AWC 大和の空(1)        YASU


        
#1488/3137 空中分解2
★タイトル (UTJ     )  92/ 3/ 3  23:49  (178)
大和の空(1)        YASU
★内容

                           (1)

 このたびの野の行幸はごくひっそりしたものであった。
 考徳天皇は六十の齢をまもなく聞こうとしており、鷹狩などに興
味を持っていなかったが、皇子は父の気うつを少しでも紛らすこと
ができればという淡い希望をこの鷹狩に託して熱心に説いたのだっ
た。
 主だった位の者でこの野の行幸に付き従ったのは、右大臣大伴長
徳だけであった。
 一行が生駒の山裾に着いたとき、日はもう中天に輝いていた。
 秋の日差しを浴びて野のあちこちからきらきら反射があった。
 枯れ野はひっそり静まり、これから狩が始まることが嘘のようで
あった。それは狩人の数の少なさのためでもあった。
 天皇は自分の若かった頃の鷹狩のことを思い出して、その華やか
さの違いに思わずため息をついた。
 あまりに静かだった。
 狩などせずに、そして政治向きのことなどすべて忘れて、秋の陽
光の中で昔を偲んでいたかった。
 彼はふと自分が大和にいる錯覚に襲われた。
 大和こそはわが天皇家のふるさとだ。なかでも飛鳥は我ら大和人
の心を捉えて離さぬ悠久よりの母なる土地なのだ。
 だが次の瞬間、彼の顔はそれまでの温和な笑みを消して、恨みの
形相に変わった。
 いや、ならぬ、都はこれまでどおり難波にあらねばならぬ。難波
こそはすぐれた津を持ち、幸豊かな海に面した類なき都なのだ。い
かに中大兄皇子が大和遷都を説こうとも移してはならぬ。断じて難
波津を離れてはならぬ。
 天皇の顔付が急に険しくなったのを見て、有馬皇子は彼の胸を去
来するものが何かを感じ取った。
 父の苦しみを和らげるためにおこなった鷹狩が、かえって彼の惨
めさをかき立てる結果になったことを知り、皇子は父の苦悩が十五
歳の彼にはもう手に負えないものであることに気付いた。
 そのとき鷹匠がさっと片手を上げて狩人や犬飼に合図をした。
 彼のかぶる錦帽子が日を浴びて輝き、左の手にしっかり掴まれて
鷹が雄々しく羽ばたいた。
 犬がだっと駆けていく。
 それを追って狩人が走る。
 しばらくすると茂みから雉らしい鳥が飛び立つのが見えた。
 鷹がそれをめざして飛翔する。
 次の瞬間、二つの大小の塊はぶつかりあい羽を散らす。
 やがて鷹は獲物をひっさげてふたたび舞い上がる。
 天皇はその光景を見ながら、鷹が小鳥を襲うときにいつも感じる
痛快さを覚えた。
 燕雀はいつも狩られる運命。潅木に細々と生を営み、やがて猛禽
の餌食となる。それは神々の定めし業。そして、我が天皇家だけが
この業を生き抜く唯一の家系なのだ。
 鷹が獲物をひっさげて目をぎらぎらさせながら帰ってくるのを、
有馬皇子は憂鬱な気持ちで見ていた。
 鷹は勇壮ではあるが、つまらぬ生き物だ。まして狩りの鷹は哀れ
でさえある。私は自分がこのような存在になるまいといつも思う。
それでいて、皇子として生まれた今の私は、あの鷹と同じように自
分の意思どおりには生きられない生き物だ。私の詠む歌が和歌の心
髄にまで至らないのはこのためではないだろうか。
 いつかもあの年老いた舎人私の歌を評して言った。
「あなた様はなぜそのように自分の心をお隠しなさる。素直に自分
の心をお詠みなされ。あなた様には和歌の天分がございます。無心
に詠めば、あなた様の歌は後の世まで人びとの心に残るものとなり
ましょう」
 そうだ、私はそんな後生に残るような歌を詠みたいと願っている。
だが、皇子として生まれついた私は、どうしても自分の地位や立
場を頭から消し去って無心になることができない。
 皇子は天皇や側近から少し離れた松の木の下に立ち、鷹匠が餌嚢
に手を入れては鷹に餌を与えているのをぼんやり見ていた。
 そのとき大伴伊呂麿が右手に弓を持ち、背には矢筒を負って近づ
いてきた。がっしりした上半身が歩く度に左右に揺れる。
「私には鷹狩など性に合いませぬ。この手で鷲か鷹か、いやもっと
大きな鳳凰なりともしとめてみせましょう」
「うん、なかなか結構、靱負の佐たる者はそれくらいの覇気がなく
てはなるまい」
「そのとおり。なんなら、大兄鳥でも射取ってみせますぞ」
 皇子はちょっと顔をしかめた。
 彼は気持ちのいい奴だが、余りに一途すぎる。
 そんな皇子の様子には無頓着に、この皇子の幼なじみはたえず向
こうの林に目を配りながらなおも話を続けた。
「そうれ、またあの鷹の奴、獲物を見つけたとみえて飛んでいくわ。
いつも飢えて何にでも飛びつくあさましい奴が」
 伊呂麿は中大兄皇子にたとえて憎々しげに言ったのだが、有馬皇
子には自分のことを言われたように惨めに思えた。
 あさましい、まったくだ。将来に何の夢もなく、それでいて今の
安逸な生活からも飛び出せない。かくも私を縛っているのは何なの
であろうか。私の心の弱さであろうか。それとも天皇家という歴史
の虚構を信じて懸命に支えてようとしている私の周りの彼らであろ
うか。
 皇子は伊呂麿の横顔をちらっと見た。
 そして、再び目を綿雲の浮く秋空に転じたとき彼が見たのは、兎
をがしっと鋭い爪にかけて得意げに大きな翼をはばたかせている鷹
の姿であった。

                           (2)

 白雉四年ももう秋が深まる頃、天皇と皇太子、中大兄皇子との不
和は決定的になった。
 中大兄皇子の奏上した大和遷都を天皇はついに認めず、皇太子は
皇族や群臣百官を従えて大和の旧宮へ移って行った。
 すでに天皇は名ばかりのものになっていたのである。
 難波宮は火が消えたようになり、昼間でさえ遠く波音が聞こえて
くるように思われた。
 天皇はもう誰とも会おうとはしなかった。有馬皇子さえ会うこと
ができなかった。
 皇子は午前中朝堂へ出かけて行った。
 回廊も大極殿も人の気配はなく、ときどき秋風が中庭を吹き渡る
音が聞こえるばかりだった。
 広々とした大極殿の片隅に正座して目を閉じると、数日前まで精
悍な表情で相手を見据えるように上座に座っていた中大兄皇子の顔
が浮かぶ。彼の隣には目を細めて周りの者をうかがう中臣鎌子が寄
り添うように座っている。
 皇子はつと立ち上がると中央に進み出て、薄暗い天皇の高御座を
すかし見た。と、そこからは異様な半透明の気体が煩悶するかのよ
うにうねりながら立ちのぼっていた。
 皇子はしばらく魅入られた者のようにたちつくしていた。
 年があらたまってからも天皇の姿を見ることはできなかった。ひ
っそりした宮中は新年を祝う行事も行われず、陰うつな空気がこも
ったままであった。
 皇子は今日も朝堂へ歩を運んでいた。
 彼が回廊を曲がろうとしたとき、誰かが追ってくる足音を聞いた。
それは天皇が寵愛している老いた舎人であった。
「皇子、しばらくお待ちください。申し上げたいことがございます
」 彼は息を切らせながら言った。
「何事です」
「大君には突然奇妙なことを申されております。いますぐ大和へ使
者を立てて、中臣鎌子連に紫冠を賜る旨伝えよとのことでございま
す」
「・・・」
「大君はこのところ気分がすぐれられず御食も唐糸のように細けれ
ば、悪しき心のなせる業にやとわれらお側にいる者どもでご心配申
しております」
 つまり体が弱ってきたために頭がどうかなったのではと言うので
ある。皇子も彼から天皇の言葉を聞かされたとき、これは何かのま
ちがえではないかと思った。だが、舎人が言いにくそうに天皇の精
神状態への懸念を述べるのを聞くと、無性に腹立たしくなってきた。
「口を控えられるがよかろう。いくら私にとはいえそれ以上申され
るとためになりませんぞ」
 舎人は真っ青になっておどおどしはじめた。
 それが皇子には余計に愚かしく思われて、そのまま彼に背を向け
て歩きだした。舎人は後ろからついてきて口の中でもごもご言って
いたが、急に皇子の袴の裾を捉えて泣きだした。皇子は上から彼の
白髪の混じる頭と丸い背中を見ていた。老舎人は彼の許しの言葉を
待つように皇子の足元にうずくまっていた。しかし、皇子は裾を彼
の手から引き離すと再び歩きだした。大極殿に入るときもう一度振
り返ると、衣の袖に顔を埋めたまま動かぬ小柄な老躯があった。
 有馬皇子はいつもの自分の席に着くと考えた。
 何故天皇は中臣鎌子に紫冠を与えることにしたのだろう。鎌子こ
そは中大兄皇子の背後で自分の地位を堅固なものにしてきた古狐で
はないか。このたびの大和遷都も、天皇と中大兄皇子の仲を決定的
に悪くするために彼が仕組んだ策謀かもしれぬ。なぜなら、鎌子に
とり天皇家の内紛は自分の地位を高めるよい機会なのだ。大伴氏や
阿部氏らの豪族は力を弱めたといってもまだ看過できぬ力を持って
いる。中臣氏が強くなるには天皇家の威光が必要だ。しかし、天皇
も強大になりすぎては困る。そのためにはいつも内患を持たせてお
くのがいいのだ。
 そんな彼の策略はみえすいている。その鎌子に・・・。
 皇子が考えあぐねて朝堂院を出たとき、すでに早い初冬の夕暮れ
があたりに忍び寄っていた。
 ちょうど大和への使者が出立するところで、先ほどの舎人が見送
りに立っていた。
 皇子が彼に近づき目で合図をすると、彼はにこにこしながら側へ
飛んできた。
「大和への使者ですね」
「さようでございます」
「雪かもしれぬ」
「今年は大雪が降ると卦には出ているようで」
「ところで先ほどのことだが、大君はほかに何も言われなかったの
か」
「はあ、ただ鼠の夢を見られたとかで」
「鼠?」
「鼠が大和へ移っていく夢をご覧になったと言われて、しばらく考
え込まれておりましたが、やがて中臣鎌子連のことを申されました」
 皇子の謎はますます深まるばかりであった。
 この謎を解くための鍵をかれは所有していなかった。その鍵はす
でに三十年以上もさかのぼった過去の、孝徳天皇、当時の軽皇子と
若き野心家、中臣鎌子の一時的な緊密関係の中にあった。そして、
この関係は鎌子の中で軽皇子が愚物でしかなくなったときに、あっ
さりと終わりを告げてしまった。しかし、この解消は利口な鎌子の
一方的なものだったので、軽皇子は彼の真意を理解していなかった。
だから、天皇は有馬皇子を悩ますような謎めいた行動を取ったわけ
である。





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