AWC 木霊(3)       青木無常


        
#1709/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ     )  92/ 5/18  11:39  (188)
木霊(3)       青木無常
★内容
 「よう」と武彦が、低くよく響く声音で語りかけた。「勝手にあがりこんじまっ
て悪かったな。今晩ひとばんだけでも世話にならせてくれよ。俺は浄土武彦、こっ
ちは妹のゆかり。それに草柳って名の、酔狂なおっさんだ。ところで……あんたの
ことは、なんと呼べばいい?」
 挑むような口調の武彦の問いかけに、髪も髭ものび放題のうす汚れた痩せ坊主は、
まるで生気を宿さぬ無表情のまま、うっそりと答えた。
 「与阿弥である」
 その与阿弥の背後で、満月が白い光を冴えざえと地上に投げかけていた。


    5


 「あんた、もしかして『ちぎり鬼』の与阿弥さんかい?」
 冗談めかして訊く草柳の声音が緊張に上ずっていた。痩せ聖はそれには答えず、
「あす早くに出ていけ」と短くぼそりと言って奥の間に歩を踏みこむ。それきり三
人には注意をふりむけようともせず、開かれた孔雀経捨心説諭を一心に黙読しはじ
めた。
 「おい」と、息だけで呼びかけながら草柳が武彦を肘でつついた。「本当かよ」
 「さてね」
 むっつりと言い捨てて、それきり武彦も黙りこむ姿勢だ。草柳はわずかに眉をし
かめてゆかりに目を向け、「こういう人なのよ」とでも言いたげに少女が微笑んで
いるのを見つける。
 「試す手はあるぜ」
 気をとり直したか、ついと意外に身軽い動作で立ちあがると、板間に放りだして
おいたザックの口を開きはじめた。ほどもなく、中から出てきたのは、
 「酒か」
 ため息のように言って武彦がごくりと喉を鳴らす。それを見て熊男は得意げにに
やりと笑い、
 「般若湯さ」と言いながら続いてコッヘルを四つ、取り出した。「里にいるとき
にな。深山ん中じゃ夜することもなかろうと買っといたんだがな、どうも生来の寂
しがり屋が災いしたか手酌じゃどうも飲む気にならねえ」
 「なるほど、いい性格してるじゃねえか」
 「おお。つうわけでよ、お嬢ちゃん、悪ィんだがちいと酌してもらえるかい?」
 酒盛りがはじまった。奥間の坊主にも声をかけたのだが、返事もなく出てくる気
配もない。「酒断ちかい。性根いれかえたか生臭坊主が」と草柳がいえば「なに百
年も山暮らしで他人とどうつきあえばいいのか忘れちまったのさ」と武彦も挑発し
ているとしかとれない遠慮のなさだ。
 聖尻目にどんちゃかとさんざ飲み散らかしたあげく、夜もいいかげん更けようと
いうころあいになって、ようやくのことで小屋内に静寂が訪れた。
 三人がいぎたなく眠りこけてからも長い間、与阿弥は終始姿勢を崩すことはなか
った。まるで彫像のように硬直したまま、開かれた経典の同じ部分を見つめつづけ
ている。
 まばたきもしない双眸は、経文ではなく底なしの闇を見つめているかのようだっ
た。
 ――崩れかけた採光窓からさし染める満月の光に触発されるようにして、それは
始まった。
 最初は、小さなうめき声にすぎなかった。う、と与阿弥の喉を震わせたかすかな
声は、隣室で眠る三人の寝息にさえ届かぬほど弱々しいものだった。そのまま数刻、
音も動きもないままに過ぎた。
 異変は突如おとずれた。ぼう、と喚声ともうなりともとれぬ声を発すると同時に、
与阿弥の全身が倍以上に一気に膨れあがった。一点にそそがれていた双の瞳に炎の
ような光が宿り、同時にまばらな白髪のたれる額を裂いて二本の突起が突き出した。
 痩せ聖とは似ても似つかぬ隆々とした体躯がやにわにがばと跳ね起き、二間ほど
の距離を飛びこえて眠る影に一気に肉迫した。選ばれたのは、ゆかりだった。
 ごぼ、と汚濁にまみれた唾液をまき散らしながら展かれた巨大な牙のならぶ顎が
閉じられる寸前に、ゆかりの体躯はくるりと身軽く回転していた。
 首筋に三重にまかれた数珠の一端を、ゆかりはくい、と引いた。繊手に引かれて
するりと外れた数珠は、珠のつらなる鞭と化した。手もとと先端に挟みこまれた曲
珠の一端は、針のように研ぎすまされている。
 シ、と夜気を裂いて真白い円弧が鬼の喉もとを走りぬけた。底に響く鬼の叫びが、
ぼろ小屋をぐらぐらと震わせた。悲鳴ではなく、驚きと怒りの叫びだった。
 「うるせえなあ」
 呑気な寝ぼけ声を背後にきいて、鬼は怒りに燃える視線をゆかりから武彦へとふ
りかえらせた。眠そうに目をこすりながら半身を起こす若者に向けて、鋭利な指爪
ふり立てて踊りかかった。
 今度あがったのは、たしかに悲鳴だった。苦痛への狂おしい喚き声が文字どおり
小屋を震撼させ、切り落とされた左腕の根もとをおさえて巨鬼は屋外へと疾風のよ
うに走り出た。
 「逃げ足のはやい」
 呆れたようにつぶやきながら、ゆるりと武彦が立ちあがる。顔貌にはすでに眠気
のかけらもない。「後を頼む」短く言い捨てて、鬼を追ってすばやい足どりで小屋
を後にした。
 兄を見送り、ゆかりはなおも深く眠りこむ体の草柳に呆れたような一瞥をむける。
 その視線が――すぼめられた。
 異様な気を、感知していた。背後――ちがう。正面――ちがう。頭上、左右――
ちがう。四方を囲む気が、不意に神威を帯びた――としか思えなかった。小屋が、
一帯が、否、山そのものが神秘な変貌をとげた――そうとさえ思わせるほどの、巨
大さ、唐突さ。
 意の集中点を特定できぬまま、ゆかりは棒立ちになった。息をつめて待つこと数
刻、神秘はその出現と同様、唐突に収束した。
 白い霧のような塊が凝固するのへ、ゆかりは敏捷に全身をふり向けていた。
 武彦に落とされた鬼の左手の上に、その塊は凝縮しつつあった。
 人の姿をしていた。
 と見てとると同時に、ゆかりは鬼の左手がじゅうじゅうと音を立てて溶解してい
くのを発見した。
 声立てる間もなく、骨も残さずそれが融解蒸発し果てたとき、深山を貫いて夜を
震わせる叫び声が遥か彼方から轟くのを耳にした。怒号とも悲鳴ともとれる叫びだ
った。
 長く尾をひく悲鳴が絶えるのを待つようにして、眼前に浮かぶ白い人型の霧がく
るりとふりかえる気配があった。
 「待って」呼びかけは反射的に口をついて出たものだった。次につづけるべき言
葉を思い浮かべるまでの数瞬をおいて、ゆかりは問うた。「あなたは誰?」
 霧が、ふりむいたような気がした。そして声は脳内に直接響いた。
 「与阿弥である」


    6


 鬼の足は異様に速かった。武彦とて山野を走る足は常人をはるかに凌駕している。
その武彦が追いきれずに見失い、途方に暮れた。
 指針は彼方から鳴り響いた。
 絶叫だった。
 長く尾をひく咆哮を追って、武彦はふたたび走り出す。
 苦鳴はうめきの余韻を残して、武彦の眼前に展開した。樹間をぬって踊り出た台
地に、落とされた左腕のつけ根をおさえて呪咀と憎悪に双眸を爛々と光らせる巨大
な影があった。
 だらだらと盛大にしたたり落ちる傷口からは、奇怪な肉瘤が盛り上がっている。
 それは、こどものような白い、未生の腕の形をしていた。
 粘液にまみれたその腕が、びくびくと、生まれ出る苦しみを体現するかのように
して震えていた。それ以上出られぬ、まるでそう慟哭するごとく、腕の動きは狂お
しく情けなげにもがきまわる。
 「ちがう、な」つぶやきが、武彦の口をついて出た。「ゆかりとは、ちがう」
 そのつぶやきに、苦痛と憎悪に充ちた鬼の両の眼が向けられた。咬みあわされた
長大な牙が、ぎち、と音を立てる。
 「……やっかいなことに首つっこんじまったぜ」
 つぶやき、武彦は腰を落とした。胸前にかまえた右手に、銀光はなつ両刃の剣が
握られていた。
 おう、と叫んで鬼の巨躯が踊りあがった。
 月光に、戯画のごとくこどもの左腕を生やした影が身をひねる。刃のように鋭利
な爪が弧を描き、退る武彦の軌跡を追った。上体をかわしつつ、握られた短剣が迫
る鬼の右腕にむけてせりあがる。
 切り裂くより以前に、かっと開かれた鬼の口から大量の唾液が武彦の腕に浴びせ
られた。抑えた苦鳴が喉からもれる。
 うめきつつ、つづけざまにバックステップを切って樹間に難を逃れながら武彦は、
己の右腕を強襲した刺激の全貌を確認する。熱――単純な熱に過ぎなかった。鬼の
吐いた粘状の汚液は、ただの熱湯だった。
 ただし効果は絶大だ。手にした武器は熱への反射でとり落とされたまま台地に置
きざりにされ、巨躯に似合わぬ敏捷さで武彦に追撃をかける邪鬼のはるか背後だ。
 糞、と喉を鳴らしつつ尻ポケットに手をのばす。突き出た麻袋の内部から、漆黒
両刃の手裏剣を抜き出した。眼前に迫る腕と牙にむけて突き出す。
 ぎん、と火花の散るような音を立てて――鋼鉄のように固い皮膚に阻まれ、手裏
剣はふたつに砕けて落ちた。
 刺激に充ちた異臭から逃れるようにしてなおも決死の後退を続行する。障害とな
る樹木や地の凹凸を勘だけで避けつづけるにも限界があった。なによりも、重力が
武彦の後頭部をしきりに引き寄せる。
 「糞ったれがよ」
 つぶやき、足で大地を蹴りつけた。
 後方に向けて飛んだ。飛びながら、三本の手裏剣を抜き出した。
 黒い閃光が三条、闇を裂いた。
 丸太のような腕が、薙いだ。一本は払われ、二本が的を射た。
 左眼、そして開かれた口腔に、鋭利な刃が吸いこまれた。叫びをあげつつ鬼は、
上体を落としざま宙を飛ぶ武彦の体躯を薙ぎ払った。
 跳ね飛ばされ、叩きつけられた。衝撃を受け身で吸収しざま回転して距離をとり、
さらに三本を左手に抜き出しながら身がまえた。がくりと、膝が砕けた。足骨を砕
かれていた。
 うずくまり、右腕で鬼は左眼を狂おしくかきむしっていた。突き出した手裏剣ご
と眼球に爪を立て――えぐり出した。
 ぼとぼとと雑草の上に鮮血がしたたり、瞬く間に水たまりを形成する。そしても
うひとつ。
 鬼の口中で、がりがりと何かを咀嚼する音。
 研ぎすまされた鉄の塊を、鬼は咬み砕いているのだった。
 残された右の隻眼が、ぎろりと武彦をにらみすえる。
 その傍らで、神経繊維をたらした左の眼窩に何かが蠢いているのを武彦は見た。
 盛りあがっている。白いものが。
 「プラナリアなんざ目じゃねえな……」
 つぶやきながら武彦は、闘志が萎えようとするのを自覚した。
 えぐり出された空洞の内部で、眼球が再生しようとしているのだ。それも、高速
度映像のように、見る間に。脳を噴き飛ばしても復元するかもしれない。ならば左
腕は――?
 戯画の腕は最初目にした時と同じく、成長する気配さえ見せてはいない。どころ
か、いまやひくりとさえ蠢くことなく力なくたれ下がっている。置きざりにされた
短剣にこめられた神気の効能か、あるいは――あるいは?
 お、お、お、と、歓喜とも怒りともとれるうめきに喉震わせつつ鬼は、ずしり、
ずしりと武彦に向けて歩を踏みだす。手裏剣をかまえつつ、武彦はぎり、と奥歯を
咬みしめた。
 巨体がのびあがり右腕をふりあげた一瞬の間隙をついて、武彦は無事な片足で地
を蹴りつけた。閃きは鬼の懐に深々ともぐりこんだ。獣毛をぬって手裏剣は喉もと
に突きたつ。
 そのまま背後に向けて飛んだ。倒れこんだ。
 鬼は喉もとから手裏剣を生やし、右腕を天に向けてふりあげたまま硬直していた。
そのまま――凍結した時が四囲を充たした。
 倒れこんだ姿勢のまま瞠目していた武彦が、ふいに長い息をついた。
 「まだかよ。うんざりさせてくれるぜ……」
 つぶやきに呼応するように、咆哮が月に放たれた。
 全身を震わせながら鬼は月に向けてひしりあげ、野太い声帯の振動にあわせるよ
うにして突き立てられた手裏剣がぶるぶると震えながら押し出され――ほとりと、
下生えの上に落ちた。
 いつ果てるともない吠え声が下方を向き、ふりあげられた腕が弧を描いた。
 片足で身がまえた武彦は強襲をかいくぐってふたたび鬼の懐に飛びこんだ。フェ
イントをかける余裕は、まるでない。正面から肩をぶつけた。
 片足でさえ相撲とりをも跳ね飛ばすほどの武彦のぶちかましは、鉄の壁に跳ねか
えされた。ふりきられた腕がそのまま武彦を抱きこみ、しめつけた。
 手裏剣を抜く間もなかった。一瞬で、内臓が抱きつぶされていたかもしれない。
 鬼が――武彦を放り出してふりかえらなかったら。
 地に落とされて咳こみながら、武彦は何が起こったのかを確認しようと目をあげ
た。




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