AWC 「泣かないで」(1)    ニーチェ


        
#1198/3137 空中分解2
★タイトル (NJF     )  91/ 9/22  16:53  (139)
「泣かないで」(1)    ニーチェ
★内容

 紙コップの中のコーヒーは、もう冷えてしまっている。コーヒースタンドの中は
冷房が効きすぎていて、美佐子は寒そうに両手で自分の肩を抱いた。祐二が煙草を
静かに吹かすと、店に流れる曲がマドンナからU2に変わった。

 ほとんど同時に二人は窓の外を眺めた。知らない街の知らない人々は、とうに眠
りについている。そんな時間帯だった。コーヒースタンドの中には、彼らの他、黒
い蝶ネクタイをしたマスターらしい男しかおらず、その男も時々いねむりをしてい
た。

 それから二人はまた長いこと互いを見つめる。目の前にパートナーがいることを
確認するようでもあり、なぜそこに他人がいるのかわからないというふうでもあっ
た。美佐子は白いサマーセーターを着ていて、髪はショートカットで少しくせ毛だっ
た。祐二はベージュのポロシャツを着ていた。ポケットも模様もないシャツは陽に
焼けた彼の肌によく似合っていた。

 小さなテーブルだった。手を伸ばせば簡単に相手をつかまえることができたけれ
ども、どちらも手を出そうとしなかった。曲が4曲変わっても、動くものは彼らの
まばたきだけだった。

 デビッド・ボウイのメリハリのない古いナンバーが流れ始めた時、祐二はかすか
に笑った。美佐子の表情は動かなかった。
 「大丈夫かい?」
 ハスキーだが聞き取りやすい声だった。言葉の調子は、感情に流されやすそうな、
およそ曲とはかけはなれた性格をよく表している。美佐子は大きな目でまばたきを
二回してから、首をがっくりと動かすようなしぐさでうなづいた。それから、目が
なくなりそうなほど大袈裟に笑いかける。


 彼はこんな表情が、好きだった。


 追いつめられているふうではなかった。何かを決めようというふうでもなかった。
言ってみれば、クーラーが静かに吐き出す冷えた空気のように見える。
 男が大きなあくびをして立ち上がった。コーヒーを三杯入れ、二つをテーブルに
運んだ。静かに二人の間に置き、テーブルの中央に向かって笑いかけながら独り言
のようにつぶやいた。
 「静かな夜だね。お二人にサービスしたいんだけど、いいかな」
 美佐子は驚いたように男の顔と紙コップに交互に目をやり、まばたきを五回した。
最後に祐二を見ると、安心したように例の微笑を浮かべて、言った。
 「ありがとう」
 美しく透明な、優しい年齢をそのまま映し出せる声だった。彼女は紙コップを両
手で持って口元へ運び、息を吹きかけながら祐二の方を見た。彼は新しい煙草に火
をつけるところだった。最初の煙が目にしみたらしく顔をしかめた。本当の年齢よ
りも、ずっと年取って見える。


 彼女はこんな表情が、好きだった。


 「帰れる?」
 「帰りたいのかい?」
 「ううん、そうじゃなくて」
 「先に進もう」
 「これ以上?」
 「引き返すより、ずっと簡単なことだよ」
 「そう?」
 「不安なのかい?」
 「少しだけね」
 「言ってもいいんだよ」
 「大丈夫。一人じゃないんだから」
 「無理しなくてもいいんだ」
 「それ以上言ったら、怒るわよ」
 「わかった」
 「祐ちゃん」
 「なに?」
 「あたしで、よかったの?」
 「そうさ」
 「本当に、あたしでよかったの?」
 「何度も言わせるなよ」
 「何度も言って欲しい。わからないから」
 「君でなくちゃ、だめなんだ」
 「見つけられるかな、あたしに」
 「大丈夫さ。だから、君を選んだんだ」
 「選択の余地はあったのかしら?」
 「なかった。最初に見つけたのが、君だったから」
 「よかった?」
 「よかった。ずっと、君を探してた」
 「嘘は、だめだよ」
 「嘘は、もう飽きた。それに、必要なくなった。先へ進めるんだからね」
 「長くかかるのかしら」
 「たぶんね。いやかい?」
 「ううん。どっちに転がっても、先のことなんて誰にもわからないものね」
 「どっちって?」
 「平凡でも、そうじゃなくても」
 「どっちが君に似合っているのか、わからなかったんだ」
 「あたしだって、祐ちゃんのこと選んだんだからね」
 「わかってる」
 「一人で行ったら、だめだよ」
 「ああ」
 「ずっと一諸だからね」
 「そうだね」


 美佐子は隣の椅子に置いたバッグから、葉書を一通取り出した。黒いボールペン
で、細かい文字が裏一面に並んで書き込まれてあった。それをテーブルの中央にそっ
と張り付けると、祐二が取り上げて目を通した。差し出しは美佐子で、宛先は彼女
の母親の名になっていた。

 彼は三度読み返し、もとの位置へ同じようにそっと張り付けた。それから首だけ
動かして窓の外を眺める。美佐子の表情が動いた。彼の横顔を哀しげに長いこと見
つめるが、祐二は所在なげに夜の奥に目を凝らし、ゆっくりと呼吸を続けていた。
まるでそのまま眠り込んでしまいそうな落ち着きだった。
 レベル42が流れている。少しだけ古くなってしまったナンバーだ。美佐子は何
も言わない。


 彼はこんな時間の流れ方が、嫌いだった。


 「わかるよ」
 静かに響いた彼の言葉に、美佐子の表情がさらに青ざめた。それでも彼女は何も
言わなかった。祐二は彼女を正面から見返し、何度も言葉をつなごうとする。息を
吸い込んで一瞬止めると、彼女がまばたきをした。それで、失敗を繰り返した。

 二杯めのコーヒーも冷えてしまっていた。あきらめて煙草をくわえる。男が咳払
いをした。半分吸った頃、美佐子が言った。
 「それだけ?」
 どちらの表情も、変化しなかった。彼は二度と口を開こうとしないように見えた。
しばらく彼女を見つめると、美佐子は優しく笑って見せようとする。無理した証拠
に、長く続けられずに、じきに元の哀しげな顔に戻ってしまった。
 「それだけ?」
 二度めは、かすかに言ったことがわかるほど自信なげで、抑揚がなかった。彼の
視線が一瞬だけ宙を泳ぎ、また闇の中へ消えてしまう。それでも彼は何も言わなかっ
た。

 アレッシーのデュエットが流れる。イントロが終わり、クリストファー・クロス
のコーラスがはいった。
 二人の表情が同時に動く。短い曲だったが、曲のあいだ、彼らは互いを感じ続け
るようだった。まるで、何年間かがその数分の中で逆戻りしたようだった。
 フェイドアウトは、心残りのように突然切れ、わずかその曲のあいだだけに彼ら
の安らぎが凝縮したにすぎなかった。祐二のするまばたきの中に、美佐子は先刻に
も増して哀しげに見えた。彼は唇の裏を噛む。


 彼女はこんな時間の流れ方が、嫌いだった。


                                (つづく)




前のメッセージ 次のメッセージ 
「空中分解2」一覧 ニーチェの作品
修正・削除する         


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE