AWC    マタイ受難曲          椿 美枝子


        
#1832/3137 空中分解2
★タイトル (RMM     )  92/ 6/19   1: 7  (110)
   マタイ受難曲          椿 美枝子
★内容
  そして三時頃に、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
 と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったの
 ですか」という意味である。
                    [マタイによる福音書27章46節]


 最低限の日用品と鉄道の学生割引証と財布だけを持って、部屋を出た。横浜駅では、
すでに大垣行きの最終夜行列車を表示するホームが隣に見える。焦燥。
 私は青森行きの夜行列車に乗る。突然、決めた。日常の追いかけてこないところに
行こう、と。
 上野駅についたのは22時少し前。ぎりぎり、青森行きの最終夜行列車に間に合う
筈の時間。早足で駅を歩き、周遊券を買おうとした。駅の窓口は既に営業時間外と知
り、愕然とする。手持ちは少ない。そして、しぶしぶ私は今日の夜行を諦めた。ぼん
やりと駅でコーヒーを飲む。ぐるぐると山手線に乗る。意味もなく東京駅で降りる。

 どこに隠れよう。夜の闇は私を隠してくれるとは限らない。

 八重洲口を出た。数人の愛想の良い男性達がそれぞれ、駅からふらふらと流れて来
る疲れた人達に、慣れた様子で声を掛けている。その人選は見事で、一人また一人と
確実に彼らの黒い車に導かれる。時には同業者に互いの収穫を融通し合い、やがて数
人を同じ車に詰め終わった一人は、自らその車を運転してテイルランプの中に消えて
いく。
 彼らを『白タク』と呼ぶ事を、私は後で知った。私は彼らの一人に声を掛けられて
しまったのである。

 東京駅で一晩を過ごす訳にはいかなかった。駅のアナウンスが丁寧に告げる。駅は
閉ざされてしまうので、中に居られない、という事を。
 夜の闇が、私を誘う。眠る事はないよ、出ておいで、怖くないよ。

 私に声を掛けてきたのは中年の男性だった。訳を話すと、もっともらしく頷く。私
はぼんやり、人買いというのは、こんな人なのかしら、と、思う。
 ちょっとそこで待っていて。そういうと、彼は先程の営業活動を、新たに着いたら
しい電車が大勢降ろした客に再開する。どうやら彼は、千葉専門らしい。
 営業活動の合間に彼は私に色々と話しかける。
 今夜過ごす場所が無いなら、おじさんと一緒にドライブしないか。お仕事のお邪魔
じゃありませんか。いや、今日は千葉に一仕事したらもう終わりにするから、その間
も車に乗っていればいいから。いいんですか。構わないよ、家出娘は駄目だけど、お
姉さんはちゃんとした学生さんだろ。家出娘に見えませんでしたか、私。見えないよ、
ちゃんとわかるさ、それに仲間に家出娘専門の若い奴が居てね。そう言ってウインク
する気ばかり若いこの『おじさん』を、私は、黒い車に乗って待つ事になった。

 これは、親や恋人に話せないな、と思い、苦笑する。
 古い恋人と別れ、新しい恋人が出来た矢先だった。恋人なのかも、わからない。左
程まだ何も、与えない、求めない、そんなあっさりとした関係なので、私は、北に行
こうと思った。
 北に行こう。その間に、忘れ、壊れる関係ならば、忘れてしまえ、壊れてしまえ。

 黒い車に酔客が二人、乗ってきた。人生に疲れ、酒を飲み、終電に置いて行かれ、
一様に悲しげな、東京の歯車達。彼らの帰る家は幸せだろうか。帰る家には居場所が
あるのだろうか。お客さん、船橋ね。お客さん、津田沼ね。『おじさん』は微妙な差
のある値段を決めて、運転を始める。どうやら後払いらしい。

 首都高速道路。
 テイルランプの帯、広告塔の壁、高層ビルの森、照明、照明、照明。この景色は前
に見た。涙が出る。古い恋人と観た、20年前につくられた外国映画の中で、近未来
を描く映像は20年前の東京の首都高の景色だった。その時のものと寸分違わぬかの
様に映し出され、やはり今でも近未来に居るかの様な気持ちにさせる景色。蛇行する
道は自然の名残。ふと、Bachのマタイ受難曲を思い出す。確かあの曲はその映画
に使われていた。文化が自然に与える、止むを得ぬ楔。自然は十字架についたのだ、
文化の為に。痛々しい、美しさ。自然も、文化も、大好きだよ。

 船橋と津田沼を近くでそれぞれ揺り起こしてお金を取ると『おじさん』は私に助手
席に来るように促す。嫌な予感。予感は経験に基づいて、適切な防衛の手段として鳴
り響く、先刻から頭の中で流れるマタイ受難曲と共に。

 どこかに行きたい訳ではない。一晩中、どこかで暇を潰したいだけ。誰かと過ごし
たい訳ではない。少しは、人恋しかったかもしれないけれど。

『おじさん』はひそやかな公園の近くに車を止め、自動販売機でコーヒーを買い、様
々な事を話す。妻と別れて独身になった事。子供が居ない事。実入りがいいので白タ
クの運転手を始めた事。普通の人が働いている時に眠っている事。カラオケで歌う為
に今演歌の曲を練習している事。知り合いの女性には酒場の中年女性位しか居ない事。
こうして若い女性と話しているだけで楽しいという事。
 突然、右手に生暖かい感触。マタイ受難曲はイエスの絶叫にさしかかる。
「Eli,Eli,lama lama,asabthani?」
 とっさに出来事を理解した私は、私の手を伸ばされた手の下からそっと退かす、相
手の心を傷つけない程度に。今、ここで置いて行かれたら、私も財布も困ってしまう。
そんな事を考えている私を私は嫌になる。醜い、と思ったのは多分、キリストと比べ
たからであろう。私は今夜の居場所の為に右手を売ったのかもしれない。
『おじさん』はまた話し始める。相手が嫌がるような事は決してしない事。本当に、
若い女性と話しているだけで、楽しいという事。
 それらはいささか弁解じみて、言わせてしまった私は延々と憂鬱になる。

 何故、私はここにいるのだろう。それは、どこでもよかったから。でもここは、少
しも楽しくない。嬉しくない。そして、新しい恋人を、思い出す。きっと、彼の事を
本当に、好きなのだろう。もう、逃げない。これから愛を築き上げていかねばならな
い。そこから逃げない。彼の事を、愛している。彼と共に、過ごしたい。

『おじさん』はどこの駅に行きたいかを尋ねる。私は、上野か東京、と答える。『お
じさん』は上野に向かって運転を始めた。空がほんのり薄青くなる頃、終日営業のレ
ストランに入り朝食にする。物わかりの良い『おじさん』は、もう、私の手に触れも
しなかった。一言、もう若い頃の様にはいかないのさ、と言い、意味有りげに笑った。
手の触り賃、と言って『おじさん』が朝食代を奢ると、互いに寡黙になった。再び車
に乗る。程無く着いた上野駅で降ろして貰い、礼を言う。まるで、いつでも会えるか
の様に笑ってみせた。感謝を込めて。『おじさん』は、どう、受けとめただろう。

 夜の闇は好きだけれど、まだ一人では手に負えない。

 人々が動き始める朝5時の上野駅。
 私は心に決める。新幹線で行って、新幹線で帰ろう。旅先から葉書を出そう、恋人
のもとへ。そしてすぐに帰ろう、恋人のもとへ。帰る為に、旅立とう。

 もう、マタイ受難曲は居なくなっていた。


                       1992.6.7.23:00

                                Ende

          楽理という仇名 こと 椿 美枝子




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