#1469/3137 空中分解2
★タイトル (JAH ) 92/ 2/22 23: 2 (169)
落日の家 (3) ごとう六花(リッカ)」
★内容
ところが−−。
それから間もなくして、寛太が交通事故に遭って入院した。友だちのオー
トバイの後ろに乗っていてトラックと接触したのだった。
富子は、本調子でない体をおして寛太の病院へ急いだ。
「お母さん。ごめんなさい。こんな時に、みんなに心配掛けちゃって・・・・」
目を丸くして掛け布団越しにのぞき込んだ富子に、寛太は顔をしかめて謝
った。
「僕が悪いんです。僕が誘わなければ、寛太はこんなことにはならなかった
んです。どうもすみません」
そばに居たGパンを履いた男の子が、富子に深々と頭を下げた。
「それで、どんな具合なの? 寛太」
「肩や腰を少し打っているのと、頭も打っていて、一時は意識もなかったと
医者が言っていました・・・・」
山岡寿男が、寛太に代わって答えた。
「ところで、あなたは大丈夫だったの?」
「はい。僕はどこも・・・・。本当は、寛太が無事で、僕が怪我をすれば良かっ
たのです」
大きな体の山岡は、肩をすくめるようなしぐさで、再びぺこりと頭を下げ
た。
「そんなこと言ったって、済んでしまったことは仕方がないでしょう」
富子は、寛太の様子が見たところはたいした怪我でもなさそうだったので、
医者に病状を訊いて、鉄也のところへ寄って帰ろうと考えた。
「見たところではたいしたことは無さそうですが、打った場所が頭であるだ
けに、少し様子を観察した方がよろしいかと考えまして、今夜一晩だけ入院
させました。CT検査でも今のところは異常はありませんが、このあと脳の
中が腫れてきますと放っておけませんので・・・・」
若い医師は、周りがそろそろ冬支度をしている時期なのに、半袖の白衣の
ままだった。
「それよりも、お見受けしたところでは、お母さんの方がだいぶお疲れのご
様子ですが、そんなにご心配はいらないと思いますが」
「はい、いいえ。実は主人が昨日肺癌の手術をしたばかりで、病院を駆け回
っているものですから・・・・」
富子は自分の病気のことは言わなかった。
「それにしましても、かなり体も弱って居られるご様子ですが、お母さんも
どこが体の具合でもお悪いのでは?」
「はい、薬は飲んでいるのですが、昨日から食欲が無くて・・・・」
「それはいけませんですね。このままでは体が参ってしまいますよ。栄養剤
でも点滴しないと・・・・」
「ご親切にありがとうございます。これから主人の病院へ参りますので、
息子のことはくれぐれもよろしくお願いいたします」
富子は深々と頭を下げて病院を出た。
ところが、富子が寛太の病院から去って間もなく、寛太の病状が急変した。
高熱を発して意識不明に陥ったのだった。
急遽寛太はICUへ運ばれた。そして、脾臓破裂による腹腔内出血と分か
って、緊急手術を要すると診断された。
病院からの連絡で、まだ帰宅していない富子に代わって由魅が病院へ急い
だ。齢の割りには冷静な由魅は、小学生の幸也に置き手紙を書くことは忘れ
なかった。そして、なんて不幸な幸也だろうと、自分のことより弟のことを
憐れんだ。
由魅が病院に着いてみると、山岡寿男が連絡したのだろうが、寛太の担任
の先生や同じクラスの生徒たちが大勢押しかけていた。そして、担任の先生
が号令でも掛けたかのように、じっと下を向いて押し黙っていた。それを見
た由魅は一瞬、いやな予感が脳裏を駆け抜けた。
しかし、それからしばらくして、由魅の予感が現実のものとなった。
「最大限の努力は払ったのですが、残念ながら力が及ばず、六時二十七分に
逝去されました・・・・。」
由魅は頭から冷水を被せられた思いがした。廊下に待機していた男子生徒
たちは目を抑えたり、袖を目に持っていったりしていたが、女子の生徒たち
はみな、一斉に大声を上げて泣き崩れた。
昨日父が肺癌の手術をしたばかりで、胃癌を手術した母の命ももういくば
くも残っていない由魅にとって、思っても見なかったまさかの兄の死に、由
魅はまるで放心状態で、自力で立っていられることが不思議なくらいだった。
こんな思いがけない寛太の事故死に、富子は寝込んでしまった。そして、
次第に衰弱していってついに入院してしまった。
鉄也と富子の病院が離れていて大変だったが、由魅は弟の幸也を連れて毎
日両親の病院へ出向いた。
「先生に相談したいことがあるんだが、まだ動いては駄目だろうか」
鉄也がチーフの看護婦に訊いた。
「先生の部屋まで、案内してはもらへないだろうか」
「先生に相談してみますから、しばらくお待ちくださいね」
許しを得て鉄也は医師に相談をした。
鉄也が医師に相談した内容は、妻の病気の詳しい内容と、現在入院してい
る病院からぜひともこの病院に引き取って欲しいということだった。この鉄
也の話を聞いた医師は、少なからず驚きの色を隠さなかった。
夫である鉄也の肺癌を知らせてある妻の富子が、実は胃癌を手術していて
余命があと僅かであり、そのことを本人には知らせていないという。もし妻
の富子が同じ病院に入院したとすれば、本人の知らない肺癌である鉄也のこ
とを気遣うだろうし、両親の癌を知っている由魅にしたって、頼りの兄を失
って失望している矢先で、両親の秘密を守り通すことは至難なことだろうと、
医師は短い時間で多くの情報を咀嚼した。
「山里さんの話はよく分かりました。確かにお子さんのためには大変でしょ
う。しかし、現在入院している患者さんを、わたしやご主人の意志だけで動
かすことは難しいんです。まして、奥さんの病気には、蓄積されたたくさん
のデータがあって、現在診て居られる医師がもっとも適切な処置ができるわ
けです。とりあえず、ご主人の希望もあるということを、先方の医師とも良
く相談してみて、もっとも良い方法を検討しましょう」
自分の病状の回復よりも、富子の病状の方が心配でならなかった鉄也は、
毎日富子のところへ通っている由魅の話に真剣に耳を傾けるのだった。そし
て富子が、既に時々痛みが出ていて、痛み止めの注射をしていることも知っ
た。
鉄也は、何とかして妻の病院へ富子を見舞う術はないかと思案した。
ところが、ふとしたことから富子は、自分が癌であることをを知ってしま
った。
末の子の幸也が、鉄也と由魅の話をそれとなく聞いていて、それを富子に
話してしまったのである。
「幸也の話なんて宛にならないわよ」
なんて、由魅が否定してはみたものの、所詮、大人の心を偽り通すことは
無理だった。ついには、医師まで隠し通せなくなってしまったのである。
「奥さん。なにも今まで隠し続けてきたわけではないのです。いずれ、はっ
きりしてからでも遅くはないと思っていました。癌の患者が総て死亡するわ
けではなく、確率論でしかありません。ただ、発見の時点がどの時点であっ
たのかが問題で、発見が早期で治癒してしまった例だっていくつもあります。
我が国では、癌の通告がまだまだ進んでいないことだけは確かです。統計的
には、自分が癌に罹ったときに知りたいと希望している人は六十二、四%お
りますが、その人たちでさえ、六十四、八%が家族の者が癌に罹った時には
知らせたくないと言っております。ご主人も肺癌を手術なさったそうですが、
そのことをご主人はまだご存知ないと聞いております」
医師は、ゆっくりとした口調で、分かりやすい言葉で諭すように言った。
「主人の病気のことは、どなたからお聞きになられました?」
「先日、ご主人がかかって居られる病院の医師から連絡がありました。ご主
人が、奥様の病状を大変心配されておられたそうです」
富子はショックだった。自分だけは・・・・と考えていたのに、夫も子どもも
医者も、この一年間、普通の顔をして、ずっと欺き続けてきたことに、強い
憤りを感じた。
富子の顔が急に険しくなった。そして、頬を枕に強く押しつけて激しく泣
いた。今はもう、自分だけが惨めで、誰も信じられない気持ちであった。
「奥さんの気持ちはよく分かりますが、ご主人のことも考えてあげて下さい。
考え方によっては、奥さん以上にご主人の方が憐れではないでしょうか?」
富子には同情の言葉もなく、医師はきっぱりと言ってのけた。
泣きながら富子はしばらく眠った。目を覚ましてからは、いくらか冷静さ
も取り戻していて、鉄也のことも考えてみた。
鉄也が早くから富子の病気を詳しく知っていて黙っていたことに腹立たし
さを感じたが、鉄也は今もなお、自分の本当のことを知らされていないこと
を考えると、自分が、知らないままに死期を迎えることより、癌と知って真
っ向から戦うか、あるいは仲よく付き合っていくかを考える、気持ちの整理
ができることを喜ぶべきだと考えた。
富子は、自分の命があとどの位なのかを考えてみた。
脈拍も呼吸も正常だけど、腹部の膨慢感は、腸内ガスによるものでないこ
とには気づいていた。そして、健康そのものであった寛太のあっけない死が、
どうして自分が代わってやれなかったのかと悔しかった。
自分の本当の病気を知った富子は、今でも鉄也にだけは肺癌のことを知っ
てもらいたくなかった。鉄也の手術は成功して、ほとんどの癌細胞は取り切
っただろうという医者の説明が、いっそう強く富子の心を固めた。
「幸也にもよく話して、けっしてお父さんにだけは肺癌のことを話さないよ
うに、くれぐれも頼んだよ」
けなげに毎日のように訪れる由魅に、富子はくどく言った。
富子の息遣いが、そばの人にも聞こえるようになったころ、鉄也は退院し
て富子を見舞った。
「まだ・・・・、無理しない方が、いいわよ」
富子は鉄也の体を気遣った。
「あまり、体を動かさないようにしてさえいれば、別状はないって言われて
いるから、もう、おれのことは心配せんでもいい。それより、お前こそ頑張
ってくれなくっちゃあ」
鉄也は、どうして我家はこんなに呪われているのだろうかと、危なく口に
出しそうになった。いまここで、そんな愚痴を言ったってなんの足しにもな
らないことだった。
「わたしは、もう、そんなに、長いことはないの。自分の体だから、一番よ
く分かるの。寛太も、向こうで、待っていることだし、このままでは、かえ
って、あなたや由魅の、足手纏いに、なるだけだから、先生に、お願いして、
薬を、切っていただこうと、思うの」
富子は、肩を上下に動かしながら、苦しそうな息づかいで話した。
「なにを言っているんだ。由魅の高校の合格を、祝ってやるんだって言って
いたじゃないか。それまでがんばらなくっちゃ」
鉄也は必死で富子を励ました。しかし、富子の言うように、もはや富子の
命は、絹のような細い糸で繋がっているだけであることを鉄也はよく知って
いた。
「由魅や、幸也を、お願いします・・・・」
鉄也の手を握り、かぼそい声を残して、富子は静かに目を閉じた。
鉄也は、富子の手から力の抜けていくのを手のひらに感じながら、もう一
方の手で、苦しまないで眠った富子の顔を撫でてやった。
親に早く別れ、おばあさんに育てられた富子は、鉄也と所帯を持ってから
の十数年間はいつも幸せだと言ってくれたが、せめて自分よりも長生きして、
子どもたちが成長するのを見届けさせてやりたかった。
そんなことを考えている鉄也も、体の中では、既に刻々と命のセコンドが
刻まれていることを、本人はまだ知らないのであった。
− 完 −