#1623/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ ) 92/ 4/26 5:52 (169)
「幻想即興曲集1」(1) 浮雲
★内容
第一楽章「夜」
*
その日、夕飯までごちそうになって帰りの遅くなったわたしは、タクシ−を断
わり、ぶらぶらとはじめての街の夜を歩きました。久しぶりに飲んだ酒のせいか
、火照った頬にあたる冷たい風が心地よく感じられました。
あのあと、彼はこんな話もしてくれたのです。
「実は、ぼくの場合は、風の粒子ひとつひとつに文字を書きつけるのです。『あ
とか『い』とかいった具合いにです。これ以上たしかなことはないでしょう」
そして彼は、わたしの返事を待たずに続けました。
「でも、なんとも愉快な話でしょ。風が吹いていったと思ったら、それにはたく
さんのことばが書き込まれたいた、というわけですから」
わたしは、夜道を歩きながら、そんな彼の話を思いだしていました。
「風の行方、不明なり、か」
わたしがつぶやいたそのときでした。背中の方でざざあ、と街路樹が風に鳴っ
たかと思うと、笑い声のような、歌声のような、なんとも不思議な音がつぎから
つぎへと、わたしの耳をかすめていったのです。
わたしは、通りすぎていった風に向かって声をあげながら、かけ出していまし
た。
でも、残念ながら、わたしはそれらの風をすぐに見失ってしまいました。いえ
、風がかけていくのが速かったからではありません。わたしの足があまりに遅す
ぎたのです。それに、風の音を頼りに追いかけていたのですが、それもいけなか
ったのです。
なぜなら、その音は街路樹の木々に入り込んでは、枝や葉に話しかけ、そのた
びに、それはそれは楽しそうな笑い声や歌声があたりにこぼれ落ちるものですか
ら、わたしは立ち止まっては大きな口を開けながら、一つ一つの街路樹を見上げ
なければならなかったのでした。
わたしは、どうしても風に追いつかなければ、と焦る一方で、一つ一つの街路
樹の下にもっと長くとどまっていたい、そんな矛盾した気持ちを抑えることが出
来ませんでした。
ときどき、電線までが気味の悪いうなり声をあげるのですが、それは、どうや
らわたしの注意を引きたいためのようでした。
わたしは、街路樹から街路樹へと駆けめぐりながら、同時にひゅうひゅう言う
電線にも声をかけてあげなければなりませんでした。
*
気がつくと、わたしはバス停の前に立っていました。いくつもいくつも小さな
風がわたしの足元をかすめていきましたが、それは、ズボンの裾をふるわせただ
けでした。
西の空にかかった、やせ細った月が、いまにもふらふらと落ちそうなので、わ
たしは、少し心配になったのですが、目から涙が出るほどじっと見つめている間
中、ぴくりとも動きませんでした。わたしは、やれやれと思う反面、さあ、さっ
さと地球の向こう側に落っこちてしまえ、そんな悪態をつきたくなったのでした。
そういえば、少し赤みを帯びて見えるのですが、あれはきっと、照れくさいか
らなのに違いありません。
*
いつまで待っても、バスはやってきません。どうしてでしょう。はて、いま何
時かしら。わたしは時計を持っていないので分かりませんが、もしかしたら、最
終のバスが行ってしまった後なのかも知れません。
ちょうど、子どもが通りかかったので、いま何時かな坊や、と聞いてみました。
すると、その子どもは、へん、坊やなんかじゃないや、と言うのです。わたしは
、おおごめん、きみは女の子かい、だったら謝るから時間だけは教えてくれない
かい、と頼み込みました。ところが、その子どもは、おいらも時計がないから分
かんない、と言ったかと思うと、ぱん、と手を打って消えてしまいました。
なんて乱暴な口をきくんだろう、わたしはそう言ったあと、あっ、と小さく叫
びました。だって、その子どもは、たしかに口も目も鼻もないのっぺらぼうだっ
たのです。
*
わたしは、バスをあきらめタクシ−を拾うことにしました。ところが、生憎な
ことに、こちらへやってくるタクシ−は、みな誰かが乗っていて、手を上げても
止まってくれません。
仕方がない、わたしはきっぱりそう自分に言い聞かせて、歩き出しました。ま
もなくすると、わたしはお酒の自動販売機の前にいました。五百円玉を一個入れ
、缶ビ−ルのボタンを押しました。あれっ、ガタッ、と出て来る筈なのにウンと
もスンとも言ってくれないのです。と、どこからか、わたしを呼ぶ声が聞こえて
きました。辺りを見回してみましたが、誰もいません。こそこそと、目玉が物陰
に隠れたように思いましたが、月の光がアスファルトに反射しただけだったのか
も知れません。おい、はやくしてくれなきゃ困るじゃないか、たしかにそう言っ
ています。妙に大人びた口調ですが、その声はどうやら子どものようです。はは
あ、わかりました。自動販売機の中から聞こえてくるのです。いいかい、もう一
度言うよ、ええと、おさけ。そう言うと、急にしんとしてしまいました。えっ、
おさけ、だって。じゃあ、け、け、けしごむ。わたしは、いいかげんに思いつい
たことを口にしました。すると、むささび、と言う子どもの声がどうだいとばか
りに返ってきました。び、ね。わたしは、わけもなく思いつきました。まいった
か、とばかりに大声で言いました。びじん。
そのときでした。わたしの背中の方でざざあ、と街路樹が鳴ったかと思うと、
笑い声のような、歌声のような、なんとも不思議な音が次から次へと、わたしの
耳をかすめていったのです。
わたしは、通りすぎていった風に向かって声をあげながら、こんどこそ本気で
かけ出しました。
「あっ、ビ−ル。それにおつり」
第二楽章「影」
*
その夜は、どうもはじめから様子が変でした。
東の空に上がったばかりの十五夜の月は変ににやけていましたし、星という星
は、いつ似もなくそわそわしているのが分かりました。
わたしは、そんなことにお構いなく、いつものようにまっ暗な自転車置場から
、子どもから譲り受けた、少しくたびれた自転車をひっぱり出すと、よいしょ、
と声をかけペダルを踏み込みました。そして、十五夜の月に背中を見せながらし
ばらく走ってから、いつものように公園の横の路地に入りました。
おやおや、いつもはまっ暗な路地が、十五夜の月に照らし出されてひと筋の川
のように浮かび上がって見えました。
背中がゾクリ、としたのと公園のはじっこに立っているけやきの枝がざざあ、
と鳴ったのが同時でした。と、誰かが、わたしの肩を軽くたたきました。そのと
き、うがうが、とうがいでもするような声も聞こえたような気がしたのですが、
それは何かの聞き違いだったかも知れません。
ははあ、十五夜の月のいたずらだな。わたしは、わざと間をおいてから、いき
なり振り返りました。
*
思った通りでした。さっきはにやけた顔をしていたくせに、ふん、と横を向い
てすました顔をしているのが何よりの証拠です。それに、いたずらっぽくゆがん
だ唇は、隠しようもありません。
わたしは、にが笑いをこらえながら視線を元に戻しましたが、思わず声を上げ
てしまいました。
金色に輝くアスファルトの上に、ずっと伸びている十五夜の月に照らし出され
たわたしの影が、ゆらゆら揺れているのです。おまけに、伸びたり縮んだりして
いるではありませんか。
よく見ると、それは一つだけではありませんでした。逃げ水のようにあちこち
でゆらゆら動いているのです。どうしたってわたしの影に間違いないのですが、
二つ、三つ、いや四つ、いえ、もっと先にもいくつもゆらゆら動いているのが見
えました。
わたしが、よおし、とばかりにペダルをこぐと、影も先を急ぎ、ちょっとブレ
−キをかけると、同じように速度を緩めるではありませんか。
それにしても変です。
わたしは、さっきからずいぶんと走っていますし、この公園の横の路地は、わ
ずか二、三百メ−トルぐらいしかない筈なのに、わたしの影を映したアスファル
トは、ずっと向こうの暗闇の奥まで続いているのでした。
*
とつぜんでした。
わたしの影が、一つずつ、もこもこと起き出したのです。わたしは、大きな口
を開けたまま、ペダルを踏むのも忘れて見とれるばかりでした。
驚いたことに、どの影もまっ黒な自転車に乗っているではありませんか。しか
も、からだの大きさも、肩をゆする仕草も、わたしそっくりなのです。わたしが
、右足を動かせば影たちも、同じように右足を動かし、わたしが、意地悪をして
ハンドルを左右に振ってジクザクに走ると、その通りにまねるのです。
それに、よく耳を澄ますと、影たちが何か歌でもうたっているのが分かりまし
た。
ジュウゴヤノバン
カゼフケバ
キンイロノミチ
カゲハシル
ジュウゴヤノバン
カゼフケバ
アスファルトノウエ
カゲオドル
こんなおもしろいことはありません。わたしは、チリン、とベルを鳴らしてみ
ました。すると、どうでしょう。影たちは、ぴたりと自転車を止めると、いっせ
いにわたしの方を振り向きました。いえ、わたしを見たわけではありません。そ
ろって夜空を仰ぐようにしたのです。それは、十五夜の月に助けを求めているよ
うに見えました。
わたしも、つられて振り返りました。そのときの十五夜の月がどんな顔をして
いたか、それを言い表すことばが見つかりません。
*
ざざあ、とあちこちのけやきの枝が一斉に鳴りました。そして、子どもの笑い
声のような、何か楽器のような奇妙な音が、わたしを追い抜いていきました。そ
れは、虹が消えていくときのような、あるいは、流れ星が走り去ったときのよう
な音でした。
アスファルトの上に立ち止まっていたわたしの影たちは、紙ぺらのように風に
巻き上げられると、吹き飛ばされるように、向こうの闇の中に消えて行ってしま
いました。
振り返ると、十五夜の月が、いつものようにつんとすました顔であさっての方
を見ていました。
−つづく−