#1015/3137 空中分解2
★タイトル (SEF ) 91/ 7/ 7 18:52 ( 90)
お題>「鏡」 /えびす
★内容
「鏡」
by えびす
百年以上経た鏡は、〈雲外鏡〉という妖怪と化すという。妖怪とはいっても、
こいつははたいしたものではない。独りでその問題の鏡をのぞきこむと、そこ
に何やらおかしなものが映る、というただそれだけのさほど害もないものであ
る。おかしなもの、というのも、ほんらいなら自分の顔が映るべきところに、
何故か見知らぬ妖しい顔が薄笑いをうかべつつこちらをうかがっていたりする、
と、その程度の無邪気なものだ。放っておけばどうという事もないのだけれど
も、雲外鏡に関する知識を持ち合わせていない人間――すなわち大半の人間―
―にとってこれは相当に気味の悪いものらしい。目につかないように鏡をどこ
かにしまいこんでおいても、どうも安らかに眠ることができない。かといって
壊してしまうと、何かの祟りがあるのではないだろうか。おおかたの人間はそ
う思う。
私の前に鏡がある。
直径三〇センチ程度のその鏡は、周りが雲状の彫刻で縁取られていた。厚く
何度も漆が塗られている大きな置き鏡だった。私は、鏡をうっすらと覆ってい
る埃を、ふっ、と軽く吹いて落としてからのぞきこんだ。
すると、見知らぬ女の子の顔が、鏡の中からこちらを見つめていた。可愛い
顔だったが、やはり恨めしそうだった。
「残念ながら私はそのくらいじゃあ驚かない」
静かにそう言ってやると、鏡の中の顔は消えた。代わりに鏡の表面は霧のよ
うに曇ってしまって、私の顔すら映らない。そっと指先で触れてみたが、表面
に水滴がついているわけでもない。
「駄々をこねるのは勝手だけれども、それでは少しばかり困ったことになる。
私が会った〈雲外鏡〉はおまえで四体目だ。――これが見えるか?」
鏡の前で小さな金槌を軽く振ってみせた。その柄に刻まれているちょっとし
た梵語を見て、雲外鏡は少しおびえたように表面の曇りを震わせた。
「いままでの三体のうち二体はこれで〈あちら側〉に行ってもらった。――残
り一体はどうしたのかおまえも知りたいだろう?」
少し間が開いてから鏡の曇りが晴れ、私の顔が映った。
「よろしい」
そう言ってから私は、目の前の雲外鏡と同じく直径三〇センチ程の円形の鏡
を取り出した。大きさを確かめてみたが、事前にもらった資料通り、この雲外
鏡とぴったり同じサイズだった。裏にもちゃんとオリジナル通りに銀が張って
ある。
「――簡単な話だ。こいつとおまえを張り替える。素直にそこから離れてくれ
ればよし、そうしないのならおまえを割ってから張り替える」
私は両手のひらを上にして雲外鏡の前に差し出した。
「ほら、ちゃんと受け止めてやるからここに落ちろ」
雲外鏡がふたたび曇った。
(……あたしがここからはなれたら、そのあとはどうなるの)
直接頭の中に語りかけてきた〈雲外鏡〉は初めてだったので、私は驚いた。
しかもその声は女の声――それも女と言うよりは女の子のそれだった。
「会話ができるのなら最初からそうすればよかったのに」
(いいから、あたしのしつもんにこたえて)
「おまえがそこから離れた後は、私がちゃんと大切にしまっておいてやる」
(……しまっておくだけではいや。ちゃんとつかってくれないと。あたしはか
がみなんですもの)
「贅沢を言える立場ではないだろうに」
(あたしだってすきでふつうのかがみでなくなったわけではないわ。なんにも
わるいことはしていないのに……みんなあたしをつかってくれない。つかわれ
ないかがみなんて……)
雲外鏡の言葉に寂しさがにじみでていた。
「おまえのように古い鏡だとな、価値が高くなるからなかなかみんな使わなく
なるんだ。しかたのない事だ」
(でも、でも、あたしがつくられたころはみんながちゃんとつかってくれたよ。
遊廓にいたころはとめちゃんとかさよちゃんとかまいにちつかってくれてたし、
堺のいせやさんのとこでは番頭さんも丁稚さんもみんなつかってくれたし、そ
れに、それに……)
少し早口でまくしたてる雲外鏡の言葉を私は遮った。
「わかった、わかった、毎日とはいわなくともたまには私が使ってやる」
(ほんとうに? ちゃんとつかってくれる?)
「信じる信じないはおまえの勝手だが」
今度あいた間は少し長かった。たっぷり三〇秒はあっただろう。私は辛抱強
く待った。
(わかった。しんじる。――ありがとう。かがみにとっては、つかってもらえ
ることがいちばんうれしいの)
うれしそうにそう言いながら、雲外鏡は、ぽろり、と台座から離れて私の両
手の上に落ちた。
当然、その瞬間に〈雲外鏡〉は死んだ。
死んだ、という表現は妥当ではないかもしれないから、〈あちら側〉に行っ
てしまった、と言ったほうがいいかもしれない。
むりやり割ると、鏡の死の際の悲鳴によって台座も破壊されてしまう場合が
あるので、安全作を取ったまでの話だ。その点は依頼主から厳重に注意されて
いた。
もちろん、〈雲外鏡〉とした約束はちゃんとまもってやろうと思う。
私はさっきまで〈雲外鏡〉であった物を丁寧にしまいこむと、用意してきた
方の鏡を台座に張った。生命の危険もなく、久し振りの楽な仕事だった。
そういうわけで私のバスルームには、以前からあった鏡――一体目の雲外鏡
――に加えて、もうひとつ円い鏡が掛けられることになった。
あと百年もすれば、この鏡もふたたび新しい〈雲外鏡〉になるのだろう。
【おしまい】