#1707/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 92/ 5/18 11:30 (187)
木霊(1) 青木無常
★内容
1
かん、かん、と冴えた音が暮れかけた深山に反響した。
「どうした」
と、先行していた武彦がふりむく。ゆかりは「なんでもないよ」と首を左右にふ
りつつ、手にした木ぎれを放り捨てた。
「いい音したでしょ」
潅木をかきわけて進む武彦に追いついて、言う。
「あん?」
「だからさ、今の木。こん、こん、て」
は、と武彦は苦笑する。
「いい性格してるぜ」
「でしょ?」
と笑みかわす。
ふと、一陣の風がかたわらを吹きすぎた。
その風に、なにか不思議な気配を感じて兄妹はふりかえる。暮れかけた山稜には
もとより、なんの異変も見出だすことはできなかった。
それきり些細なできごとはふたりの脳裏から霧消した。不意に、なんの脈絡もな
くかたわらの樹木の幹を鳴らしてみたい、とゆかりを衝きあげた衝動のことも。
「野宿するしかねえな」
獣道らしき踏草をしばしたどった後、武彦はため息まじりにつぶやく。稜線に陽
を隠した山なみは、急速に夜に蝕まれはじめている。とその時、傍らの崖上からざ
ざざと音が降りてきた。
どさりと耳ざわりな音源が尻もちをつく。
「やあ、いててて」
と、音は男の形をとって尻もちをついたまま、てれたように頭をかいた。
「驚かせてもうしわけない。ところで、あなたたちも道に迷いましたか」
にこにこと快活に笑いながら言う。年齢は三十前後。満面の髭面に髪ものび放題
だ。三メートルほどの間隔をおいて、ぷうんと異臭がただよってくる。一ヵ月、と
ゆかりは判断した。ひとが衣服を洗わず風呂にも入らず一ヵ月を経れば、こういう
臭いを発するようになる。昨日まで山で獣と暮らしていたと言われれば、ああ、な
るほどと瞬時に納得できてしまうにちがいない。
武彦はうさん臭げに、眼前の熊男をひとしきりじろじろと眺めわたす。とはいえ、
当の武彦とゆかりもまた、あまり清潔なナリとはいえない。
「ああ」と得心したのかしないのか、黒々と頭上に迫りはじめた山容にふと視線
を移しつつ武彦は答えた。「四、五時間前から狸詣でしちまってる。野宿しかねえ
かと腹きめかけてるところだ」
「実は俺もそうなんだけどね」どっこらしょっと、泥や埃をはらいつつ男は立ち
あがった。「ついさっき、あっちのほうに」と谷側を指さし、「灯りがともってる
のを見つけてね」
「それで落ちてきたんですか?」
と、これはゆかり。
「いやあ」ぼりぼりと後頭部をかきむしる。「ちょっと、足踏みはずしてねえ」
「どっちだい?」
との武彦の問いに、髭男は「こっちだ。いってみよう」と当然のように先頭を進
みはじめる。
濃密な夕闇に足をとられぬよう慎重な足どりで、三人は深山の灯火を目ざした。
男が「草柳」と名乗ったのをきっかけに、道すがら話が交わされる。
「麓の村でおもしろい伝承を耳にしてね」と武彦は男に問われるままに語った。
「『千切り鬼退治』て話なんだが」
「ちぎり……鬼?」
「ああ。大昔にここらあたりの山ンなかに棲んでた化物のことだそうだがな。な
んでも月の満ちる夜に村におりてきちゃ女こどもの首をきまって三つ、ちぎっては
喰いちらかして帰るってとこからこう呼ばれるようになったらしいな。どれくらい
昔の話なのかはよくわからないんだが、その鬼は三百年もの齢を重ねていたってこ
った」
「三百年間、毎月三人づつ犠牲者が出てたってのか。その村もまあ、よくも保っ
たもんだな」
「それだよ。ある日、ひょっこり旅の坊主が通りがかったってんだよ」
「なるほど」
「存続の危機に脅かされていた村人はよってたかってその坊主を大歓迎してな。
っつってもこんな山奥の寒村だ。たいしたもてなしなんざできなかったらしいが、
それでもたまたまその日、山で猪がつかまったんで、鍋にして出したらしい」
ぐう、と草柳の腹が鳴った。
「糞っ、生臭坊主め。許せん」
「まったくだ、といいたいところだがそうもいかん」と首をふる武彦の腹もぎゅ
うと鳴った。「坊主め、獣肉はいかんとそれだけは固辞しやがったらしい。そこで
村人は精進料理めいたものでもてなすことにしたらしい。断られるだろうとは思い
つつ酒も出した。ところが聖どの、こいつにゃ手を出した」
「ぬう? どうにも許せん」
「般若湯、てわけだな。こいつだけは飯が終わってからも手放さず、結局その後
も一日中ちびりちびりと飲みつづけたらしい。で村人ども、さんざ食らわせ飲ませ
たあげく、山怪の調伏を願い出た。ひさしぶりの酔いも手伝ってか、坊主はふたつ
返事でひきうけて次の朝、山へ入った」
「うん。それで?」
「それっきりだ」
「ざまあみろ」
「おう。ところがよ、次の満月の夜、くるはずの化物が現われねえ」
「ほう?」
「次も、その次もだ。さてはあの聖、乞食坊主のようなナリはしていてもかなり
の霊力をもっていて、みごと『千切り鬼』を退治てのけたか、と四度目の月が満ち
る前に若い衆が勇を鼓舞して様子をさぐりにいった」
「うんうん。それで?」
「ところが、戻ってきた奴がいうには、鬼がいたという。消えかけて再燃した畏
れと不安とで、その後はだれも山に入らなくなっちまった」
「なるほどねえ」
「こいつぁ今でもつづいてるらしくてな。俺たちが山に入るといったら、必死に
ひきとめられちまったよ。だがな、話はこれで終わりじゃねえ」
「ん?」
「山に人が踏みこまないようになってから五十年だか百年だか経ったある日のこ
とだ。子どもがひとり、行方しれずになった。祟りを畏れて山に入りたがらねえ村
人尻目に、四人の親兄弟は半狂乱になって探しまわったが、三日経っても見つから
ない。それどころか、案の定三日目にゃあ当の家族も帰ってこなくなっちまった。
ところが、だ。それから半月ほど経って、最初に神かくしにあった子どもがひょっ
こり戻ってきた」
「月齢にして、いつごろかわかるか?」
「鋭いじゃねえか。親兄弟が戻ってこなくなったころがちょうど満月のころあい
だってこった」
「ふむ」
「でよ。戻ったガキぁ放心状態で半分痴呆みたいになっちまってたらしいんだが、
それでも三年ほどの時間をおいて、なにが起こったかぽつぽつ口にした。そいつを
組みあわせて筋道つけた話ってのがよ」
と、そこでふいに武彦が立ちどまった。気づかず数歩、進みかけて草柳がふりか
える。
「なんでえ。話のもたせ方がうめえな」
「そうじゃねえ」
「ん?」
と目をむく草柳に、武彦の半歩うしろでゆかりが斜め前方にむけて、指をつき出
してみせた。いぶかしげにふりかえる髭面はすぐに喜色をうかべて視線を戻す。
濃藍の空に圧倒的にそびえる威容の下方、ぽつりと、つつましく灯火がほの見え
ていた。
2
雨露をしのぐ屋根がついているだけでも上出来だろう。灯りを見つけてから小一
時間、やっとの思いでたどりついたそこは、なかば以上腐食していまにも倒壊しそ
うな、荒れ果てた山小屋だった。
「こんなところに人が住んでるのか?」
腐り果てた板目の隙間からもれる灯火を見やりつつ、疑わしげに武彦がつぶやく。
のぞいてみたが、炉にくべられた薪がいまは細々と炎をあげているだけで、人かげ
はいっかな見あたらない。薪の燃えぐあいからして、小屋をあけてからずいぶん時
間が経っているのだろう。何者かはしらず、いよいよ濃くなりまさる一方のこの暗
闇の底に、いったいなんのために出かけたというのか。
草柳も不審をあらわにして四囲を眺めわたしていたが、
「とりあえず、火にあたらせてもらおうや」
と崩れかけた扉をすりぬけるようにして小屋の内部に踏みこんだ。
後を追おうとする武彦の袖を、ついとゆかりが引いた。
「獣臭がする」
なんだ? とふりかえる武彦にゆかりは、声をひそめてそうささやいた。
「? 野犬じゃねえだろうな」
眉をよせて訊きかえす武彦の言葉は、山中に生息する生きもののうちでもっとも
危険なのが犬であることを示している。熊のような大型で強力な野獣などは、人の
臭いを知覚すれば自ら身を隠す。だが、飢えた野犬は徒党を組み、しかも無闇に人
を恐れるようなことはない。かつての家畜は、その危険性において野性をはるかに
凌駕する。が――
ゆかりは小さく首を左右にふった。
「野犬じゃないわ。ほかの獣でも。こんな臭い……かいだことない」
武彦の双眸が、つうとすぼまる。警戒の表情だ。
視覚聴覚とともにゆかりの嗅覚は人間のそれとは比較にならず発達しており、好
調時には犬科の獣をもしのぐ。そしてさらには、一度かいだ種類の臭いは決して忘
れたためしがない。そのゆかりの鼻が、記憶外の臭気を感知したというのである。
「……どうも大当たりらしいな。小屋の内部はどうだ?」
油断なく周囲に気を飛ばした後、草柳のあとを追いつつ武彦はつぶやいた。
歩を踏みこみざま息をすうと一吸い、
「外より強いわ。格段」
ささやくようにゆかりは言った。
「なんにもねえ小屋だぜ」
かぶせるように、草柳があきれ顔で言う。地声が大きいせいか小屋じゅうにしら
じらと反響し、ご丁寧にかろうじてひっかかっていた体の倒し窓の木枠がガタンと
落下した。
「だれだかしらねえが、よくもまあこんな小屋で生活ができるもんだ」
と、はやばやと靴下までぬぎ捨てた素足の指の股をごりごりとこすった。悪質な
水虫を患っているようだ。
小屋のなかには、たしかになにもなかった。片隅に無造作に積み上げられた薪の
山、吊り棚、そしてもうしわけ程度の板壁にしきられて奥にしつらえられた一室に
も、木をけずりだして機能だけ整えた体裁の机らしきもの以外、なにもない。
「なんかがのってる」
その不細工な机のうえになにか見つけたか、ゆかりがすたすたと奥の部屋に踏み
こんだ。
「なんだなんだ」
と後を追う武彦にむけて、ごろんと床に大の字に寝ころびながら草柳が答えた。
「経文だぜ、そりゃあ」
見ると、言葉どおりなかばまで開きっぱなしの巻物様のものが転がっている。か
すれかけた漢文のつらなるその経典も、例にもれず歳月の侵食に今しも塵と化して
しまいかねない破損ぶりだ。
「……隠し念仏だな、こりゃあ……」
武彦がつぶやく。
「なんだってー?」
耳ざとく聞きつけて草柳がむくりと起きあがった。
「一角鬼……旛旺……水虎……鶇……夜叉妖怪の類がつらなってる。孔雀経外典
『捨心説諭論』だ。鬼怪怨霊の類を調伏する方法が書かれてる」
「くわしいなあ。あんたもしかして坊主の子どもかなんか?」
経文をひとつひとつ指し示す武彦の指先を肩口からのぞきこみながら、草柳は感
心したように言った。
「そんなのどかなもんじゃねえよ」言い放ち、話をそらすようにつけ加える。
「まさか山に消えた坊主の持ちものじゃねえだろうな」
はっまさか、と草柳は軽く鼻を鳴らした。
「そういえば、さっきの話のつづきをまだ聞いてない。山から生還したガキの身
の上に、いったいなにが起こったんだ?」
なおも経典に興味津々の武彦をひきずるように炉辺にすわらせ、消えかけた炉に
薪をつぎたしはじめた。しかたなしに、とでもいいたげにため息ひとつ、武彦は再
び物語をはじめた。