#1069/3137 空中分解2
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聞き書き終戦前夜 クリスチーネ郷田
★内容
わが家のばあさんは、明治43年生まれの82歳だ(1991年現在)。
今回はばあさんの話をもとにして終戦前夜を書き記そうと思う。ううむ、
ニュー・ジャーナリズム的だ!(そう肩ひじ張るなって。気楽に行こう、
気楽に)
昭和20年、8月15日。
ポツダム宣言受諾発表(玉音放送)を、イシは長野県の松本で聞いた。
当時は父が3歳、長女が5歳の時であった。
イシは長いこと東京で暮らしていた。東京、深川の新大橋のたもとにあ
る食堂(当時きくや食堂、現在では「あわもり」とか言うらしいが、よ
く知らない)に勤めていたと言う。
そのころはすでに祖父勇松とも結婚しており、(後妻として苦しんだと
言うエピソードもある)食堂もうまくいっていたようだが、空襲が激し
くなってきた。だがイシは、空襲にはそんなに恐怖心を持たなかったと
言う。慣れたと言うことだろうか。B29は、イシの目には「普通」の、
日常的なものに見えた。
「おっかないなあ」と近所の人と話しあいながら防空壕にもぐった。そ
の防空壕は5人がせいぜいの小さなもので、土を掘って、上に木でフタ
をしただけと言う簡単なものだった。木のフタなどは勇松が作った。昭
和20年3月9日に東京大空襲があるが、その前にイシは長野県に疎開
していた。最後の大空襲の前に逃げていたのは幸運だった。木のフタな
どは吹き飛んでいたことだろう。
焼夷弾の絨毯爆撃。この無差別爆撃で死者は10万人を超えるといわれ
ている。
下町は火の海に包まれた。「モロトフのパンかご」は大型の焼夷弾の名
称で、もっとも多く使われた。親爆弾の中に子爆弾がいくつも入ってお
り、それがばらまかれる仕組みになっている。これが爆弾の豪雨に見え
た。
なぜうまいこと空襲を逃げることが出来たのか。それは、料金が無料の
「疎開用汽車」が走っていたからだ。すでにきくや食堂の周辺も被害を
受け、安全では無くなった。そこでタダの列車に乗ったと言うわけだ。
なぜタダか。どうやら、罹災証明書ってのがあったようなのだが、はっ
きりしない。
昭和20年、2月28日にその条例みたいなものが出ている。
空襲罹災者の避難疎開は、罹災証明書の提示で無賃となる。鉄道運賃は
政府が負担したと。
祖父が提示したのだろうか。
列車に乗り、祖父の実家のある長野県へ行く。
そこでも生活に苦しんだ。一時は三味線の芸をメシの種にして、物乞い
としてドン底生活を送っていたと言う。(これは、よほどの事が無いと
言わない。いまだに、自分が「元乞食」だったことを私の母に隠してい
る。たまに私に語る時、「これだけは(私の)母に言ってはならない」
と念を押すのだ)三味線に合わせて長女と長男が踊り、それを見ていた
人々が、なにかしらめぐんでくれた。
しかし、それでも農家の人々は概して冷淡だった。農家にしても仕方の
ないことだとは思うが。
これからどうなるか分からぬまま、イシは玉音放送を聞くことになる。
END(?)
。。..