AWC 「立っている場所」          浮雲


        
#1620/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ     )  92/ 4/25   6:14  ( 70)
「立っている場所」          浮雲
★内容
   *
 あるとき、Aさんがとつぜんわたしの家に来たことがありました。
 それは正月の頃だったように覚えているのですが、はっきりとは分かりません。
 ただ、たしか雪が降ったあとだったのは確かですから、いずれにしろ冬のこと
だったと思います。
 Aさんは、庭先から入ってくるなり、ほお、ほお、と声をあげたのです。その
声でAさんが外にいることがわかったというわけなのですが、わたしは、驚きな
がら大急ぎで濡れ縁のガラス戸を開けました。
 見ると、Aさんが裸の柿の木を見上げて、感心したように頭を振っているので
した。
えました。
 そして、いやあ、庭先に柿の木がこうしてある風景なんて近ごろあまり見かけ
ないからね。なにしろ、この立っている場所がいい。うまいところに立っている
なあ。そんなことを、独り言のようにぶつぶつしゃべり続けました。
 まあ、どうぞお上り下さい。わたしは、家に入るように勧めました。ところが、
Aさんはいきなり踊りだしたのです。いえ、そうではありません。よく見ると、
どうも柿の木の格好をまねているようなのです。
 腰をくねらせたり、腕をひねったり、それはそれは年寄りとは思えないほど柔
らかなからだをしているのです。そのうち、雨戸の戸袋のところに立つと、妙な
格好をしたまま、そこにぺたりとへばりついて、動かなくなってしまったのです。
 わたしが、あっけにとられて声もあげられずにいるのもかまわず、Aさんは、
目を閉じたまま、何か口をもぐもぐさせていました。
 あとで気がついたのですが、それは詩のようなものを暗唱していたのではない
でしょうか。柿の木にちなんだ詩に、誰のどんなものがあったか、わたしはまっ
たく不案内ですが、たしかにAさんは、詩を唱えていたのです。

   *
 とにかく、Aさんのするに任せておくしかありませんでした。表の通りからは
、庭先はまる見えですから、きっと、通りがかりの人たちはAさんの奇態に目を
丸くさせられたに違いありません。
 やっとのことで、Aさんがわたしの部屋に上がってくれたのは、しばらくたっ
てからのことでした。
 ところが、わたしは、そのときになって大あわてしなければなりませんでした。
 わたしは飲めません。ですから、酒と名の付くものは一つも置いてありません。
 わずかばかりの茶菓子しか、手元にはないのです。ああ、しまった。正月だと
いうのになんとしたことだろう。わたしは、恥ずかしくてたまりませんでした。
 せっかくやってきてくれた人をもてなすことも出来ないのです。わたしは、お
ろおろするばかりでした。そんなわたしのことなど、これっぽっちも気に止める
ふうもなく、Aさんは、部屋の中をぐるりと見渡すと、ははあ、ずいぶんきれい
に片付いているね、と笑いました。しかし、それは褒めてくれたのではありませ
ん。居心地が悪そうに、お尻をもそもそさせていたことからも、それは分かりま
した。
 とにかく、酒屋に走ろう。そう思って出かける支度をしたのですが、、この町
内に住むようになってからもう三年にもなるというのに、酒屋がどこにあるのか
少しも分かなかったのでした。
 わたしが、縁先でもたもたしていると、Aさんも出てきてしまいました。

   *
 タクシ−を拾うために、表通りに出るまでのあいだ、わたしがどんなに恥ずか
しい思いをしたことか、誰にも想像出来ないに違いありません。そして、同時に
なんとも言いがたい、なんといったらよいのか、喉の奥から溢れ出る形容しがた
いものの正体をつかみかねて、どんなに心を騒がせたであろうことも。
 Aさんは、よほど柿の木のことが気に入ったのでしょう。道端をふらふら歩き
ながら、急に立ち止まっては、腰をひねり、腕を投げ出して、そうして凍りつい
たように動きを止めてしまうのです。
 まるで赤ん坊そのものでした。わたしは、はじめは、たしかに恥ずかしい思い
でひきつった顔を伏せていたのですが、そのうち、なぜ自分はあんなふうに心の
かたちをからだで表現できないのだろうか、そんな疑問さえ持つようになってい
ました。
 そう思い始めると、見るほどに、Aさんの奇態には引きつ付けられるものがあ
りました。
 いつか、わたしは、Aさんと連れだって歩くことを自慢したいほどの気持ちで
いっぱいになっていました。
 帰ったら、じっくり柿の木を見てみます。そして、どんな風景の中に立ってい
るのか、それも確かめてみましょう。わたしは、Aさんの小さな背中に向かって、
そう約束したのです。

                −おわり−
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