#1876/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 92/ 6/27 14:10 (131)
MISSING LINK 2−2 〈夢の砂漠〉 今朝未明
★内容
静寂。
時すらも流れぬ白い荒野
誰も……いない。
(ここはどこだ?)
いつ、この夜の向こう側の国に、迷い込んでしまったのか。
何もない何もない、ただ白い雪の華のみが、すべてを埋め尽くすこの国に。
(これも『罰』なのか?)
『彼』は、手の中の氷に問うた。
(このどこでもない国で、こうしてひとり、永劫にあること、それが。ここで、
ゆえ知らぬまま、おまえを失う幻を永遠に繰り返し、おまえの不在だけでなく、
おまえの喪失を感じ続けること、それが……)
もしそうならば、それでいい、と『彼』は思った。もしそれを、かの者が望
むならば。
しかし、紅い結晶はさらりと崩れて、風に吹き散らされた。『彼』のそばに
遺すものは何もない、とでもいうように。
あとには、『彼』だけが取り残された。
(ここは……)
〈ここは、私の国だ〉
永遠に思われる沈黙のあと、『彼』に答える声があった。
透明な風が凝り固まり、『彼』の眼前に、たしかな実体を持つ、ひとつの姿
を造りだした。
〈ここは私の国……そなたは何故、ここにいる?〉
人影は、雪と同色の長い髪と、一瞬毎に色を変える、虹色の不思議な瞳を持
っていた。そしてその顔は、哀しいまでに美しかった。その美と悲哀は、とう
てい人間の持ちうるものではないと、『彼』には思われた。
(わからぬ。気が付いたときには、この雪原に迷い込んでいた)
〈雪原? ああ、そなたの眼には、これが雪に見えるのか〉
影は、雪より白い手で、雪をすくって見せた。そのひとつひとつが、それぞ
れ形の異なる、銀色の結晶であった。
(雪ではないのか、これは)
〈これは失われた夢の破片と、死んでしまった魂のかけらだ〉
開いた指の間から、結晶は月光に輝きながら、こぼれ落ちていった。
〈だから、どんなに握りしめても溶けぬ。失われた夢も魂も、永劫に凍てつい
ているのだから〉
『彼』は周囲を見渡した。見渡すかぎり、銀色であった。すべての悲哀が、
すべての終焉が、ここに最期の光をまとって、静かに眠っているのだった。
(ならば……)
『彼』は、ふと気付いて、小さく呟いた。
(ならば、先程のまぼろしは……)
〈まぼろし?〉
かすかに、影は微笑んだようであった。
(なにがまぼろしで、なにがもことかなどと……誰が知ろう?〉
(………………)
〈誰にも、わかるまい……そなたの見たものは、そなたの夢の残影などではな
く、まさしく、そなたが殺した者の魂が、海に還りゆくさまではない、などと……〉
(−−−−おまえは、見ていたのか?)
〈ここは、私の地と言ったはずだ〉
二人の間を、音もなく、風が吹き抜けた。死んでしまった、それなのにひど
く美しい、銀色の花を、光の粒に変えながら。
(ならば、もう一度あれを起こしてくれ)
『彼』の申し出に、影は首を傾げた。
〈何故に?〉
(共に帰るために……あれでは、悲しすぎる……)
その言葉に、影はいよいよ不思議そうに、『彼』を見た。
〈悲しい? 海に還ることが?〉
(そうだ)
憐れみが、影の玲瓏たる美貌の上に、翼を広げた。
〈ああ、そなたはあのものを、最期まで理解しなかった〉
(…………?)
困惑する『彼』に向かって、影は頭を振って見せた。
〈海に還ることを望んだのは、あれ自身。あれの好きにさせるがよい〉
(しかし!)
〈そなたは何故に、あれを甦らせたい?〉
すべての色を映し出す瞳が、『彼』を真直に見つめた。そのなかには光と闇
が、この世に存在するあらゆる感情の影があった。が、それらを理解すること
は、『彼』には出来なかった。
(それは……)
いいよどむ『彼』に、影は微笑んだ。涙を流しながら笑った。
〈ああ、しかしどんな理由があろうとも、眠らせるままにしておくがいい。私
にはあれが、そなたよりは理解できる。あれが、何故に眠ろうとしているかを。
私も、もし叶うなら、ここで永劫に眠りたいのだから。もし許されるなら、こ
こで、降りしきる夢と魂のかけらに埋もれて。何もない、悲しみだけの荒野に。
夢も見ずに〉
それは、彼岸の微笑であった。
それは、どんなに望んでも、なお決して得られぬものがあることを、知り尽
くしたがゆえの微笑であり、それを望むことすら罪悪と、知ってしまったがゆ
えの微笑であった。
『彼』は、言葉を失った。なぜ、と問うこともできなかった。あらゆる問い
と言葉を無力にする大いなる『時』が、おのれと人影を隔てていることを、『
彼』はふいに悟った。『彼』は、確かに有限であった。そして、目の前の人影
は、ひとつの夢幻であるかのようであった。『彼』は黙って、その姿が月の光
に、無限のようにゆらめくさまを見つめた。すべてが夢のように美しく、輝か
しく、悲しかった。影はやがて、海の彼方を指し示した。
〈さあ、もう行くがよい。そなたゆえに、私は起きねばならなかった。私は再
び眠りにつく。時の果て、最期の星が咲いて散る、その時まで〉
凍てついた海。『彼』が望んでやまなんだものが、眠る海。
あの死者は、夢だけを見て、眠ると言った……夢の残骸だけがたゆたう海で、
何を夢見て眠るのだろう?
わずかなりとも、私を夢見ることがあるのだろうかと、『彼』は思った。そ
れとも、あのものにとって私は、既に失われた存在なのだろうか。
影は静かに、空に溶けてゆこうとした。『彼』は急いで言った。
(待ってくれ。最後にひとつだけ教えてくれ。おまえは何者だ)
〈私か?〉
ちらりと、先刻の微笑みの名残が、もはやあいまいな顔を翳めた。
〈……私は……『時』であり、『死』であり、『宿命』であるものだ〉
〈時を認識するものがいなくなれば、『時』たる私は消える。もはや死すべき
ものがいなくなれば……『死』たる私は消える。そして、すべての輪廻の輪が、
この空の砂と化すその時には、『宿命』たる私も消滅する……〉
姿は希薄になり、もはや、雪と月光にくらんだ『彼』の眼には、捕らえるこ
とはかなわなかった。ただ、遠くなる笑い声だけが、『彼』の耳に届いた。〈
ここには、誰もいない……生あるものは、なにものも存在せぬ。故に私は、こ
こでのみ眠ることができる……〉
〈……罪だろうか……私が眠ることを欲するのは……?〉
微笑のなかには、存在することに対する哀しみが−−『彼』には決して理解
できぬ悲哀が−−まるで夜空の星のように、きららかに輝いていた。
その輝きは、『彼』の魂の奥に刻み込まれ、幾重にも幾重にもこだまし、甦
り、ついにはかの金色の髪の面影と重なり合い、ひとつになった。
その瞬間、『彼』はようやく、己が手にかけた者を、僅かではあれ、理解す
ることができたと思った。
そして気が付いたとき、『彼』は再び一人であった。
『彼』の目の前には雪原はなく、あるのは金色の砂漠であった。
奇妙な夢を見た、とでもいうように、『彼』は軽く頭を振った。『彼』は、
金の髪と海の色の瞳のかの死者も知らねば、吹雪と散る花の中で、人を殺めた
記憶もなかった。
『彼』の記憶は、『彼』のものではなかった。誰かの失われた記憶が、『彼』
と共鳴して生まれた幻なのかも知れない。
(あるいは……)
あるいは、あれもまた、己なのだろうか。
『彼』は、花のなかで立ち尽くす影を思った。
幾度も幾度も、繰り返し自分は、同じような罪を重ねてきたのだろうか。そ
してまた、これからも重ねることを、運命付けられているのだろうか。
『彼』の声に答えたのは、風のみ、その風は、遠い、氷と哀しみの海から流
れてきた風のように思われた。
しかし、それもじきに止み、『彼』は黙って歩き始めた。歩を運ぶたび、き
しきしと足許で砂が鳴った。暮れゆく太陽の光を受けて、その一粒一粒が白く
きらめいた。
あたかも、雪のごとく。
〈MISSING LINK・3 に続く〉