#1677/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 92/ 5/12 8:26 (150)
ネパールの三馬鹿(20) 青木無常PLUS
★内容
3.もうひとつの旅
舟つき場に着くと、ボート守りの二人組の背後で麻薬売りがニヤリと笑う。律儀
に待っててくれたらしい。待ってなくてもいいのに。はあ。
楽しかったかとくるので、おおと生返事する。それはよかった、じゃあ、試しに
一発やってみるか、という。おおと生返事する。と、麻薬屋は島の聖者と同様に俺
に煙草を出せといい、慣れた手つきで解体と再構成をはじめた。
手順は行者とほぼ同じだったが、この男はハシシを解体するときに爪と指の腹を
使ってもりもりと実にアバウトかつ手慣れた様子で細片に砕いていく。いつのまに
か見とれていた。
Kがさっきの行者の英語を通訳してくれたところによると、一本目では効きゃし
ないということだそうだ。なんだかそんなことがあるのだろうか。それは量をたく
さん喫えということなのか。まあたしかに島では回し喫みで一本まるまるやったわ
けではないがなあ。
さあできたぞ、と差し出された煙草を、俺は疑わしげに受け取った。よし……よ
し、これがラストトライだ。これで効かなかったら、俺はもうハシシの効かない体
質なのだ。よし。さあ喫うぞ。ほい。
と火をつけ、煙を吸いこみ、そして吐き出す。単調なくりかえしをゆっくりと続
け、ついに一本を根もとまで喫い終わった。
やはり何も来ない。あー。さっきから麻薬屋が「ンー、ニホンチン、ガンバレガ
ンバレ」と声をかけてくる(K注:「ナカジマ、ガンバレ」といってた。F1の中
島のこと?)。「リラックス、リラックス」そうか。リラックスか。そう言われて
もなあ。やっぱどきどきしちゃうよなあ。「山を想像してみるんだ。リラックス、
リラックス」山、ねえ。ふーん。来なきゃ来ないで、もういいけどさ。目でも閉じ
てみれば来るってのかなあ。
と目を閉じてみる。……うーん。なんだかいい気持ちのような気がしないでもな
いけど、気のせいだよなあこれはやっぱり。まあいいや。しばらくこうして静かに
してよう。
…………。
…………。
山、ね。
…………。
…………。
これ、かなあ?
…………。
…………。
「……Jさん」
とためらい勝ちにKが声をかけてくるのへ、右手を上げて制した。山のような、
単なる網膜の残像のような――どちらとも判別しがたい何かが俺の目蓋の裏に漂っ
ている。気のせいかもしれない。たぶん、気のせいだろう。が、なんとなく、ふん
わりと気持ちがよくなっていた。飛ぼうが飛ぶまいが、なんとなくもうどちらでも
いいような気になっていた。
こんなに平和だから、いいじゃないか。
…………。
…………。
「Jさん」
とYが呼びかける。俺はかすかに笑っていた。どうもなんとなく、楽しい気分に
なっていたのだ。気がつくと、なんだか体が左右にゆっくりと揺れているようだ。
ふむん。これかもしれない。なるほど、こいつはなかなか楽しいなあ。麻薬屋とY
たちが俺の状態についてあれこれ話しているのが聞こえるのだが、そんなこともど
うでもよくなっていた。楽しいや。なんとなく。
俺はそうして目を閉じたまま、なんとはなしに楽しい気分をしばらくの間満喫し、
そして目を開いた。
「サンキュー」
言いつつ、麻薬屋を見た。いい旅ができたか、との問いにうなずいてみせる。よ
かった、じゃあこれを買うか? とハシシの黒い塊を俺の前に出す。すこし交渉し
てみた。べつに無理に購入するつもりもなかったが、ルピーでもOKだというので
適当なところで手をうった。
「ほかにもいろいろあるぞ。マリファナはどうだ? LSDもあるぞ」
と来るのへもう金がねえからいい、と手をふりつつ立ちあがる。そのままなおも
しばらくあきらめようとせずに勧誘をつづける男に、ありがとう、と何度も礼を言
って交渉を終わらせた。
例によって本屋を物色するというYとKを待って、俺は湖を前にしばし佇んでい
る。
なんだか、じっと立っていると体がふらふらと左右に揺れる。酔ってるらしい。
ためしにぐるぐると歩きまわってみると、やっぱり足もとがまるで定まらない。だ
が不思議なことに酒に酔っているときの感覚とは明らかにちがう。頭は冴えている。
意識ははっきりとしているのだ。ただ体が思うように動かない。妙ちくりんだが、
楽しい感覚だ。
Kが本屋から出てきて俺に声をかけた。「酔っているみたいだ」と言うと、Kは
なんだか面白いことを口にした。何を言われたのかはよく覚えていない。ふだん聞
いても、別にどうってことのない普通の会話だったことだけは覚えている。その会
話がなんだか妙におかしくてたまらなくなっていた。ふいに腹の底から笑いがこみ
あげてきて、抑えきれなくなってきた。
「刺激に敏感になってるから、あんまり妙なこと言わないで」
と俺は、くつくつと笑いながらKに告げた。
Kが本屋に戻ってしまってからも、俺は笑いつづけていた。なんだか愉快でたま
らない。腹を抱えながらうずくまった。いかん。こんな光景を見られたら、まるき
り狂人だな。俺は呼吸困難になるほど延々と笑いつづけながら懸命に「おかしくな
い、なにもおかしくない」と自分に言いきかせていた。
笑いをやっとおさめて、しばらくの間そのままの姿勢でじっとしていた。まだ余
韻が残っているが、どうやら峠はこしたらしい。と、ふと冷静になってみると、な
んだか自分が笑いころげていたのが遥か昔のできごとのような気がしてきた。霞の
彼方で起こったことのように思えだのだ。
もしかして俺はいま自分が笑っているという幻覚にとりつかれていただけではな
いのか、と疑問が浮かんだ。出てきたKに正してみると、やっぱり実際に笑ってい
たらしい。うーん。よくわからない。
なにはともあれ、腹ごしらえにいこうと三人そろって歩きだした。ふらふらして
いて危なっかしいので、Kが俺のフォローにまわる。そうして歩いていると、妙な
ことに気がついた。「間」が助長されているのである。たとえば、道路の中央線あ
たりを見ながらぼーと歩いている。すると――どう表現すればいいのか――そう、
延々とぼーとしているような気がするのだ。つまり「間」あるいは「空白」が、間
延びするのである。おい、さっき俺が話しかけてからどれくらいの時間が経過した?
と訊くと、ほとんど時間など経っていないという答えが返ってくるのだ。会話など
をしている時はこういうことは起こらない。軽い舌のもつれも手伝って反応がワン
テンポ遅れたりはするのだが、自分の反応が遅延していることまではっきり意識し
ている。ところが瞬時でも会話がとぎれたりすると、とたんに飛んでしまう。意識
があさっての方角に飛んで、そこで間延びした空白にぼんやりと漂ってしまうので
ある。これはいったい、どういうことか。
そのうちにまた面白いことに気づいた。道路を見ていると飛ぶ。ところが、Kや
Yの顔を見ていると飛ばない。すっかり暮れてしまった夜空の暗黒を見ていると飛
ぶ。ところが山や湖や樹木を見ていると飛ばない。
刺激だ。刺激が入ると戻るのだ。意識がなにかに収束していれば反応の鈍さをの
ぞいてふだんとまったくかわりない。だがいったん意識の収束が解かれてぼーとし
たりすると、とたんにあさっての幻境にすっ飛んでいるのである。これは面白い。
とても面白い。なんだろう。なんだろう。なんなんだろう。
レストランに入った。ポカラに来て以来まともな食物にありつけなかったので、
メニューを慎重に選ぶ。こんなことをしている間にもなんだか意識が飛んでいるあ
いだの間延び感覚が何度となく俺をとらえ、なんだか延々とメニューを選びつづけ
ているような気がする。
そこは外国人用のちょっと洒落たレストランだった。メニューも豊富で、西洋料
理などもそろっている。しかしあまり妙なものを頼んでも外れたら恐いからここは
オーソドックスにカレーでいこう。と、そう決めるまでに永劫の時間が流れ去った
ような気がした。Yは変なディナーセット、Kはなんだか魚のステーキなんか頼ん
でやがる。湖畔だからという意図らしいが、魚というのは危ないんじゃないのか?
そして待った。待っているあいだにも、刺激が途切れると飛ぶ。たぶんこのレス
トランに入る前後がいちばん効いていたと思う。だから、何かYかKを相手に話し
かける。飛ぶ。返事が返る。飛ぶ。うなずく。飛ぶ。壁にかかった写真を見る。飛
ぶ。また話しかける。飛ぶ。というようなことを延々とくりかえしていた。当然、
料理が出てくるまでの待ち時間も助長される。なんだかさっきから延々と料理が出
てくるのを待っているような気がする。しかしそれがちっとも不快じゃない。まだ
かなあ、などと漠然と考えてはいるのだが、イライラするようなことがまるでない
のである。
料理が出てきた。飛ぶ。スプーンをとる。飛ぶ。カレーにスプーンをつきさす。
飛ぶ。ご飯をすくう。飛ぶ。口まで運ぶ。飛ぶ。食う。飛ぶ。まずい。飛ぶ。「ま
ずいよ、これ」飛ぶ。ため息をつく。飛ぶ。「やっぱJさん、ポカラでは食べ物に
恵まれないんだ」飛ぶ。「うん」飛ぶ。それにしてもまずい。飛ぶ。もう食うのや
だな。飛ぶ。
こんなことを延々とくりかえしているものだから、なんだかまずい料理を延々と
消化しつづけている。延々と消化しつづけているのに、ちっとも量が減らない。さ
すがにこれは苦痛だった。苦痛というより拷問に近い。助けてくれ。飛ぶ。まずい。
飛ぶ。俺もう、飛ぶ。食うの、飛ぶ。やめた。飛ぶ。ふう。飛ぶ。うまそう、飛ぶ。
だな、飛ぶ。それ。飛ぶ。魚の、飛ぶ。ステーキ。飛ぶ。Yのは、飛ぶ。まずそう、
飛ぶ。だけど。飛ぶ。めんどうなのでこの書き方はやめるが、とにかくのべつ飛び
まくっているのである。質問などをされれば、ちゃんと答えられる。ところが質問
されてから答えるまでの間にまた飛んでいる、という具合だ(Y注:うん、うん!?)。 デザートにアイスクリームを頼むというので、俺も口直しに大量に頼んだ。その
レストランにある種類は三人でほとんど網羅していたように思う。これがどれもう
まかった。例によって日本式にそれぞれを皆で少しずつわけあうという食い方だっ
たのだが、はっきりいって全部ひとりじめにしてしまいたいほどうまかった。
そうして飛びながらやっとのことで飯を食い終わり、レストランを後にして帰る
ことにした。このころに覚醒が少しずつやってき始めたらしい。俺はひとりでひょ
ろひょろと先頭を進む。少し離れて二人がつづく。ぺらぺらとよく喋っている。瀟
洒なホテルから音楽がどがんどがんと響いてくる。ロックだ。カトマンズの街で流
れているのは主に民族音楽とも演歌ともつかぬ妙な音楽ばかりだったが、このポカ
ラではロックのような景気がよくてやかましい音楽が中心だ。麻薬・白人文化の街
だからだろう。道々歩いている奴もそう思って見てみればなんだか胡散臭い奴ばか
りだ。