#1079/3137 空中分解2
★タイトル (UTJ ) 91/ 8/ 7 22: 1 (150)
多加賀教授の備忘録(2) YASU
★内容
菜穂子はあまり家庭的な女ではなかった。しかし、水商売が長かったためか、あまり
細かいことにこだわらない性格だった。
カズシのことも最初から、もうそんな年でもないから、私はあなたのことに干渉しな
いわ、だからあなたも私のことにかまわないでほしいの、と言った。
彼も彼女の提案を歓迎した。
父が仕事で留守がちだったので、菜穂子はよく外出した。学校から帰っても、家には
誰もいないことが多かった。夕飯の支度ができていることもあったし、時間がないから
なにもしていないの、ごめんね、近くのお店で何か取ってちょうだいね、というメモが
テーブルに乗っていることもあった。カズシはひとりでテレビを見ながら食事をした。
ひとりの気軽さを楽しんでいて、あまり淋しいとは思わなかった。
十時がきても十一時がきても父も菜穂子も帰らず、彼は自分の部屋のベッドにもぐり
こんで、着替えもしないで寝てしまうこともあった。
夜中に目が覚めると、父と彼女がーーーカズシは私の前で継母を彼女とか、あの人と
か言ったーーー口論していた。多分父よりも遅く帰った菜穂子を、父が叱っていたのだ
ろう。女のほうも黙っているわけでもないようで、ときどき金切り声がまじって聞こえ
る。そして女をなだめるような男の声。やがて二人は自分達の寝室に入ってしまったら
しい。しばらくの鎮まりののち、押し殺したようなひめやかな声音がカズシの部屋まで
伝わってくる。暗闇の中で目を凝らしてカズシは何かを見ようとする。
そんな生活にもまもなく終わりが訪れた。
菜穂子が突然父の甥で、会社の経理を任せていたユキオと駆け落ちした。
二人がそのような仲だったことは、誰も知らなかった。ただカズシは父が遅くなる日
に限って、ユキオが家に立ち寄ることは知っていた。
ユキオはカズシには従兄になるが、年はカズシよりも十歳以上上だった。
家に来ると、
「カズシ、元気か、若い母さんはおまえを大事にしてくれているか」などとからかうの
で、余り好きではなかった。
菜穂子になれなれしくするのもいやだった。
二人でビールを飲みながら、テレビを見ているカズシにいろいろ話し掛ける。そうさ
れると彼がいやがって、自分の部屋に入ってしまうのを承知でそうしているのでないか
と、カズシは疑った。
一度二人でリビングでいるときに、カズシの父が帰ってきた。
「ああ、叔父さん、留守に上がり込んで、すみません。どうしても今日中に目を通して
もらったほうがいい書類があったもので」
ユキオはわるびれずにそう言った。
父はサイドテーブルにビール瓶と飲みかけのコップが置いてあるのをちらりと見た
が、何も言わずに自分達の寝室に入った。
そのときカズシは、閉まったドアのほうからどちらからともなく目を移して、互いに
目をあわせるユキオと菜穂子の様子を見てしまった。菜穂子はぺろりと舌を出してみせ
た。そしてカズシがそこにいるのに気付いて、彼のほうにもウインクをした。先生の目
の前でへまをやらかした小学性のようで、おもわず彼も笑ってしまった。
着替えをして出てきた父は、もういつもの父と同じで、ユキオから書類を受け取る
と、さっと目を通して、二言三言指示を与えて、ユキオのコップにビールを注いでやっ
た。
父が二人の仲に気付いていなかったのか、知っていながら放っていたのか、カズシに
は分からない。しかし二人が自分を裏切るような行為に出るとは思っていなかっただろ
う。
だが、ユキオが会社の金を持ったままいなくなり、その翌日から菜穂子が家を出てし
まったとき、彼は二人の関係がはっきり分かったようだった。
父はカズシに何も言わなかった。
カズシも菜穂子のことは何も尋ねなかった。
菜穂子がいなくなり、また父と二人だけの生活をすることになって、かえってうれし
い気持ちさえしていた。
しかし父のほうはもう以前の父には返らなかった。
会社の経営は危機的だったし、信頼していた二人に裏切られたショックは癒しがたか
った。
酒の量が破滅的に多くなり、よく家を空けた。会社の事務員から、父に連絡が取れな
いのだが、と言って電話が掛かってくるようになった。
カズシは事態がどうしようもなく悪化していくのを感じたが、自分には何もできない
という無力感があるばかりだった。
半年後、父の会社は倒産し、まもなく父も肝硬変で病院に入ってしまった。さらにそ
の一年後には、ぼろぼろになった肝臓の中にできた癌のために、父は死亡した。
「そのとき私は高校二年でした。でも、天涯孤独の身になっても、私はあまり悲しいと
は思いませんでした。父方の親類の者は、父の会社を処分して残った金で大学までは行
くように、それが先立った親への孝行なのだからと私を説得しましたが、私は父が助か
らないと知ったときからかねて考えていたように、すぐに高校をやめる手続きを取りま
した。そして友達や親類の者から逃れるように誰にも連絡しないまま、父の金庫から銀
行の通帳を持ち出して引き出しておいた金を持って東京へ出てきたのです」
カズシはここまで何の感情もまじえず、私の目を真正面から見て、とつとつと言うよ
りは話慣れたことをしゃべるように一気に話しました。それからちょっと逡巡する間が
あって、目を私からそらせました。
「これからの私の話を先生が信じるか、信じないか、多分信じてもらえないと思うので
すけど、ただこれだけは覚えておいてほしい。それは私は自分の犯した罪の重さを軽減
しようとして、このような話をするのではないのです」
私が深くうなづくのを見て、彼はまた話し始めました。
カズシは東京では新宿のバーでボーイをして暮らした。
自分は大学へ行って勉強するのには、全然向いていない人間だと分かっていた。
新宿には大阪とは比べものにならない活気があつた。カズシは女子大生や、若いOL
に人気があった。毎日が楽しかった。不足なものは何もなかった。
父のことはすぐに忘れてしまった。というよりも父のことを考える時間がなかった。
毎日四時に店に出て開店までの準備をして、八時ごろから十二時過ぎまではカウンタ
ーと客のいるテーブルの間をかけまわるうちに時間が流れていった。一時をまわると客
層が変わって、水商売の女が多くなる。彼女達は機嫌がよいと、カズシたちボーイにも
気前よくチップをくれる。しかし虫の居所の悪いときは、近づかないにかぎる。客に晴
らせぬ鬱憤をカズシ達にぶつけてくるのだ。
「紋白蝶」というクラブのママをしているカナコは、どういうわけかカズシのことを
好いていて、月曜日の夜、というよりも火曜日になっているのだが、必ずカズシの店に
やってきて、マスターに耳打ちしてはカズシを自分のテーブルに呼ぶ。カズシのような
新入りのボーイは、客のテーブルには座れないのだが、困ったような顔をマスターに向
けると、マスターはしようがないといった顔付きでうなづいてみせる。
「カズくん、今度の日曜日、一緒に横浜へ行こうか。まだ行ったことがないって言って
いたでしょう」
カズシがどう答えたらいいか考えていると、
「なんだったら、山下公園あたりのホテルにいっしょに泊まってもいいのよ」と言い、
それを聞き付けたカズシの仲間が
「カズシ、やめとけ、ママに捕まったらこわいんだぞ」とひやかすと、
「何言ってるのさ、あんたら、私に捕まったことなんてないくせに」
そんなカナコの横顔がだれかに似ていると思った。
それは父を捨てた菜穂子がおどけたときに見せる表情だった。
菜穂子は今どうしているのだろう。まだユキオと一緒だろうか。もしかしてこの東京
にいるのじゃないだろうか。
菜穂子と暮らした三年たらずの生活を思い出した。菜穂子とは親子という気持ちはな
くて、ふだんはあまりものを言わないが、何かのときには頼れる姉貴といった感情を抱
いていた。だからユキオと駆け落ちしたときも、仲を許されない二人の逃避行という目
で見ていた。ただユキオには多少の嫉妬めいた気持ちが残った。
「ママ、いいよ、今度の日曜日、一緒に横浜へ行こうよ」
カズシはちょっと媚びるような笑みを浮かべて言った。
「私があの最初の声を聞いたのは、紋白蝶のママと横浜のホテルで一夜を過ごしたとき
のことでした。はじめのうちは誰かが小声で歌っているのかと思いました。隣にママが
寝ていました。私はそっとベッドを抜け出して、窓辺に近付きました。その声は窓のす
ぐ外でしているようにおもえたからです。でも当然なことに窓の外には誰もいないで、
遠くに漆黒の海が広がっているのがみえるばかりでした」
カズシは本当に自分がホテルの窓から外を見ているような目を、私達のいる面会室の
鉄格子の入った窓の方に向けた。
「・・・いわしろの はままつがえをひきむすび・・・」
たしかにそれは歌のようでもあり、詩を朗読しているようでもあった。
その声はすぐ近くに聞こえたり、海の上や木々の間を通って届いたようにも聞こえた
りした。
カズシは思わず戦慄を覚えた。
自分を引き寄せようとするような声として感じた。
「誰だ、一体誰なんだ」
「うーん、何なの、カズシクン」
紋白蝶のママーーー彼女の名前はサヨコといったがーーーが眠そうな薄目をこちらに
向けてそう言った。
それ以来、同じ声がカズシを悩ませるようになった。
ゆっくりとではあったが、声は実体性のあるものになっていき、まるで耳元でささや
くようなときもあった。
「いわしろの はままつがえを ひきむすび まさけくあれば またかえりみむ」
それが短歌らしいことはカズシにも分かった。ただどういうことを歌った歌なのか、
さっぱり分からなかった。店にときどき来る客に学習塾で国語を教えているという男が
いたので、一度その歌を聞かせてみたが、
「なんだ、それは、おまえが作ったのか?それにしても何のことか、さっぱり分からん
歌だな」
と、言われただけだった。
声はやがてカズシに語りかけるような調子に変わった。それも決まって店から帰って
ベッドにもぐりこむと聞こえてくる。最初はやはり詩を暗誦しているようだったのが、
じっと聴き入るとカズシに話し掛けているのだった。
「吾は汝を吾のうつせみとなせり、もって汝、吾のためにその恨みを晴らしたまえ」
「おまえはだれなんだ、なんのために僕をこんなに苦しめるんだ」
「汝、吾のためにその恨みを晴らしたまえ」
「僕がどうしておまえのために恨みを晴らさないといけないんだ」
「汝は吾のうつせみなり。吾は汝なり。而して汝もまた吾なり」
「冗談じゃない、僕は僕で、ほかの誰でもない。これ以上僕に付きまとうのはやめてく
れ」
声は聞こえなくなった。
しかし、また翌晩には同じ声がし始める。