#1102/3137 空中分解2
★タイトル (NJF ) 91/ 8/16 16:34 (164)
「BIG RIVER」 ニーチェ
★内容
雨がぱらぱらと思いついたように降った後、駐車場のアスファルトはじきに乾い
てしまった。久しぶりに風の吹く夜だ。群青色の空はずっと遠い。ポプラの葉に囲
まれて、ぽっかりと濃い色の天井があいている。
いつかの夜もこんな風だった。じっとりと露を含んだ芝の上に大の字になり、い
つか笑えるようになるさ、そう思いたかった夜だ。
「わかってるさ」
「そうだよね。ちゃんとわかってるよね」
強がりを言っていることも彼女にはよくわかっていた。そう口にしなければ、二
度と彼女は笑ってはくれなかった。顔が引きつっているのも、どうしようもなかっ
たし、それでも彼女は満足して、ようやく笑ってくれたものだった。
出発ゲートをくぐる直前に彼女はぼくを振り返り、ショルダーバッグの中から小
物を取り出して手渡した。
「これ、返しておくわ」
四角いケースだけで、それがイヤリングだということはわかった。ぼくがいつか
の彼女の誕生日に贈ったトパーズだ。その箱を受け取り、彼女の笑顔を見れば、す
でに言葉を帰す必然などあるわけがなかった。そのかわりに、ようやくのことで笑
顔を作り言ったものだった。
「ユウコ、おまえ何しに行くつもりだ」
「馬鹿ね。観光ビザしか持ってないのよ」
「だって」
「ねえ、ちゃんとわかってるって、言ったじゃない」
成田の空は曇っていた。
あの日から二週間、ぼくは酔い潰れた。頭の中で心臓の音が反響して、こうやっ
て苦痛の中で息絶えるのなら本望だ、そう信じていた。酒も金もなくなり、ふらふ
らと歩いてたどり着いたのが、こんな夜だった。
雲の切れ間に月が見え隠れしている。月はしょぼしょぼと瞬きして、駐車場の中
でうろうろする女を照らした。白線の上を、平均台の代わりにしてぐるぐる歩きま
わっている。 酒から醒めて、代わりに風と一緒に煙草を吸うようになった。ポケ
ットからしわくちゃになった一本を取り出してくわえる。
「ねえ、いつから吸ってるの」
ユウコは近づいてきながら尋ねる。ため息と一緒に吐き出した。
「おまえが行って、すぐだ」
「一年前」
「そう」
「なんかさ、落ち着いちゃった感じ」
「何も変わってないさ」
「そうね。前からそういうところがあったけど、でも、なんか大人みたい」
いくつになれば大人みたいでなくなれるのか、ユウコは知っているみたいだった。
尋ねる気などなかったけれど。
「おまえが帰ってきてから、考えていたことがある」
「なに」
「余裕があるなって、そう思ってた」
「べつに特に変わったことなんて、ない。よく帰ってきたなって、そう思うけど」
「そんなことじゃない」
「何が聞きたいのかな」
「そうじゃない。おまえに何か言って欲しいわけじゃないんだよ」
リヤバンパーに背中をあずけて座り込んだ。彼女は車の横腹に体をあずけて、向
こうを見ていた。ボディ全体が雨で濡れ、街灯を反射してきらきら光って見えた。
「ここへ来て、座れ」
煙草を一本ゆっくりと吸ってアスファルトでもみ消してから、おまえに言ってお
きたいことがある、と切り出した。
「おまえが向こうに行ってる間、俺はただぼおっとすごしたよ。何をどう考えて
みても、おまえはここにいなかった。それで、もうやめようって決めたんだ」
「うん」
「もうおまえと一緒になりたいとも思わない。ただ、他の男なら、俺がどこへで
も飛んで行って全部ぶち壊してやる」
「おもしろい人だねえ」
駐車場の中へ車が一台ころがりこんできた。大学構内の自由駐車場は、わけのわ
からない時間帯にわけのわからない男と女が集まる。誰もみな、ふらふらと空中に
浮かんだまま生きている。そういう、でたらめな、いかれた街で彼女は育った。
「余裕があるって、さっき言ったよね」
「ああ」
「きっと、あたしが身軽になったからだよ」
「身軽?」
「一人になったからだよ」
「そうか。一人になったか」
「あたしが向こうへ行ったのはね」
「うん」
「余計なことを考えるとこにいたくなかったから。ある人にとってはね、あたし
がここにいない方がいいって、そう思ったから」
「わかるよ」
「あの人でも、あなたでもない人」
「あいつじゃないのか」
「うん」
「で、今は一人になったか」
「冷たい人だねって言われた。あたし、冷たくなれちゃった」
彼女は立ち上がって、また車の向こう側に寄りかかった。風も吹かなくなった。
もう夏は終りつつあった。もっと正確に言えば、一年前のあの日、とっくに夏は終
っていた。どこにも戻るところがない。Uターンしたくとも、結局遅すぎた。
「当分、勝手ができないかな。どこへ行ってみても、結局同じなんだなって思う。
少しずつ平凡になってるみたい。普通の人に戻りつつあるみたいね」
「平凡はつまらないよ」
「人は誰でも、結局平凡な生活に戻るんだよ」
樹々がざわめく。
「なんでそういうふうに言えるんだ? 少しも変わってないな、おまえ。俺たち
は一般論が知りたいわけじゃない。人は誰でも、『人は誰でも』っていう論理がほ
しいわけじゃないんだよ。どうしてこんな簡単なことがわからないんだ」
「でも、平凡になるんだよ」
「おまえが言うのは、もっとずっと先のことだろう」
「でも、やっぱりそうなんだ」
ため息が出た。疲れは少しも取れていなかった。無性に誰かを傷つけたくなって、
たて続けに煙草を二本吸った。頭の中に、海が現れた。
彼女が月を仰いで背伸びをしたとき、ぼくは彼女の体に腕をのばした。これほど
悲しいことはなかった。長い間、たったの半歩も近づくことができなかった彼女に
手をのばし、ぼくよりずっと細い胴を抱きしめること。これほど悲しいことは、か
つてなかった。それ彼女は、かすかに笑いながら腕を振りほどこうとして、やめた。
体重を全部あずけて、子供に言い聞かすように言った。
「あたしは、そう決めて、帰ってきたんだから」
「そうか、そう決めて帰ってきたか」
彼女はかすかに海の匂いがした。夏の匂いだった。
「じゃあ、今はそう思っておくことにしよう」
半分だけな、そう付け足したとき、彼女は後ろから抱いているぼくを舌打ちしな
がら振り返ろうとした。
「どうせまた、ふらっとどこかへ行ってしまうんだし」
「どっちが」
夏の匂いが息づいている。ゆったりとした確実な周期だ。目を閉じても、腕の中
につかまえていられた。頭の芯がしびれている。このまま海の底へもぐりこんで、
体ごと波と同化してしまえそうだ。痩せっぽちの彼女の体は妙に重たかった。少し
ずつぼくと彼女の呼吸は同調しはじめ、ぼくの中で月の光が共振する。
今夜は最悪だ
今夜は本当に最低だよ
でも、それでも素敵だ
ぼくの手に入れたもの
ボニータイラーが歌った。ぼくは彼女を奪えなかった。いつまでも、彼女の首筋
で迷うばかりの子羊のままだ。彼女は、ぼくが本気になるのを負担に感じている。
手を放すと、彼女は黙って車の中からバッグを取り上げ、自分の車のキーを外し
た。
手を振って駐車場を出て行った彼女の匂いが、まだぼくの周囲にあった。思い出
したようにまた雨が落ち始める。月が見え隠れしている。風はとまった。シートに
沈み込んで煙草をくわえる。いかれたロックンロールばかりのテープに嫌気がして、
ぼくは樹々の声を求めた。
二度と戻れないことを知っている。舌打ちと一緒に吸殻をはじくと、車が入って
きた。赤い、彼女の車だった。広い駐車場をぐるりと一周して近づいてくるのを、
ぼくは見ていた。
「どうした」
「おにいさん、つきあわない?」
「どこへ」
「走りに」
一瞬、ぼくは迷った。彼女の決めたことが何だったのか、問いただすべきだった
かもしれない。彼女の車は、やはり海の香りがした。それで何もかも、どうでもよ
く思えた。
終夜営業の店で彼女はコーヒーを二つ買った。
「あと何時間一緒にいられるのかな」
「日が昇るまでなら、まだ十分時間がある」
知らないうちに知らない防波堤に辿り着き、彼女はため息をついた。エンジンを
切ると気持ちの悪い波の音だけが聞こえた。ゆっくりと彼女はシートを倒した。
ぼくは彼女の顔も見る気がしなくなった。車から降りて、街灯も何もない闇の中
で、ぼくは煙草を吸った。吐き気がした。あの時と同じだ。彼女が指輪をはめてぼ
くの前に現れたときから、優しさに過敏になっている。
「自分で買った指輪なんかするな」
薬指をにらみながら、ぼくは言ったものだ。
「あたしは、守りたいのよ」
それをはずしながら、彼女は言った。彼女自身を一体何から、誰から守りたかっ
たのか、ぼくは聞きもしなかった。
ぼくはまだ彼女の嘘に気づかないでいた頃に二人で行った、浜百合の咲く海辺を
思い出していた。あの時の波は穏やかだった。ぼくは彼女に、お気に入りの映画の
話を聞かせた。真っ黒に日に焼けた、ちょっと白けた少年が海辺でバイトしながら
サーフボードを手に入れることを夢見ている。会ったこともない少女からかかって
くる電話の、約束の時間はもうすぐだ。バイクを飛ばして帰る途中で、少年は死ん
でしまう。少年が最後に見たものは何だったのか?
「わかるか?」
「何かしら」
「森と、アスファルト」
「ふうん」
彼女は優しく笑って見せた。
16時間一緒にいて、服も脱がせられないぼくの隣で、彼女は向こう側を向いて
寝息をたてていた。波が高くなっても、風が強く吹きつけても、もうあの時のよう
には誰も笑わない。
《’91.8.16筆》