#1497/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 92/ 3/ 8 10:54 ( 39)
お題>レモンの皮をめくると海が見えた 青木無常
★内容
「わが一族の歴史を侮蔑するものは」伯爵の眉が、怒気のため高貴に歪んだ。
「それがたとえ神であろうとも許すことあたわぬ」
「わたしはべつに神などではないさ」怯懦に気圧された教授の顔の底に、それで
もなお退くことを肯んぜぬ不遜な挑発がただよう。「そしておまえもまた、貴族な
どではない。もとをたどればケルトの闇のなかに這いずる食屍鬼の一族に過ぎんこ
とは、史料からも論理的類推からも曲げようのない事実だ」
ふん、と貴種は鼻をならす。「ダーウィンの進化論。くだらぬ。人間がいま現在
抱く貧弱な科学体系の上でさえ、それは否定されつつあるのだぞ」
「ダーウィン? わたしも古いと思うよ、あれは」
「いずれにせよ」と蒼白の美貌に曇りひとつみせず、伯爵は宣言する。「きさま
の命運はすでにさだめられた。われら貴族よりも永き不滅の苦痛をこの宇宙の終焉
をも超えて満喫するがいい」
全霊をかけて執行する教授の逃げ足も大いなる闇の種族には赤子のごとく、哀れ
な犠牲者はあっけなく捉えられ、その首筋に吸血鬼の口づけをうける。そして教授
は、絶え間ない苦痛に苛まれながら指一本動かすことさえできない肉塊と化せしめ
られて、暗い地の奥底の牢獄へと落とされた。
そして絶望の時より幾星霜、肉は腐れて牢獄の染みとなり、館は見捨てられて倒
壊し果て、大地の悠久の身じろぎに土にうもれた骨もまたやがて風にさらされて塵
と化してなお、教授の意識は永劫の呪われた苦痛に責め苛まれたままだった。
やがて時の終わりが訪れる。赤色巨星の膨張に呑まれて大地は燃え滓までも冷た
い虚空へと還元し、その太陽もまた力なく光を喪ったまま銀河どうしの壮大なせめ
ぎあいの中に消えた。熱は熱を失い、光もまたその触手をつつましく引き戻し、そ
してすべてがディラックの海へと呑みこまれた時、永劫の苦痛に苛まれるある存在
はすでに己が何者であるかも忘れ果てたままただ痛覚のみを享受する感覚となって
そこにぽつりとあった。
時さえも意味をもたぬそこで、ある時、絶えていたはずの記憶の琴線に触れるも
のがあった。それがかつて教授を果てぬ悪夢へと誘った貴族の慣れの果てだと知り、
奇妙な、そして気も狂わんばかりの懐かしさに呼びかけてはみたが、それもすでに
かつての存在の名残り滓である所以、答える術も意識もない。
ならばこそ甦る。忘れていた絶望が。苦痛にのみ占められていた意識の内部に浮
かんだ意識内の肉体を狂おしくよじり、そして意識内の声のみで、叫んだ。
「光を。光を」
かくて何者も存在し得ぬ海を貫いて創世の光はほとばしり、そして新たなる生命
の海が現われる。
その海を色彩るのは、はたして苦痛と絶望だったのか。そしてそれは永遠の連還
か。
レモンの皮をめくると海が見えた――了