#1188/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ ) 91/ 9/19 5:54 (186)
「消して」(2) 浮雲
★内容
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「で、期間はどのくらいになさいますか」
「ずっと」
「はあ」
「ですから、このままずっと」
「そ、それは本気ですか」
「え」
私がこの仕事を始めてから一年になりますが、いま眼の前にいる女性のような
客は初めてでした。
「あの、失礼ですが」
私は、もう一度念をおしました。
「え」
相手は、すでに覚悟を決めてきているのか、少しも動じる様子はありませんで
した。膝の上に組んだ両手の指先を見つめたまま、小さくうなづくばかりです。
私はどんなことがあっても、その理由を聞かないことを信条にこの仕事をして
きました(だからこそ、多くの客が足を運んでくれたのに違いありません)。
しかし、こんどばかりは「ハイワカリマシタ」と機械的に言うことはできませ
んでした。予想もしなかった相手の言葉に驚いたせいもありますが、それ以上に
その女性のなにか投げやりなそれでいて清楚な印象を与えてくれる身仕舞が私の
心をとらえてしまっていたのでした。
私は、しばらく相手の顔を盗むようにみつめていました。
「あの、なにかまずいことでも」
しびれを切らしたように、その女性は私の眼をのぞき込むようにまっすぐに見
返してきたのです。
私は、突然のことに思わずうろたえてしまったほどでした。そのときの、その
女性の瞳のなんとも言えないほどに澄んでいたのを忘れることができません。
なんというまぬけな返事でしょう。私はその時ほどみじめな思いをしたことが
ありませんでした。
そして、見ず知らずの初対面の人間の眼をまっすぐに見返してくるその女性の
大胆さにもう一度驚かなければなりませんでした。
私は、よく「あなたはどうしてそう目と目を合わせて話をするの。そうされる
となんだか照れるじゃない」と言われます。だって、と私は反論するのですが、
それはこうこうこういう訳だよ、と相手を納得させることは出来ません。「だっ
てついそうなるんだよ」と言ってはまた、相手の眼を盗み見てしまうのです。
しかし、その女性の私を見る眼付きはどこか詰問調といった具合いのものでし
た。私はうろたえなければならなかったのです。
「おねがいします」
眼を伏せたその女性のどちらかというと起伏の少ない面だちは、いっそう表情
のない白々しい感じを私に与えたのでした。
「なに、心配無用です」
そう返事するそばから、私は自分のことばのいかにもみすぼらしいのに嫌悪せ
ずにはいられませんでした。
何をそうカッコつけなければならないのだ、という声といかにも無教養で野蛮
でうすぺっらな人間だということを白状しているようなものじゃないか、という
声がどこか頭のあちらの方でぶつかっては迷惑な雑音を立てているのです。
そんな私の感情の搖れをいっそう増幅させるような出来事が続いて起こったの
でした。それは、なんとも不思議なことでした。
「現金でお支払いさせていただきます」
私の仕事のもうひとつのキャッチフレ−ズが「ロ−ン歓迎」ということを知っ
た上での申し出なのです。
その言い回しには、ロ−ンなどでいつまでもつながりを持たれるのはまっぴら
だ、といった頑としたものが感じられました。俗に言う「これっきり」という訳
なのでしょう。
いつもの私なら、腹の中とはまるで反対の愛想笑いを浮かべてヘラヘラと世辞
の一つも言ったに違いありません。ところが、
「とんでもありません」
私はそう言ったすぐ後に、「あっ」と口の中で叫ばなければなりませんでした。
何がとんでもないのか。その女性は私の腹の中を見透かしたことでしょう。な
ぜなら、うつむいたまま唇に手の甲をあてがったのですから。
そのときからなのです。私が変調をきたしたのは。それまでの「ほお、」と言
った感慨にとって替わって妙な具合いに神経が尖っていくのがよく分かりました。
そして、そんなみっともない気持ちをきっぱりと捨てられない自分のふがいな
さ、弱さを責めずにはいられませんでした。
私は、たった一本だけ電車に乗り損ねただけで、それを自分の優柔不断な性格
のせいだと決めつけ、ひどくイライラしてしまいます。あとで考えればなんとも
つまらないことなのですが、その時はそれはそれは地団駄踏むほどの短気を起こ
してしまうのです。
次の電車が来るまでのわずか四、五分の間、人格がすっかり変わってしまうと
言って過言でありません。どちらかというと、普段は口数の少ない方なのですが
、そのときばかりはぐずぐずぐずぐずと、愚痴をこぼし続けるのです。
「では書類にサインを下さい。サインを」
しまいの方は、自分でもびっくりするほど語気を荒げてしまいました。思わ
ず顔を上げたその女性の表情が激しく変化するのを、私は見逃しませんでした。
私は、すぐにその女性から書類を受け取ることは出来ませんでした。その女性
の気迫に圧されたせいもありましたが、少し前から始まっていた指先の震えが止
まらなかったからなのです。かえって震えはひどくなるばかりでした。私は少し
ぐずぐずしました。そして、気がついたのです。その女性が、膝を小刻みに揺す
りはじめたことに。耳を澄ませば、コツコツと膝頭のきしむ音さえ聞こえてきそ
うでした。
私は、自分でも気がつかないうちにその女性の手から書類をひったくっていま
した。お客であるその女性に対し、私はなぜそのような乱暴なことをしなければ
ならなかったのでしょうか。答えはその女性の貧乏揺すりにあったのです。
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あれはたしか、五年ほど前のことだったと記憶しています。その当時、私は病
院から出たばかりでした。
一年ばかりの入院の間に、私は7キロも太ってしまっていました。階段をあが
るのがなんとも大変な運動でした。おまけに、以前は電車の二人掛けのイスに腰
を下ろしても、隣の人の身体に触れることなどなかったのですが、十キロも太る
とそうはいかないようです。
そんなある日、いつものように勤め先に向かう満員の電車に揺られているとき
でした。その日はうまい具合いにすぐに座ることができ、内心ありがたいと思っ
たものです。
ところが、しばらくして隣の席の女性が妙な仕草をしているのに気がつきまし
た。そんなに超満員というわけでもないのに、身体をもそもそもそもそひっきり
なしに動かしているのです。そのうち、こんどは紙袋の中に手を突っ込み探しも
のをしているらしいのですが、中に入っているポリ袋がカサカサカサカサうるさ
く音をたて、おまけに下半身をしきりに細かく揺するのでした。
その女性の一部始終が、十二、三キロも太った私の身体にもろに伝わってくる
のです。それからどのぐらいの時間だったのでしょうか。貧乏揺すりとポリ袋の
音が際限なく私を責め続けたのです。でも、それは実は私の思い違いで、その女
性はすぐに目的のものを探し当てたに違いありません。
紙袋から抜きだした手にはしっかりとガムが握られていました。
そして予想通りでした。「クチャクチャ、クチャクチャ」とこれみよがしに小
汚い音をたてはじめたのでした。私に対するあてつけ、いやがらせであることは
誰の眼にも明かでした。
ああ、助けてくれ。私はそう叫びました。鼻にツンとくるいやらしい臭いは、
大嫌いなブル−ベリ−とかいうやつだったのです。どこまで私を虐めれば気がす
むのでしょうか。
いつのまにか、ガムを噛む音は「クッチャクチャ、クチャ」と一定のリズムで
私の耳を襲っていました。一方貧乏揺すりにゆれる膝は、それとはまったく違っ
た波長で私の身体を責めてきたのです。
考えてみれば、ワナだったのでしょう。いま気がついたのですが、私が座るま
でそこに掛けていた男は実はその女性の仲間で、二人で仕組んで私を落とし入れ
ようとしていたのに違いないのです。
それはもう十年以上も前の出来事でした。
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私は、パソコンの回線をつなぐと市役所の戸籍係のコ−ドを呼び出しました。
キイボ−ドをたたく指先は相変わらずひどい震えを止めてはいませんでしたが、
続けて、ひったくるようにして取り上げた書類に記入してあるその女性のID番
号を打ち込みました。ディスプレイはすぐに登録されているファイルの一覧を表
示してきました。
氏名、年齢、性別はもちろん現住所、本籍、血液型、身長・体重、勤務先、賞
罰、etc・・・その女性に関するすべてのことがらが表示されているのです。
「国民総背番号制度」が導入されてから半年たったいま、個人に関する情報はま
ず市役所(区役所)の戸籍係のコンピュ−タ−に登録され、そしてそれがホスト
である自治省のセンタ−コンピュ−タ−にファイルされる仕組みになっているの
は誰もが知っている通りです。
それに伴い従来の窓口での書類はいっさい廃止されました。個人に与えられる
ID番号さえ入力すればだれでも簡単に役所に置かれてある端末機で戸籍に関す
る情報を引き出すことが出来るのも大半の人は経験済みのことに違いありません。
もちろん、血液型、身長・体重、学歴、勤務先、犯罪歴、家族構成などプライ
バシ−に関するものは一般の個人IDでは読むことは出来ません。しかし、それ
はそのような内容が登録されていない、という意味ではないのです。あるパスワ
−ドを使えば、自治省のセンタ−コンピュ−タ−に登録されてある内容をすべて
引き出すことが可能だ、ということです。
ということは、その内容を書き換えたり消したりすることが出来る、というこ
そして、私の゛仕事゛は実にこの「国民総背番号制度」の恩恵にあずかってい
る、というわけなのです。
仕組みはかんたんです。
何か不都合があって、「私の戸籍を半年間消してくれ」あるいは、「二年ばか
り姿を消したいのだが」というお客が私のところにやってきます。
一般の人々は、かつての住民票に記載されている項目と同じようなものが登録
されていると思っているのです。ですから、後ろめたさもないしその行為が法に
触れるなどとは考えてもみないのです。
なぜなら、自分のデ−タを自分の意志で消そうというのですから、それがそも
そも法などというものに抵触するなどと考えおよばないのです。いまの憲法が、
そのことについてなに一つ触れていないからなのかも知れません。それをいいこ
とに、中には「戸籍の内容を書き換えてくれ」とか「誰それの戸籍と入れ替えて
くれ」などという怪しげな申し込みもありますが、そういうたぐいのものは一切
断わっています。私自身の信念にもよるのですが、操作がやっかいですし、改ざ
んはバレる危険があるのです。
その点、デ−タの消去は証拠が残りません。私は、あるウイルスを使うことで
、やっかいな自治省のホストコンピュ−タ−にもぐりこまずにそれが出来る操作
を考案したのです。それによって、きわめてル−ズな役所の端末に回線をつなぐ
だけで容易に登録されているデ−タを消去することが出来るのです。
そしてお客の要求通りの期間が過ぎると、そのデ−タは自動的に復旧するので
その期間が短い場合は、誰もその事実に気がつかないでしまうのです。
もし、役所の端末からホストに対しデ−タの照会をした場合、連動してホスト
のデ−タまで消去されてしまう仕組みになっています。
「該当するデ−タは登録されておりません」
という冷たい回答が返ってくるだけなのです。
お客に対しては、氏名や住所などID番号で誰でも読むことが出来るデ−タを
消去しているのだ、と説明していますが、実際には「国民総背番号制度」によっ
て登録されているすべてのデ−タを消さなければなりません。
役所の回線に割り込み、個人デ−タを呼び出すまではそれはそれでいろいろや
っかいな作業が必要ですし、危険も伴いますが、あとはかんたんです。
「DEL」キイを押すだけです。一瞬のうちにその人は社会から抹消されてしま
うのです。本人が望んだ期間だけ。
これが、私の゛仕事゛の正体です。
説明じみた話はここらでおしまいにしておきましょう。
私がなぜその女性の首に手をかけなければならなかったのか。いちいち詳しく
言うまでもないでしょう。
指の震えが止まらずにいらいらしながらキイボ−ドを叩いている私のそばで、
その女性はガムを噛み始めたのです。それもブルベリ−の臭いの奴を。
そればかりではありませんでした。そのうち、「クチャクチャ」という音に混
じって、コツコツ、コツコツ変な音が聴こえ出したのです。
もうこれ以上よけいなことを言う必要はありますまい。ただ、間違ってもらっ
ては困ります。私はかんしゃくを起こしたのでもなければ、自分の身を護ろうと
した訳でもありません。自分の信念に従って゛仕事゛を果たしただけです。望み
通りに「消して」あげたのです。永久にね。
おしまい