AWC パラレル>「鷹司」 『ノー ダメージ』 青木無常


        
#1233/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ     )  91/10/16  10:41  (196)
パラレル>「鷹司」 『ノー ダメージ』 青木無常
★内容
 「限界だな」ドクターがいった。白髪白髭、ドクターとは名ばかりの無免許医で、
額のはげあがった小男だ。
 「控え室では絶好調にみえたがな」グランドマスターは首をひねる。花道にあらわ
れた鋼の肉体には、多額の金が賭けられている。「やはり拳か」
 「拳だけじゃないな。全身いたるところにガタがきとる。やはり奴の感覚のずれが
あだになったの。このまえの試合後なぞ、甲の骨がぐしゃぐしゃになっておったのに
かまわず相手をなぐりつづけておったわ」

 どよめきが喚声にかわる。氷のような無表情で、男はリングへと階段をおりる。ゆ
っくりと、ひとつひとつ、感情をもたぬ機械人形のように。赤いガウン。赤いトラン
クス。赤のリングシューズ。血色のオーラが四囲に噴きだす。
 観衆をかきわける要はない。ワイングラス片手に、夜会服に身をつつんだ地下世界
への招待客はお上品な仮面のしたにどす黒い欲望をおし隠している。本質はプロレス
会場に集う餓鬼どもよりうす汚くとも、あくまでも上流の紳士淑女たちだ。
 リングわきの階段に足をかけ、ロープをくぐる。相手はすでに赤コーナーに陣どり、
しきりにシャドウをくりかえしている。
 リングアナが扇情的にふたりの闘士の名まえを叫んだ。喚声と拍手を男は無表情に
うけ流し、対戦者は派手なみぶりでアピールに余念がない。
 選手の紹介をおえると、アナウンサーはそそくさとリングを後にした。レフェリー
もロープの外だ。そしてファイターたちは四角いジャングルのなかで、獣となる。グ
ローブに守られた拳を牙にかえた、ただ二匹の獣。
 ゴングが、高らかにうち鳴らされる。

 「その怪我はもう治ったのだろう?」リング上でゆっくりと弧を描きはじめた戦士
たちに目をすえたまま、グランドマスターはつぶやくようにしていった。
 「ある程度はな。しかし完治しちゃいない。このままでは箸ももてんようになって
しまうといっておいたんだがな。奴めきく耳もちゃしない」
 「箸はもてなくても人を殴ることはできる……とでもいったのだろう」
 「……なぜわかる?」
 「あれのことはよく知っている」
 「そうか、あいつはあんたが直々につれてきたんだっけな。まったくあんたの眼力
にはおそれいるがね。しかし今回ばかりはそいつももうきかんよ。鷹司がもう限界に
きているといったのは、なにも拳や肉体の状態だけからじゃないんだ」
 「……というと?」
 「奴の強さの秘密はなんだと思う」
 「そう……端的にいえば、感覚だな。視覚、聴覚、ともに常人ばなれしている。奴
の動態視力は驚異的だ。宮本武蔵のように蝿を箸でつかまえてみろといったら、鷹司
のやつめ蝿の足一本はさんでわしの目の前にさしだしおった。聴覚のほうも、調律師
にしてもいいほどきく。だが、とくに触覚の常人とのちがいが決定的だろうな。刺激
には人一倍敏感だが奴には痛覚がほとんどない。殴られても痛くなければ、こわいも
のなどひとつとしてなかろうさ」
 「……その感覚が狂いだしているとしたら?」
 グランドマスターは無言のまま、リングの上を注視する。

 左拳がさぐり針をうちいれる。男は足をつかって距離を維持する。今日の相手は典
型的なインファイターだ。近づけないジレンマが表情にはっきりとあらわれている。
嘲笑が頬を歪ませる。相手はむきになって前進をかけるが、よせつけない。ステップ
バック。ターン。ブロック。スウェー。さぐり針はとどかない。敵の表情がじれてき
た。飛びこむタイミングをはかっている。
 くる――勘が男に告げる。機先を制して自分から一気に相手の眼前ににじりよる。
見開かれた目に、ワンツーをたたきこむ。顔面が歪み、遠ざかる。二転三転、かろう
じてふみとどまり、目をむいた。男はすでに距離を回復している。臨戦態勢のまま、
敵は舌をうった。うたれ強さには自信があるらしい。事実、インファイトならどんな
に切れのいいパンチをもらっても、つぎの瞬間には一発逆転の右アッパーをくりだせ
るボクサーだ。しかし――うたれ強さなら、男のほうが上だ。
 フットワークで距離を維持しつつ、男は左ジャブで相手を牽制する。
 ぎ、と歯をきしる音がきこえてくるような凄絶な表情を相手はうかべた。つぎの瞬
間、強引に懐に飛びこんでくる。ジャブジャブ、右ストレート――左わきに見切り、
カウンターでフックをたたきこむ。もんどりうって倒れこむ先から、アッパーで叩き
あげる。無防備の顔面を中心に、つづけざまに拳をうちつける。衝撃に顔を歪ませな
がら、敵は縦横無尽に頭をふらされる。
 血がしぶく。ふりかかった血を、ラッシュの手をゆるめぬまま舌でなめとる。甘い。
 男の顔が歓喜に酔いしれる。

 「うちの女房の料理の腕はしっているだろう」リング上の悪魔のようなラッシュに
背筋をふるわせながら、ドクターはいった。
 「ああ。残飯をあさったほうがましだ」ファイトから目をはなさぬまま無表情にこ
たえるグランドマスターに、
 「はっきりという」ドクターは苦笑した。「その女房の料理が鷹司のお気にいりだ
ってことは?」
 「知っている。あれにくらべればレストランの料理など豚のえさだといっていたな。
味覚のほうもわれわれとはまるでちがう、ということだ」
 「それがこのまえ、女房の料理がまずくなったといいだした。味覚がかわったんだ」
 「腕があがったんじゃないのか? 料理の」
 「いや、いつもとかわらぬまずさだった」いって、ドクターは顔をしかめた。
 「ふむ……つまり奴の最大の武器である痛覚の麻痺にも、変化が生じているかもし
れない、と?」
 「そういうことだ」
 答え、ドクターはぎくりとしてリング上からグランドマスターに視線を移す。
 ファイトのつづくかぎりリングから目をそらしたことのないグランドマスターが、
しずかな目で自分を見つめていた。
 しずかだが、喰らいつくような激しさが、その奥には秘められていた。
 ドクターはごくりと喉をならしつつ、あわててリング上に目をそらした。

 痛覚と無力感に死んでいた双眸が、やにわにぎらりと光を帯びた。一閃、弾丸のよ
うなアッパーが男の顎にうちこまれる。一撃必殺の大砲だ。あれだけのラッシュで頭
をふられながら、まだこれほどの反撃をうちこむ気力が敵にはあるらしい。衝撃に後
退りつつ、相手が追撃に前進するのを目の片隅でとらえる。たたきつけられた脳に気
力で喝をいれたらしい。痙攣する足を強引にあやつりながら、ぐんぐん迫ってくる。
 おもいきりふりかぶった右拳がうちおろされる一瞬前、ゴングが反響した。敵は内
臓がせりだしてきそうなほど悔しげな顔で舌をうち、くるりと背をむける。
 ジャングルに集中していた聴覚がよみがえり、狂ったような喚声が耳にとどく。男
は無表情にコーナーにもどる。うがい水はさしだされない。いつものことだ。口中い
っぱいに広がった甘美な血の味を洗い流すなど、もったいなくてとてもできない。男
の顔にうす笑いがうかぶ。セコンドたちは嫌悪にひそかに顔を歪める。
 その眉が、ふとひそめられる。男の顔つきが変化していた。至福の表情は霧消し、
かわりに疑問と不審がはりついている。
 能面がはげ落ちた――セコンドのひとりは、なんの脈絡もなくそんな感慨を抱いて
いた。その勘は、正鵠を射ていた。

 「そういうこともあり得るかもしれんな」
 インターバルにほっと息をついたドクターにむけて、グランドマスターはしずかな
声音でそういった。ドクターは相手の顔を目にするのがなんとなくそら恐ろしいよう
な気がして、あらぬ方に視線をさまよわせていた。
 「しかしそれでも鷹司は負けんよ」
 「そうかね」うわの空で答える。
 「そうとも」グランドマスターもまた、電柱にでも話しかけているように気のない
声でつづける。「奴の強さの秘密は、感覚だけではないからな」
 「ほう」
 興味をそそられて目をむけるドクターに、地下世界の帝王はあいかわらず淡々とし
た口調でいう。
 「わしにもよくはわからんがね。あいつはときどき、憑かれたような目つきをする
ことがあるよ。痛覚がないゆえに恐怖を知らぬだけの男なら、あんな目つきはしない。
あれは、修羅場をくぐった野獣の目だ」
 返す言葉はなく、ただドクターは次の言葉を待って凝視をつづけるばかりだった。
 長い間をおいて、グランドマスターはふたたび口を開く。
 「恐怖というのは、いったいなんなのかわかるかね?」
 答えは出てこなかった。恐怖は感覚だ。恐怖を現出させるような状況を描写するこ
とはできても、恐怖そのものを説明することはできない。
 「用心深い男だぞ、奴は。痛い思いをしたことのない男が、なぜあれほど用心深く
なれるのか、疑問に思ったことはないか?」
 言葉を喉につまらせたまま、ドクターはゴングを耳にした。

 ゴングを背に、男はダッシュした。相手もすでに臨戦態勢、リング中央で足をとめ
ている。ジャブをたたきこむ。ジャブがかえる。打撃の嵐を交換しつつ、男は喜びを
かみしめている。
 歓喜を、痛みにおきかえてもいい。そう、これが痛みなのだ。インターバルに、血
の甘みが苦さに変化すると同時に、これはきた。歓喜とともに。なるほど痛い。痛い
としか表現できない感覚だ。こんな感覚を味あわされれば、だれでも後退って逃げだ
さずにはいられないだろう。だが、男は逃げない。ふみとどまり、打ちつづける。待
望の感覚だった。待ちつづけていたのだ。このときを。この機会を。痛みとはなんな
のか、なぜひとはあれほど痛みを忌避するのか。痛みゆえに人は尻ごみをする。痛み
が多くのものごとの根底にある。痛みを契機にして、ひとは支配と交流の渦を構築す
る。痛みがすべてではない。だが、痛みは世界の重要な構成要素を形成する。男は痛
覚をもたぬゆえに、世界からはずれていた。
 恐怖は死を忌避する。契機は激烈な刺激だ。恐怖なら知っていた。死はおそろしい
ものと教えられた。昨日まで存在していたものが、死によって消えてなくなってしま
う。それを実感したのが二十数年前。妹が木から落ちて死んだときだ。
 妹もまた、痛みを感じない体質だった。ふたりして、締め出された世界への砦を築
いていた。互いを理解できるのは互いだけだった。その唯一無二の分身が、木から落
ちて二度と動かなくなった。奇妙で退屈な儀式がおこなわれる間中、痛いもの、おそ
ろしいものと教えられてきた死の意味を考えていた。葬儀がおわり、ふたたび日常を
くりかえすようになって、ふりかえるたびにいつも背後についてまわっていた妹の不
在を思いしらされ、圧倒するように迫りくる絶望にうちのめされるようになった。そ
の圧迫感が恐怖なのだ、と思いあたった。それが最初の恐怖だ。
 それ以来ながいあいだ、男は恐怖を超克することをのぞんでいた。妹のぬけた空洞
に隣接した恐怖の記憶は、ある意味で男にとっての唯一の拠り所だった。同時に男は、
つかれたように痛みを求めつづけてきた。体が動かなくなるまで袋だたきになること
はあっても、痛みはおとずれなかった。殴られることと動揺に、殴ることもまた男に
は重要な意味をもっていた。痛みを感じているときの反応を、冷たい目で観察する。
なぜあんな顔をするのだろう。不快感とはちがう。悲しみでもない。男は執拗に痛み
を求めて殴り、殴られつづけた。やがて一対一で彼と戦って勝てるものはいなくなっ
た。そして第二の恐怖がおとずれる。グランドマスターに出会ったのだ。
 すでに老境に入った、背の低い男だった。恐怖を感じる要素など微塵もなかった。
にもかかわらず、老人は恐怖を身にまとっていた。目の前にしただけで、男は腰が抜
けるほどの圧迫感を感じた。妹が死んだときと同じ感覚だった。
 裏世界で、ボクシングのチャンピオンになれ、といわれた。巨額の富を手に入れら
れる、と。富以上に興味をひかれるものがふたつあった。ひとつ。生死をかけて殴り
あうこと。敗北は死と隣あわせだった。試合中に選手が死ぬことなど、日常茶飯事と
はいえぬまでもめずらしいできごとではなかった。そしてもうひとつ。
 三日、男は都市の地下でひそかに催される格闘技の饗宴を目のあたりにし、四日目
にリングに立った。負けしらずで今日まできた。だが、男にとって勝利にはあまり意
味はなかった。
 そしていま、突き刺すような痛覚のシャワーを男は全身に浴びている。わきあがる
歓喜とともに。これで痛みを理解できた。たしかに耐えがたい感覚だ。が、それでも
克服することができる。戦っているとき、気力が充実していれば痛覚は麻痺するとい
う。それなのだろう。ではこの戦いを終えたとき、ほんとうの痛みがやってくるのか。
望むところだった。もっとくれ。もっと、俺に痛みを。
 対戦者は、ベストショットを数かぎりなく叩きこまれながらせせら笑いつつ反撃に
移行してくる男に対して、抑えようのない恐怖を感じていた。男を倒さないかぎり、
この恐怖からは逃れられないだろう。恐慌にかられ、敵は執拗に男をたたきつづけた。
夢にも思ってはいまい。男が恐怖により近づくために、殴られる痛みを執拗に求めつ
づけていることなど。
 ゴングがなった。ふたりの戦士はよろよろとした瀕死の足どりでおのおのの小城へ
と背をむけあう。おなじように打ちのめされながら、その表情はまるで対照的だった。
敵は焦慮と疲労と恐怖の顔。男は――いつはてるともない血まみれの、至福の微笑。

 「ドクター」ふいにグランドマスターがいった。「鷹司の背中に痣がある」
 いわれてドクターは、コーナーでうずくまる鷹司の背中にハの字型に奇妙な痣がう
かびあがっているのに気がついた。「見覚えのない痣だな」鷹司の肉体なら隅々まで
知悉しているはずのドクターが、そういって首をひねる。
 「翼をもがれた天使のようだな……」つぶやき、ドクターは自分の口にした言葉の
センチメンタリズムに眉をしかめた。
 「知っているか?」しばしの沈黙の後、グランドマスターがいう。「堕天使は地の
底で、反逆の機会を息をころして待ちつづけているんだ」
 ドクターは意味をはかりかねる目つきで、グランドマスターに視線をむけた。だが、
無言の問いかけに対する答えはついにかえらなかった。

 男は思っていた。ここで負けるわけにはいかない。さらなる恐怖が背後にひかえて
いる。つかむべき得体のしれない恐怖、掌中に握りしめ、抱きつぶしてしまいたい最
上級の恐怖。その恐怖にふれ、手にし、味わい、いずれ喰らいつくす。そして男は―
―男は恐怖になりかわる。死を掌中におさめた、恐怖そのものに。
 ボックス席からほくそ笑みながらのぞきこむ恐怖の象徴を、男は目の隅にたしかに
とらえた。うす笑いをおくる。いままたひとつ、近づいた。待っていろ。
 反撃のゴングが鳴った。
                                                                    (了)




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