#1910/3137 空中分解2
★タイトル (GYG ) 92/ 6/28 17:52 (115)
読み捨ての福音 むらたけ
★内容
馬鹿野郎が。
西野に対する怒りがくすぶっていた。見え透いた言い訳をしやがって。
そう思うと別れた今も腹が立ってくる。
あいつができもしない約束なんかするからいけないのだ。できないなら初めか
らできないといえばいいものを。期待させやがって。
安田は腹の虫がおさまらないまま、電車に乗り込んだ。
西野のせいでこんなに遅くなってしまったのである。
平日の終電の一本前ともなると車内はがらがらだった。どこでもいいが……と
思って見回すと、乗客が読み捨てていった週刊誌が目にとまった。安田は週間誌
が投げだされた席に腰を降ろした。
キオスク横の自動販売機で買った缶ビールを開け、週刊誌を開いた。
お決まりのヌードグラビアがあったが、そのモデルには記憶があった。三日前
に読んだことのある号だった。政治や経済の話題、ピンク記事などがならんでい
た。どれもこれも、既に読み終えた記事であった。安田は舌打ちをしながら、ぱ
らぱらとページをくった。読んでないところはほとんどない。
――小説か、そう思いながら、安田は連載小説のページを開いた。短編小説を
読むこともたまにはあったが、もう久しく落ち着いて小説を読むことなどしてい
なかった。
小説は時代物だった。
……橘進之介は高柳剣志郎に真顔で言った。
「高柳殿、拙者の言葉に偽りはござらぬ。拙者、最前までこの懐に確かに、
山田殿からお預かりした書状を携えており申した。」
「そうだろうとも、進之介殿。」
高柳の言葉はあざけりのような響きが感じられた。
「嘘ではござらぬ。」
「では、書状は。約束の書状はなぜござらぬのだ。」
「拙者にもわかり申さぬ。」
進之介の額には冷たい汗が光った。
「そんなうつけた話があるものか。」
高柳が肩を怒らせて吠えるような口調で言った。
「お主の方から申し出たことではなかったか。山田殿の書状がなければ、
拙者のお召し抱えの話はどうなるのだ。」
「申し訳のうござる。すぐに探して参るゆえ、今しばらく待たれよ。」
「今しばらく、今しばらくとおっしゃるが、拙者は散々待ち申した。心当り
がござるのか。それもはて、妙な話よの。」
高柳は進之介の話にいっこうに耳を貸そうとしなかった。進之介はじいっと
うつむいたまま動かなかった。
巾着きりの霞の源太にとってわけのわからぬ書状など一文の得にもなりは
しなかった。源太は最前、侍の懐から摺り盗った書状を睨みつけた。後生大
事に持っていやがって……とつぶやくと、ぽいと溝に破り捨てた。その書状
の紛失が二人の若侍の長年の友情を切り裂くものになろうとは、源太が知る
はずもなかった。……
そこまで読んで、安田は厭な気持ちになった。
進之介という侍と、高柳のやりとりが、西野と安田の言葉にそっくりだったの
である。
「安田、事故だったんだ。信じてくれ。」
西野は必死に謝っていた。
「何言ってやがるんだ。お前から言い出したんじゃないか。」
責めたてた自分の言葉と、西野の辛そうな顔が再びよみがえってきた。
「俺は許せん。今までお前を信じきっていたが、今度ばかりは……。」
確かに、たいしたことではなかったのだ。
安田の担当している上客への贈り物として、その客の書を掛け軸に表装するこ
とになっていた。もちろん、普段の引き立ての謝礼と、今後の取り引きの継続を
期待してのプレゼントとしてだ。
今夜はその約束の期日だった。その客は気難しいところもあるが、会社として
は取り引き上での長い付き合いがある。安田一人の営業成績というより、会社全
体の信用にかかわってくる。失敗は今後の営業に差し支えかねなかった。
その掛け軸の話を持ち出してきたのは、西野だった。気難しい書道好きの客が
いることを安田が打ち明けると、知り合いに表具屋の見習いがいるから、軸にし
てはどうかと持ち出してきた。見習いだから、安くできるというのだ。その見習
いの話にのってしまった自分も軽率だった。もちろん、西野のいうとおりにうま
く軸ができればそれで問題はなかった。
ところがそれが間に合わなかったのだ。理由は簡単、見習いゆえの失敗だった。
遅れるどころか、肝心の書そのものが破れてしまう結果となった。
安田は得意客宅を訪問し、今までかかって謝罪を済ませた。客も了解はしてく
れたものの、不機嫌そのもの、信用をなくしたのは事実だった。
忘れようとしていたことを思い出して、厭なものを読んだと思った。しかし、
続きを読まないではいられなかった。
……進之介は土下座して言った。
「このとおりだ、高柳殿。今暫く。今一度、山田殿にお頼み申しあげてみる。
しばらく待たれよ。」
「お主の言葉は、信用できぬ。拙者、二度とはお主に頼み申さぬ。」
高柳はくるりと背を向けると、そのまま立ち去ろうとした。
「待たれよ。高柳殿。この進之介の言葉を信じられぬのならば、今、その証
をお目にかける。」
そう言うがはやいか、進之介は自らの着物の前をはだけ、白い腹をむき出し
にした。
唯ならぬ気配に高柳が振り返ると、小刀を腹につきたて、赤黒い血に染ま
りながらのたうつ進之介の姿が目に入った。
「進之介殿……。」
駆け寄り抱き寄せる高柳を進之介のかすれた声が包んだ。
「拙者が……、拙者が悪かった……。信じていただけたか……。」
高柳は言葉もなく進之介を抱きしめた。
高柳剣志郎は仕官の道をその時より捨てた。……
安田はそこまで読むと雑誌を閉じ、目を閉じて缶ビールを呑んだ。
ある感情が起こってきたのを安田は確かな手ごたえでとらえていた。
これは西野と自分の間に神の与えた偶然かもしれない。もとより安田に宗教心
や信仰などなかった。普段は神などということを考えることさえしたことがない。
だが、この時ばかりはそれを信じてもいいような気持ちになった。
電車が止まり、安田は週刊誌を座席に残したままプラットフォームに降り立っ
た。
西野に電話をして、もう一度話をしてみよう。自分の勝手を詫びてみよう。そ
して、高校以来続いている友情をもう一度取り戻そう……。
安田は自分の中のわき起った温かな感情に、少年のような興奮を感じていた。
電話ボックスに向かって、駅前のロータリーを横切ろうとした。その時、急ブ
レーキの音とともに、強い衝撃が安田の身体を襲った。
「……!」
「すいません。大丈夫ですか。しっかりしてください……。」
ぼんやりとした意識の中で、安田は車を運転していた若い男の謝罪の声を聞き
ながら、西野を許し、西野に詫びた。
(……事故か。……事故とは、こういうものなんだな。西野……。)
完