#1638/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 92/ 5/ 2 9:24 (106)
ネパールの三馬鹿(7) 青木無常PLUS
★内容
6.出発
3月16日(月)。
朝飯は卵焼とルティ。このルティというやつはクレープとパンをたして二でわっ
たようなシロモノでぺらぺらの熱い食べ物だ。山のように食ったが、薄手なのであ
まり腹が膨れない。でも味はよかった。生姜入りの例の紅茶を飲み干す(Y注:わ
たしは朝食を食べそこねたゾ)(K注:あ、そうだったの?)(J注:俺も気づか
なかった)。
飛行機の出発は昼すぎだが、バングラデシュでは社会教育関係の現場をほとんど
見ることのできなかったYはスラムの見学に出かけるという。同行者は、昨夜到着
した某福祉関係の大学のSという、これまた妙な男。この男の通う大学は昔、私の
実家のすぐ裏手にあったので妙に親近感を感じてしまう。そして三人組のうちの女
の子がひとり。ちなみに青年協力隊の胡散臭い青年はまだ奥の部屋で眠りこけてい
る。
あわただしく出かける三人を見送り、俺とKは昼ごろまでのんびりとそこで過ご
すことにした。せっかくだからバザールでもうろつけばよかったのだろうが、いか
にのんびりとした国とはいえ俺たちはこの二日間、あちこち歩きづめだったのでゆ
っくり体を休めておこうと、そういうことだ。へろへろと過ごしていると、青年海
外協力隊がぬぼーっと起きだしてくる。昼近い。朝飯はとうになくなっているだろ
う。こいつはこいつでのんびりした奴だ。
などと時間をつぶしていると、ふいにYが帰ってきた。ずいぶん早いじゃないか
と聞くと、出発に間に合いそうにないので断念したのだという。おやまあ気の毒に。
このバングラでは、Yの本来の目的に関しては思い通りにいかないことが多かった
ようだ。
やがてSさんが現われ、しばし話をしたのだが、驚いたことにSさんは俺が卒業
した某大学の先輩だということがこのとき判明した。中部圏のローカルな話題にし
ばし花が咲く。そして出発の時刻。
世話になったSさんに例をいい、俺たちは空港に向かう。政府の建物を横目にベ
ビタクは朝の街路を疾駆した。そういえば、絶対いこうねと固く約束していたあの
公園、結局いかなかったんだよなあ。
街にはあいかわらず人があふれ、強い陽射しのもと気怠い活気が渦巻いていた。
路上には腐りかけたゴミがあふれ出し、崩れかけた壁のむこうにバラックの内部で
蠢く人びとがほの見える。昨日は、路上に横たわりムスリムの祈りの手を頭上にか
ざされた女の姿を見た。そしてまた、陽気で屈託のない笑い声もまた。旅行者と見
ればカモとばかりに値段をつりあげ、時にはサギのような手段で暴利を貪り、そし
てあるいは路上に佇んだ外国人にどうかしたのかといつの間にか黒山の人だかりを
構成し、うろ覚えの英語を使ってなんのてらいもなく真正面からトモダチになりた
がる奴ら。
この国の差別、この国の熱気、この国の日常、この国の悲惨、この国の力、この
国の生きざまと、そしてこの国の死にざま、すべて奴らのものだ。
立派な邸宅に居留するNGOの連中を見て、何かが違うと俺は考えていたのだが、
それは誤解だったかもしれない。
金にだって惨状をかえる原動力はある。だが、それだけじゃなにもかわらない。
路上の死体は、少しは減るだろう。村の労働も少しは楽になるかもしれない。バス
の転落事故もちょっとは少なくなるだろう。それでも、極端な貧富の格差はさして
変わらないだろうし、女たちの地位も今のままだろう。女たちを無知の檻に囲いこ
んだまま街にあふれかえった男どもは、所在なげに肩をよせあい、今と同じ時を延
々とくりかえしていくだろう。すべて奴らのものだ。悲惨を拭払し差別を排除し、
そして死を今よりも少しでも遠ざけようとするのもまた奴らだ。その道を見出だす
のに手を貸すことはできても、選択を肩代わりすることだけは誰にもできない。
この国がどう変わるのかなんて、俺の知ったこっちゃない。笑顔も泣き顔も形を
変えていつまでもつきまとい、離れないだろう。誰も正しい答えなんざ知っちゃい
ない。とりあえず今の俺にわかるのはひとつだけ。
俺はこの街と、そして人びとが好きだ。それだけだ。歯をくいしばり、前へ進め。
バングラデシュ。そしてすべての世界の、すべての人びと。
昼飯は空港のレストラン。メニューを見てみたが、なんだかよくわからないので、
店の人間に適当に見つくろってもらう。出てきたのは、なんだかよくわからないが
なんかの炒めもの、カレー、ダルスープと呼ばれる得体のしれないスープ、インデ
ィカ米のごはんにコーラ。制服姿が目立つ。空港だからだろう。中の一人が親しげ
に話しかけてくるので、俺はここに向かう途上で目にした『SCIENCE MU
SEUM』なる看板について問うてみた。
俺たちが二度も訪れたミュージアムはナショナル・ミュージアムだ。そのほかに
サイエンスうんたらなんてものが存在するとは露ほども考えていなかったので、そ
の看板を目にした時は驚いた。大したものではないのかもしれないが、どうにもと
きめいてしまう。かといって見物にいっている時間はとうてい存在しない。で、気
になっていたのだ。
男は英語でなにやら一所懸命説明しているのだがどうもよくわからない。日本に
息子だかが物理学の勉強にいっているらしい(Y注:国費留学生として、本人が、
いく予定がある、と言っていたんです。記憶力ないのか)(K注:京大なんだって)。
ちょっと待っていろ、サイエンス・ミュージアムについて調べてきてやる、と言っ
て、数人の制服姿とつれだって男はしばし姿を消した。うーん、なにげなく訊いた
だけなのに、なんだか悪いなあ。
待つことしばし、男はくだんの建物の場所とそこへの道順をくわしく、そして能
うかぎりわかりやすく、説明してくれた。肝腎の、いったいどういうものがあるミ
ュージアムかということは結局わからなかった。今からダッカをたとうという時分
にこの種の情報を教えられてもなんの役にも立ちゃしないが、男の親切は身にしみ
た。忙しげに立ち去る男に例を言い、俺たちも腰をあげる。
空港ロビーでは、いつのまにかKがふたりの日本人と親しくなっていた。それぞ
れ単独行だが、やはり二人ともネパールが目的地だ。トレッキングが主な目的だと
いう。このダッカでの話をきいてみると、一人はトランジット・ホテルに泊まった
のだが、もう一人のほうはやはり俺たちと同じようにトラップにはめられて妙なホ
テルにつれこまれたらしい。あてもないので三日間そこで過ごし、両替もせずにベ
ビタクを駆使してダッカ見物を敢行したというなかなかの強者だ。どうも騙された
のは俺たちだけではなかったようで、結局予定どおりトランジットホテルに宿泊で
きたのは、いつまでも空港でぐずぐずしていて最後まで残っていた一行だけだった
らしい。やはりこの国で勝利するのはだらだらした奴なのだ。短気はいかん。
煩雑で手順のまずい出国手つづき、搭乗手つづきを経て、ふたたび飛行機の中の
人となる。今度の席順は窓際にY、その隣にK、通路へだてた寂しい席に俺という
順番だった。フライトは一時間あまり。ダッカの、イスラムの尖塔を眼下にDC−
10は舞いあがり――やがて右手に山々が現われる。ヒマラヤ、神の峰だ。
景観に機内の人間分布は右側へと傾き、しばし万国人種入り乱れて高峰に見入る。
驚いたことに、遠い高峰は高貴に雪冠を頭上にいただいているのだが、下方に見
える山々には緑が見あたらず、むきだしの褐色の大地がどうにも下品な景観だ。こ
こでも森林伐採による緑の破壊が急速に進行中なのだという。近年、バングラデシ
ュをくりかえし襲っている大洪水ももとをたどればこれが原因ということらしい。
やがて機は山をこえて低空飛行を開始する。恐いくらい低く飛んでいるなあ、と
思ったらそろそろ到着の時刻だった。一時間くらいじゃ飛行機に乗った気さえしな
いというのは、どうも最初のフライトがバカ長かったせいかな。
太陽は高峰の陰に姿を隠しつつあり、機は日没の空港にランディングする。
カトマンズだ。
第一部 ダッカの三馬鹿――了(第二部につづく)