#1467/3137 空中分解2
★タイトル (NJF ) 92/ 2/22 0:35 (121)
「迷える仔羊」(8) ニーチェ
★内容
−14− 本物の夏
もうこれで終わりにしようと思って自分の足元に唾を吐いたことが、
何度あったろうか。そのたびに、結局同じような状況にあった。いつも
は忘れている。考えることに意味はないが、さし迫った状況に自分を置
いてみることはできる。
置き去りにされた精進湖の回りを走ってみるようなものだ。オイルの
切れた膝の関節に手をやって、ふと隣にウエストの締まったどうでもい
いような女が座っているみたいな感覚に陥る、そういう狂った頭で僕は
執拗に目的を遂げようともがいていた。
古臭い、いやな夢から突然目が覚めて、全身に冷や汗をかいている。
一体、僕の中には原子炉と冷凍庫が内蔵されているのだった。
夢の正体を明かすことにうんざりしていた。それ以上に、子供の頃の、
風邪のために流す汗を気にして母親がシーツの下にビニールを敷いてく
れたのを思い出して、余計に頭が痛くなった。電気蚊取り器の匂いがし
た。
しかたなく僕は起き出して、『カモメのジョナサン』を読んだ。五木
寛之訳の薄っぺらな本だ。
それでも足りずに、『シッダールタ』を読み、日が昇らないのをいい
ことに、『ジェフィライダー物語』まで読みだした。
さすがにケルアックに至っては、訳が悪いのか、貧弱な風景描写から
頭の中で現実を作り出すのに苦労して退屈になり、ペースが落ちた。佐
々木丸美よりはずっとましだったが。
夜が明けてしまった。青木が原の樹海でも歩いているような気分だっ
た。
いかれた体といかれた頭でカセットを選び出し、デッキに放り込んだ。
フリートウッドマックの小便臭い歌が流れた。どこからこんな時代遅れ
のやつが紛れ込んだのか見当もつかなかった。頭の中では、フレディマ
ーキュリーのきれいな声とオーバーラップした。
まったくその日からこの繰り返しだった。本物の夏だった。
仕事は新しくなった。今度は薄膜のレンズだった。誰かがどこだかか
ら、誘電体の中にフェライトの丸い球を埋め込む方法を仕入れてきて、
僕は毎日くだらない実験を繰り返した。3か月ごとに定位置を与えられ
たホッチキスでまとめて報告書を作った。上大岡へ帰ってくる時刻も不
規則になった。
僕には確信があった。これ以上性能の良い素子、それも絶対に分裂を
起こさない単細胞のやつになってしまうのには、半導体であってはなら
なかったのだ。材料そのものなど、どうでもいいことかもしれない。
数学的に完璧な波動方程式の解法を追いかけることにあった。これは
矛盾であるわけがない。ベクトル同士を美しく整った9個の要素で結び
つけるテンソルであった。
たとえば、仕事ばかりでなく排気ガスだらけの街角あたりでさえ、方
法論を見つけるためのインデクスがころがっていた。暇さえあれば、野
毛山公園を歩き、途中で缶ビールをやりながら大岡川に沿って歩いて帰
った。いい加減ビールを買う小銭がなくなると、ポケットの中で折れ曲
がった煙草を吸いながら、わけのわからないことを呟いていた。
あるいはいつの間にか隣を並んで歩いている女がいたりしても、三ツ
池の野外ステージの上に置き去りにした。
少なくとも、体内以上に電力の大きな熱源をはらんだ本物の夏には、
尻で煙草をもみ消しても悲鳴ひとつあげない飼い犬が一匹ぐらいいても
まったくおかしくない。
押し入れの中にいまだにバルサンの匂いの染みついた羊小屋へ帰りつ
くと、大岡川のピンクノイズを聞きながら、酔っぱらった頭でブラウニ
ングの詩を訳した。辞書にも載っていない忘れられた単語や韻律や押韻
などは無視した、むしろ萩原朔太郎の散文に似てしまった僕の訳は、そ
れがブラウニングの詩だなどと僕以外にわかるわけもなかった。
それに飽きると、小型のヘッドフォンを耳の穴に突っ込み、鼓膜が自
己破壊しそうなほどの音量で音楽を聞いた。リストでもレベル42でも
良かったが、こういう場合は大沢誉志幸が最高だった。かつての僕みた
いな声で彼が歌うと、涙の代わりに熱い汗が流れた。
そして布団に潜り込むと、あの赤黒い生命体が僕の中で目を覚ました。
ゆっくりとした鼓動で呼吸を繰り返し、僕のリズムと共鳴した。僕はし
きりに、そいつを指先で押しつぶそうと試みた。あまりに弾力的に見え
るために不安になり、そのダイキャストのような硬さを確かめてみたく
なる。
その完璧な生命体の存在を頭の中で確認し直す作業は苦痛だった。悪
意に対する神の啓示のように、ひどい頭痛と吐き気をかかえながら、僕
は同じ眠りの中に沈み落ちた。
−15− 増殖
目が覚めて気温を確かめてみると、まだ夏が残っていた。過ぎ去るこ
とは絶対にないとわかっていて、それでも僕はちっぽけな不安のような
ものに拘っていた。
その日に限って耳鳴りがした。左側だけが、目詰まりしたヘッドで録
音したカセットのように低く篭もり、片チャンネルだった。耳鳴りのす
る日は決まって悪いことが起こる。おまけにその日は立ち眩みのすえし
ばらく星が飛び回った。
掌で耳を叩いてみても無駄だった。あきらめてブラウニングを片付け、
湯を沸かした。コーヒーを2杯飲み、隣の小屋から歌が聞こえ始めると
耳鳴りは収まっていた。漏れ聞こえてくる歌はリンダロンシュタットか
バーブラストライザンドかよくわからない。
この大きな小屋にいるような仔羊は、良く歩いて帰ってくる大岡川沿
いに腐るほど生きていた。とにかく生きてはいるから腐臭を放ちはしな
かったが。
みしみしと響いてくるバスドラムのリズムは、薄暗く湿った羊小屋の
立ち並ぶ川沿いの路地を思い出させた。それから、オレンジ色のちっぽ
けなライトに照らされた大学図書館のロビー。あのロビーの奥の壁にあ
った高さ12メートルもあるタイル張りのタペストリは、等身大の聖母
だった。夕方の6時を過ぎるとその聖母だけがくっきりと浮かんで、ま
ったく現実的でない大学構内の護り神と化した。僕は彼女の前で、閉館
の合図があるまでハイムやグラスを読んだ。
妙に落ち着きがなく、脳味噌を捨て去らなければやっていけないのは、
何も大学の研究室ばかりではなかった。童話作家だったやつに何度か手
紙を書いた。僕が一つひとつ何かをなくすたびごとに、反対にどこかに
辿りつくのではないかという気がした。自閉症に似た、時代遅れのアナ
キストと化して文字を追った。結局彼は、ぶつぶつ不平を鳴らすアヒル
のようにしか受け取らなかった。
馬鹿みたいに酒を飲んで夜中に心臓が止まってしまったときでさえ、
僕は慌てた。これ以上失うものはないと思い込んでいた矢先のことだ。
僕はやっと動きだした脈を確かめてみながら、あれを手に入れた。あの
赤黒い生命体。それからしばらく僕は、そいつと向かい合わせで絡まり
合った意識を探った。
ふと瞑想から覚めたようにして、僕は太鼓の音を聞いた。それから笛
の音も。その日は祭りの日だった。僕は笑ったとたんに汗が流れてくる
ことに気づいて愕然とした。それは僕自身が望んでいたことではなかっ
たし、単純に予期したりもしていなかった。
神社の前を通り過ぎる時、誰かが注目したかどうか知らない。太鼓叩
きは太鼓に夢中で、笛吹きは笛に夢中だった。すぐ目の前にはいつもと
変わらない、何の取り柄もない格好の工藤が歩いていた。その少し前を
田口が、その前には綾子が歩いていた。あるいは似ているだけかもしれ
ない。
鎌倉街道まで出てしまうと、祭りの音は平凡な風の音に変わってしま
った。それに前を歩いていたやつらも、誰が誰やら見分けがつかなくな
ってしまった。単細胞になろうとして鎖を断ち切ってみても、お互いに
卵黄のように養分として取り込み、そうして終わりなく増殖を繰り返す
のだ。ああ、今日も暑くなりそうだ。
(了)