#1482/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ ) 92/ 2/29 7:37 (107)
「黒革の手袋」 浮雲
★内容
私が、その男のことをじつと見はじめてから、どれぐらいたつたろう。はじめ
て見る顔だつた。私は毎日同じ電車の同じ席に座ることにしているから、もしそ
の男もいつも乗り合わせていれば、見覚えがあつていいはずだ。きょうたまたま
、この電車に乗つただけなのかも知れない。それに、いま私がにらみつけるよう
にして見ているのは、その男の顔ではない。てすりを握つているその男の手を見
ているのだ。手に着けている黒革の手袋を、私はさつきから見つめている。3月
も終わろうとしている。相変わらずの混み具合いで、服を一枚脱ぎたいほど車内
は蒸せ返つている。私は、その男がどうして黒革の手袋を着けているのか気にな
つていたのだ。黒革の手袋から目を放すと、私はゆつくり眼を閉じた。なぜだろ
。そしてなぜ黒革でなければならないのだろう。
ああ、そういえば昨晩のあのハエはいつ洗濯物に紛れて部屋の中に入り込んだ
のだろう。びいびい音を立てて部屋の中を飛び回るものだから、子どもたちが私
を呼んでうるさくせかす。早くやつつけてという。私はいつものように新聞紙を
丸めると、そいつを追い回す。おもしろいもので小さいハエほどうるさく飛び回
るし、元気がいいから、なかなか新聞紙を振り回す機会がない。幸いに私が相手
をしているハエは図体も大きいし、だいぶ前から部屋の中を飛び回つているとみ
えて、ときどき蛍光灯の傘に止まつては小休止する。それがねらいである。よく
見ると後足をこすり合わせている。こつちに尻を向けて拝んでいるようにも見え
る。黒光りするそいつは、電車が左右に搖れてもぴくりとも動かない。てすりに
いのちを吸い取られてしまつたのだ、黒革の手袋は、そう私に思わせたいようだ。
とつぜんだつた。その男が私の方に顔を向けた。しまつた。ハエのことなんか
考えているからだ。私はわざとらしく床に眼を移した。きつと見つかつたに違い
ない。私がその男の手をにらむようにしていたのを。男はきつと自分を見ていた
と勘違いするだろう。俺のどこがおかしいんだと腹を立てるに違いない。あとは
お定まりだ。私の前にやつてくると、なんだよお、とおしまいのおにアクセント
を置く。私はからだを縮めて聞こえないふりをする。いつそ寝たふりをしてみよ
うかしら。でもそんな見え透いたことをすればかえつて怒らせるだけに違いない
。いや、まてまて男はこう言うかも知れない。ねえ、ぼくの黒革の手袋に興味を
お持ちのようですが、どうです、良かつたらそこらでゆつくり話しませんか。お
いおい、やめてくれ。私にはそんな趣味はない。でも、私はその男の誘いを断わ
れやしないのだ。そんな勇気など持ち合わせていない。男の本当の狙いはなんだ
ろう。私は足の先にはじまつた震えを抑えるようにお腹に力を入れた。しまつた。
チョロッ、ともらしてしまつた。怖い目に合うと失禁するというが、人間はいつ
たいどれだけ怖い思いをしたらパンツを濡らすほどのおもらしをするのだろう。
このあいだ、仕事で松本に行つたときのことだ。接待で二軒ばかり回つた後、
なるべく安いところにしてくれと頼んでおいた旅館に戻つたが、なんとなく飲み
足りなくて部屋でビ−ルを二本も飲んだからたまらない。3月はじめの松本の夜
は冷える。案の定夜中にトイレに行きたくなつた。ところが部屋の外にあるトイ
レに行くのが億劫でたまらない。ようし、と枕元にあつたビ−ル瓶に一物をあて
がつた。もちろん瓶の口にナニが入るわけがない。目測をつけて放てば、あやま
たず小水は、といくはずだつたが現実はそうはいかない。瓶の口からポタポタと
流れ落ちるは、添えた右手に飛び散るはでこんな間抜けな話はない。やつと瓶を
一杯にしたが、それでも収まらないから驚いた。このごに及んで、車は急にはと
まれない、などとつまらないことわざを口にする始末だ。芸は身を助けるという
がそのときほど実感したことはない。もう一本ビ−ル瓶が転がつていたのだから。
しかしなんとこれでもまだ収まりがつかなかつた。ビ−ル瓶は630mlである。
二本で1260mlつまりコップで7杯の勘定になる。さあ部屋の中を見渡して
も目につくのは灰皿と湯のみひとつだけである。とても間に合わない。仕方がな
かつた。私はナニをぶらぶらさせたまま窓を開けにかかつた。ところがどんなに
力を入れてもびくともしない。凍り付いている。万事休止。どっこい捨てる紙あ
れば拾う紙あり、というがまさしくそれである。天恵のひらめきという奴だつた
。床の間の横に置いてあつた屑篭がわたしの窮地を救つてくれたとは、お釈迦さ
までもご存じあるまい。
あのお、いま何時ですか。えつ、ああなあんだ、そうかそうか。なんて私は粗
忽者だろう。残念ながら私は時計をしていない。いや、あるにはある。二つだけ
持っている。とても腕にはめられた代物じゃない。一つはオメガのシ−マスタ−。
もう一つはロレックスだ。オメガは、もう三年前に死んだままだ。一度オ−バ−
ホ−ルしようかと思つたことがあつたが、1万5千円かかると聞いてあきらめた
。ロレックス。こいつはもうとんでもない。半日もはめていようものなら手首が
アザだらけになる。こんな下品な一流品があつてたまるものか。まがいものに違
いない。だが文字盤に刻まれている王冠のあのギザギザの数はあつているし、R
OLEXのスペルも間違いない。まあいい。どつちにしろはめないのだから。
あのお、すいません。いま何時ですか。ああ、そうでしたね。あなたも時計を
お持ちでないんですね。そうですか。でもなんだかその黒革の手袋の手首のあた
りがふくらんで見えますがそれはなんですか。いえ、いいんです。どうせ私の優
柔不断な正確はそれこそ表彰状ものなんだから。なにしろ自分の吐いたツバでべ
とべとなのだから触ろうたつて、そりゃあ勇気がいる。あれは小学校4年のとき
だつた。デパ−トの文房具売り場で消しゴムを万引して捕まつた。私を捕まえた
警備員はそれはそれは優しかつた。何を言われ何をされたか覚えていないが、へ
らへらした変に曲がつた口のはじから白いものが垂れ落ちそうだつたを忘れない。
母親が血相を変えて飛んでくるや奴の態度はがらりと変わつた。ぺこぺこおじぎ
ばかり繰り返す私の母親をこれでもかとなぶりものにした。私が横にいなかつた
らあいつは母親を床に押し倒した筈だ。わたしの目の前で母親を辱めるあいつの
口の両はじから溢れ出た白いものがどろりとトグロを巻いていた。顔も上げられ
ずにいる母親を目の横から眺めながら私の頭の半分は、もつとうまくやれば良か
つた。もつとまわりに注意するのだつた。見つかつたのは仕方がない。走つて逃
げなければならなかつたのだ。こつちの方が足は早いし、顔なんて覚えていやし
ない。そうだ、捕まつたときすぐに土下座して謝らなければならなかつたんだ。
そんなことをぐずぐず考えていた。優柔不断はいつも私の足元をチョロチョロ走
り回つているが、いまではそれも苦にならない。
そうそう、男がなぜ黒革の手袋を着けているかだ。そうだ。そうかそうか、わ
かつたぞ。まちがいない。見られたくないのだ。ふふふ、なあんだ。私は自分の
唇が変にゆがむのさえ許せるような幸福な気持ちで、ドアの横に立っているその
男の背中にそれはそれは自分でも恥ずかしくなるような優しさに満ちた微笑みを
投げかけた。そうか。ひとつ大きく深呼吸をすると、私はゆつくりと目を閉じた。
私の目の前を満員の電車がレ−ルを鳴らして通り過ぎた。その後ろ姿を見送り
ながら、ああ運転席に誰もいなかつたなあ、とつぶやいた。目を三つ持った子が
いた。彼の三つ目の目はどこを見ているのだろう。女性は途中でオシッコを止め
られないというが本当だろうか。このあいだ、中学生をつかまえて鉄1Kgと綿
1Kgではどちらが重いかと聞いたら鼻で笑つた。消臭剤は臭いを消しやしない
隠すだけだなんて威張つてみせる奴の顔は案外間抜けなものだ。女性のものはあ
そこと呼び男のものはあれと言う。どうしてだろう。私の前を小さな風が笑いな
がら通り過ぎていつた。
どのくらいたつたのだろう。ドアの閉まる音で目が醒めた。あつ、私は喉の奥
で叫んだ。いない。いなくなつている。あの男が。どこだ。私は椅子から腰を浮
かして車内を見渡した。どこにもいない。うかつだつた。ああなんてことだ。き
ょう届くと言われ待ちかねていたものが結局届かなかつたときのようなせつない
気持ちがからだ中をかけ回り、指先がしびれるほどだつた。私はしょんぼり、と
いつた具合いにうなだれた。と、わあああ、私は、これ以上は出せないというほ
どの大声をあげた。まわりの連中が腐つたものでも見せられたと言わんばかりの
顔を私に向けた。誰がなんと言おうと私は悲鳴に似たそれを上げなければならな
かつたのだ。なぜなら、私の足元には、あの男の黒革の手袋が片方だけ落ちてお
り、そいつがずりつずりつ、と私の靴の先に這寄つてくると、もこつと持ち上が
つたのだから。
−おわり−
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