにもかかわ
らず、心はとうにはずまない。眼下の人群れとてそれぞれに伺い知ることのできな
い疲労や倦怠、不和を抱えてはいるのだろう。だが、なぜかしら今宵はとりわけ、
幸せの上衣をまとった人びとへの羨望が抑えがたくわきだしてならなかった。
 恋慕や愛情など、とうの昔にはるか彼方に遠ざかってしまったのかもしれない。
いま感じられるのは埒もない執着だけだった。
 終わりにしたほうがいいのかもしれない――とは、なにも今日はじめて浮かんだ
考えでもない。が、徒労感に狂おしく急かされるようになったのはつい最近のこと
だった。
 天に爆ぜる音が広大に反響をくりかえし、またひとつ大きく開かれた花弁が虚空
に溶けて消えていく。その音をぬうようにして奈良場教授がぽつりとなにかつぶや
いた。
 ふりかえるのと同じタイミングで、和晃が刺すような視線を教授にすえた。
 マグマのように渦巻く怒りがほの見える。
 もうずいぶん遠い昔のことのように思える。葉山の別荘で泰山が引退宣言をした
あの夜と同じ、いましも噴きださんばかりの炎の双眸。
 「あなたも年老いましたか」
 ことばのとげを、奈良場教授は淡々と受けいれるようにして目を伏せたまま銚子
をかたむける。
 「ヤクザ相手に一歩もひかなかった奈良場先生ともあろうものが」
 吐き捨てる口調をうけて教授は自嘲的に笑いをもらし、
 「田舎ヤクザさ。スケールがちがう。歴史もな」
 ぐいと杯をあけた。
 「同じでしょう。たどりつく先は、まかりまちがえばどちらも死だ」
 「いや、ちがう」きっぱりとした口調で言いきり、教授は伏せていた目をはじめ
て和晃にむけた。「伊勢のときには勝算があった。賭ではあったがな。勝ち目のな
い賭はせんよ。浄土はちがう。これ以上ふみこめば待つのは確実な死だ。あるいは
……」
 いい淀む教授に、和晃は視線の圧力で先をうながす。老いに倦んだ男は力なく首
をふり、
 「あるいは、死んだほうがましだ、と思えるような苛酷で救いのない未来か、だ」
 ふん、と鼻をならす和晃に、ため息とともに教授は言う。
 「あんたは娘をさらわれていないからだ」
 「その危険を負っているのは私も同様ですよ」
 「だがまだそうなってはいない」
 「私の母の死にざま、話しましたかね」
 言葉につまり、教授はふたたび視線を落とす。おしかぶせるように和晃はさらに
言を継いだ。
 「それに久美ちゃんはきちんと戻ってきたのでしょう?」
 こたえず、教授は弄ぶ酒杯にじっと視線をそそぐばかりだった。
 「それとも娘さんを戻すことを交換条件になにかもちかけられでもしましたか?
――浄土に」
 ぎらりと眼を剥き、正面から見かえす和晃と視線をあわせる。
 そのままにらみあいとなった。
 「どうやって久美が戻ってきたか、話したっけかな」
 「なんでもイギリスからきた占い師にたすけてもらったのだとか」
 「くわしい話をきかせてほしいかね」
 「ぜひ」
 会話が途切れてなお数秒のあいだ二人はにらみあったままだったが、ふっとつく
息とともに教授のほうが視線をはずす。
 「パット・マクベインという名の女性だ。歳は四十近いおばはんのはずだが、目
の前にしてもとてもそうとは思えんいい女でな」
 「けっこうですな」
 「茶化すな」
 「失礼。その女性は何をしに日本へおいでになったんです?」
 「オカルト好きの金持ちに余興で呼ばれた、ということだがな。そうは思えなか
ったよ。浜田さんと同じような聖人の趣のある女性だ。くわしいことはわしも聞い
てない」
 「なるほど。それで」
 「よくはわからんがどこかでわしら一家を見かけたおりに、わしの抱えとる窮状
を千里眼だかなんだかで一目で見ぬいたらしい」
 「ほう。それは」
 「最初に接触があったのは葉山の宿で、だ。電話でだがな。どこでどうやってわ
しの出先の電話番号を調べたんだか……ダウンジングとか言っておったが」
 「ダウジング、でしょう。ひんまがった棒かなにかで、地下水脈などをさがす失
せ物占いの一種だと思いますが」
 「おう、それじゃよ。そのダウンジングで娘の居場所がわかる、とかぬかしおる
んだ。なにをこの夷狄は、と思ったものの藁にもすがる思いでなあ。小金井の自宅
で会うことになったわけだ。会ってみて驚いたよ。盲人だった」
 ではやはり、と美貴は心中つぶやく。あのときに出会ったアングロサクソンの女
性がそうだったのだ。
 「それでわしのところまで案内したんだがな。これがまた不思議なことを言いお
る。久美は家のなかにおる、と言うんだな」
 「声が聞こえる、と以前言ってましたね」
 「女房がな。幻聴かとも思わんでもなかったんだが、パットさんが言うにはそれ
はまちがいではない、久美は自分の部屋から出ていない、とこうきたのよ」
 「妙ですな」
 「まったくだ。せまい我が家などさがすまでもないが、それでも女房は天井裏ま
でのぞいてみたんだからな。おかげで悪質な安普請であることを再確認させられた
そうだが」
 「持ち家のための頭金くらいなら、ご用立てしてもかまいませんよ」
 「お断わりだ。あんたからそんな便宜をはかってもらった日には、なにを言いつ
けられるか恐ろしくて夜もおちおち眠れん」
 「誤解があるようだが、とにかく先を」
 「うむ。それでパットさんはわしの家にくるとおもむろにダウンジング棒とやら
をとりだし、胸先にかまえてな。目も見えんというのに、つまずきもせずに正確に
久美の部屋へ入っていく。半信半疑でわしらもあとにつづいたんだがな、驚いたこ
とに、部屋へ近づくにつれて妻の言っておったように久美の声がきこえてきたんじ
ゃ」
 「たすけて――とですか」
 「そうとも。わしらはもう、いてもたってもいられずほとんど半狂乱になりかけ
たんじゃが、ふとパットがこう、ふりかえってな。見えんはずの目に見られると、
すうとパニックがおさまってしまう」
 「たいしたものですな」
 「まったくよ。それで娘の部屋の扉を開いたんじゃがな。これがあんた、驚いた
ことに部屋がない」
 「……どういうことです?」
 「どうもこうもあるかい。あるはずの部屋がなくなっておってよ、かわりにまっ
くろい闇が延々と広がっておったんじゃ」
 「そういう映画がありましたな」
 「映画じゃない! それでよ、その暗闇のむこうに久美が宇宙遊泳かなんかのよ
うにふわふわ漂流していてな。泣いておるんじゃ」
 「それで」
 「うむ。わしら途方にくれてな。なにせ底もしれぬ暗黒じゃ。女房のやつが矢も
たてもたまらず飛び出そうとするのを必死でおさえた。するとだ、パットさんが言
うんだよ。大丈夫です、とな。言うがはやいか、あっという間もなくすたすたと部
屋のなかに踏みこんでいく」
 「大丈夫だったのですか?」
 「うん。どうもただの幻覚だったようでな。パットさんが入ったとたん、部屋は
普通に戻りおった。で、先刻まではもぬけのからだったはずのベッドのうえで、久
美が泣きはらした顔を呆然とさせていた、というわけよ。わしら夫婦も、久美自身
でさえもすっかり幻に惑わされていたというのに、目の見えんパットさんがそれを
なんなく看破してしまったと。まあ、そういうところなんだろう」
 「よかったじゃあないですか」
 「つづきがある」
 憮然とした表情でいう奈良場教授に、なにを感じたか和晃は一瞬ことばを失った。
 「ふるえておるんだ」さらりと、教授はいった。「パット・マクベインが、な」
 言葉を切り、ジャケットの懐中から煙草をとりだす。
 とりだしてから銜えるまでのわずかな動作のあいまに、教授自身の手がはげしく
痙攣しているのがはっきりとわかった。
 「あれは、な」ライターの火を幾度もつけそこね、やっと燃えうつった火をせわ
しなくふかしながら教授はいった。「その場にいたものでないとわからん」
 ぐうと煙をのどの奥に流しこみ、長い息とともに紫煙を噴きあげた。
 「よくわからないんですが」
 じれたように和晃が言うのへ、じろりと一瞥をくれ、
 「いるんだよ」
 と言った。
 「……だれがです」
 「だれかが、だ」いらだたしげに言い捨てる。「何者かなぞ知るもんか。とにか
くいるのよ。声もださん。姿もない。それでもいたんだ。久美にも女房にも、わし
にさえはっきりとわかった。音もなくただ怒りの波動をわしらによせる得体のしれ
んものが、部屋のなかのどこかにいるのだということがな。しばらくは金縛りにあ
ったように動くこともかなわなかった。最初にパットさんが小さくいけない、と叫
んでな。似つかわしくなくひどくあわてながら早く部屋を出ようと急かすんで、わ
けがわからんながらも急いで部屋をあとにした」
 一拍おいてキャスターマイルドを深く吸いこみ、むせた。
 「そのあと」げほげほとむせながら先をつづける。「娘に催眠術だかなんだかを
かけてくれた。忌まわしい恐怖の記憶をぬぐい、心の傷をすこしでも軽くするため
だそうだ。で、眠りはじめた久美を居間のソファにおいて、わしらはキッチンに場
所をかえて訊いたんじゃ。さっきのあれはなんだったのか、とな」
 「で、なんだったんです?」
 「わからん」
 「は?」
 と間抜け面でききかえす和晃にむけて一瞬、してやったりと笑みを浮かべる。
 「わからんのだ。なにも言ってはくれなかった。ただひとつ、呪いをかけられて
いる、とだけ」
 「呪い、ですか」
 「おうよ。パットさんが言うには、その呪いはすでにわしらの体内に淀んで除き
ようがないということだ。どういう種類の呪いなのかはわからんといっていたが、
なんでもきっかけを与えるだけでその場で死んでしまってもおかしくないような、
そういう呪いだそうでな。その日以来どうも気分がよろしくない」
 「それはそうでしょう」
 「わかってくれるか」
 「お察しします」
 「ふん。どうだかな」
 「そのパット・マクベインさんはいま、どちらに?」
 「さてな」教授の顔色がふと曇る。「できればまた会いたいところだが。翌々日
に久美の様子をもう一度見にきてくれて以来、とんとご無沙汰だよ」
 「残念ですな。ぜひお会いして話をききたかった」
 「呑気なことをぬかす」
 「なぜです? 先生のご経験はたしかに壮烈なものがある。その場にはいなかっ
たわたしには想像のつかないような恐怖も感じたのでしょう。だが、いまさら後に
ひくなどわたしには考えられない」
 「あんたは特別なのさ」口調には軽蔑がありありと刻みこまれていた。「いつか
は後悔するだろう。ごく近いうちにな」
 「おそれいります」
 平然とかえす和晃に、ふと教授の表情から険が消失した。
 哀れむようなまなざしに、かえって和晃のほうがぎょっとしている。
 灰皿に煙草をおしつけると奈良場教授は無言で銚子をとる。ふるえる手は大量の
酒を卓上にこぼし、杯のなかには半分もみたされなかった。それをさらに唇の外に
盛大にまきちらしながらぐいと呑み干し、口もとをぬぐうとつと身をのりだした。
 「腹のなかに卵を産みつけられたら、と考えたことはあるか」
 きょとんと見返す和晃に、教授は挑むような視線を投げかける。
 「なんのことです?」
 困惑の微笑を浮かべつつ両手をひろげてみせる和晃に、教授は落胆したようにふ
たたび座椅子に沈みこみ、
 「パット・マクベインのヴィジョンだ」といいながら、疲れ果てたように目を閉
じた。「なにか邪悪なものの卵が、わしら家族の腹のなかにある、というんだ。そ
れはもう、いつでも孵化できる状態にある、とな」
 和晃の顔が一瞬こわばったのを、美貴は見逃さなかった。
 卵、孵化――虫、だ。泰山の最初の妻、和晃と景明の母は死の三日前、虫がいる、
といわなかったか。
 「……それが、呪いとやらの正体だ、と?」




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