#994/3137 空中分解2
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呪術士(7) 青木無常
★内容
「助かるわ。たとえ気まぐれでも」
涙子は黒猫に微笑を送った。暖かい笑顔に、凶運を呼ぶ女は眩しげに目を細めた。
顔をそむけるようにして黒猫は立ち上がり、すり切れて血まみれになったゆかり
の手にハンカチをあてて血を吸い取らせる。白いハンカチが見る間に、朱に染まっ
ていく。
「あたしがここへ来るのを五分遅らせたなら、この傷はもっと深く裂けていたで
しょうね」淡々とした口調の奥に、感慨が隠されていた。「そして、十分遅らせて
いたら、あなたたちはもうここにはいなかったのかも」
「なぜ?」
と、ゆかりはもう一度訊いてみた。
黒猫は微笑った。どこか寂しげな微笑だった。
「それほど、お兄さまのことが心配なの?」
そう訊いた。
「心配?」ゆかりの顔に、不思議そうな表情が浮かんだ。「そうね。心配よ。で
も、兄さまなら大丈夫」
「じゃあ、これほどまでして、どうして逃げようとしたの?」
黒猫の瞳が真摯に問いかけてくるのを見て、ゆかりは困ったように首をかしげた。
そして、
「どうしてそんなことを訊くの? だって、あたし、兄さまの負担にはなりたく
ないもの」
当たり前のことを話すように、ゆかりの不思議そうな目が眼前の美女に問いかけ
る。
黒猫は目を伏せた。
浄土武彦の言った言葉が、脳裏によみがえってきた。
ゆかりを縛ることなど、だれにもできない――夕刻、別れぎわに武彦は燃えるよ
うな目をしながら黒猫にそう告げた。だが、もしゆかりを縛りつけようとする奴が
いたら、このおれが許さない。
奥羽の黒猫は、不思議な惑乱を覚えた。どうしてか、奇妙に心地よい惑乱だった。
武彦とゆかりとの間には、世俗的な思いを超えた、炎のように熱くダイヤよりも
硬い絆があるのではないか、そう思えた。自分が――いや、ひとが、渇望しながら
どうしても得ることのできない幻――それが、自分の目の前の現実に確固たる姿を
現したのを目のあたりにしたための惑乱なのかもしれない。
黒猫は我知らず微笑んでいた。生まれてこのかた味わったことのない爽快なもの
が、身裡を吹き通っていくのを感じていた。
「愛される、というのは、どんな気持ちなの?」
子供のように素直な問いかけが、口をついて出た。
途端、ふっくらとしたゆかりの頬に朱がさした。
「あ、あ、愛されてなんかいないよ」
狼狽するゆかりを見て、黒猫は声をたてて笑った。
うれしかった。
なぜかはわからない。ただ、無性にうれしかったのだ。
ゆかりも、そして涙子も、きょとんとして黒猫の笑う様を眺めていた。
ふいに、その笑い声がやんだ。
訪れた静けさの彼方から、かすかなエグゾースト・ノイズが響きわたってきた。
巨大で、力強く獰猛な二輪の排気音は、それにまたがる主の姿を彷彿とさせる質量
を伴って、徐々に、近づいてくる。
「早く逃げた方がよさそうよ」
そう告げた黒猫の顔からは、すでに笑みはぬぐい去られていた。人形じみた仮面
の美貌が二人にくるりと背を向け、それきりふりかえることなく埠頭の暗がりへと
消えた。
「どうなってるんだろう……」
解せない、といった目つきで、すり切れた手首に残された白いハンカチを取って、
ゆかりはそれを涙子の目の前でひらひらとふってみせた。
純白の布地を染めた血の赤は、洗っても落ちることはないだろう。
わからない、という風に首をふってみせた涙子の口もとに浮かんだ、あるかなし
かの微笑の意味するものがなんであるのか、ゆかりは気づいただろうか。
「でもせっかくの機会を見逃すことはないんじゃない?」
現実的な涙子の台詞に、ゆかりもまた現実的な反論を口にした。
「罠だったら?」言って、ゆかりは首をふる。「だとしても、状況は変わってき
てるわね。歩ける?」
「大丈夫よ」
涙子がうなずくと、二人は無言で倉庫を後にした。
暗がりの内部に、蒼龍の巨体が呆然と立ちすくむ。
ナイフで切られた縄の残骸。
かすかな血痕。
恐怖に怯えながら己の運命を憂えるはずの二人の人質の姿はなかった。
「おめえか、黒猫」
背後の薄明に向けて、蒼龍はうっそりとつぶやいた。
浮かび上がる腕を組んだ美しいプロポーションが、声もなくうなずいてみせる。
「なぜだ?」
静かな口調で、蒼龍は呼びかけるようにして言った。
「わからない」淡々とした口調で黒猫は答える。「浄土武彦に会ったわ。奇妙な
男だった」
「おれは、なぜだ、と訊いている」
黒猫は小さくため息をひとつもらし、
「わからないのよ。でも、ひとつだけ言えることがある」
「言ってみろ」
短い間をおいて、黒猫は言った。
「わたしは、あの兄妹が好きだわ」
瞬間、蒼龍の背中に炎が浮かんだような気がした。
情念の炎だった。
閃光のようにふりかえり、風がうなった。
巨大な拳が美貌にめりこみ、均整のとれた肢体が背後に向けて吹き飛んだ。
容赦のない一撃だった。
黒猫もまた、それを予想していた。甘んじて受けるつもりはなかった。インパク
トの瞬間、後方に向けて飛んでいた。それでも、すさまじい衝撃に見舞われていた。
うめきながら上体を起こした黒猫に、蒼龍が静かに告げた。
「たしかに、猫は誇り高く自由に生きるのが似合ってやがる。俺にとってもその
方がつきあいがいがあるってもんだ。まあ、おめえはおめえの思うとおり好きにす
ればいいや」
蒼龍の言葉を訊きながら、黒猫は驚愕に目を剥いていた。
ごつい顔が、笑っていた。
快活で、奇妙にうれしげな笑顔であった。
8
ぱたぱたと鳴くエンジンの音が途絶えると、周囲には静寂が広がった。
うち寄せる波のリズムが、夜を深く満たしている。ドアを開き、閉じる音が遠く
潮騒に消えていった。
倉庫街。積み上げられた雨ざらしのコンテナが、埠頭を延々と埋めつくしている。
愛敬のあるボディに背をもたせかけ、武彦はくわえたハイライトに火をつけた。
煙を深く肺まで吸い込み、満天の星に向けて高々と吐き出す。
そして、
「欲しいか、蒼龍」
だれにともなくつぶやくように、言った。
「くれるのか?」
コンテナの陰から、心底驚いたとでもいいたげな様子で、重量感のある巨体が現
れた。
「やるよ。俺がまちがってた」
「そうだろうそうだろう」蒼龍は満面に嬉々と笑みをたたえて両腕を広げ、十年
来の旧友に対するように親しげに近づいてきた。「情けは人のためならずってな。
煙草の一本や二本ケチケチしてちゃいけねえ」
「そのとおりだ」
武彦もまた、近づいてくる蒼龍にいささかの警戒心も表さぬまま、くしゃくしゃ
につぶれた箱から煙草を差し出してみせる。
「いやあ、悪いなあ」差し出された火を煙草に移しつつ、蒼龍は言った。「おめ
えもなかなか人間ができてきたじゃねえか。ロクな死に方はしねえと思ってたんだ
が、こういう風に出てくれるんだったら楽に死なせてやってもいいぜ」
「なに、気にすることはない」と武彦。「死刑囚だって煙草の一本は吸わせても
「人形をわたすってんなら、話は別だがな」
「ふふん、そうくると思った」
「どうせわたす気はないんだろうがな」
「そうでもねえぞ」
「あ?」
武彦が目を剥いた。
「だから、わたしてもいいっつってんだ。人形を、よ」
「あ?」
ぽかんと大口あける武彦に、蒼龍はぽんと人形をわたしてよこした。
「それ、わたしたぜ」
と言うなりくるりと背を向けた。
そのまま、のしのしと埠頭を歩き去り――武彦との間に充分な距離をとった上で
再びふりかえった。
なんのつもりだ、と眉をひそめる武彦に正対し――印を結んだ。
北東の方角――武彦に向けた鬼門!
うおん、と空が鳴った。避ける間はなかった。
人形が、武彦の手を離れてふわりと浮き上がる。
同時に、押し寄せた。呪咀の念塊が。
腐臭が鼻孔を貫いた。墓所の臭い。死者の臭気。胃の腑から吐き気が突きあがる。
脊椎から腐肉の塊のように悪寒が炸裂し、脳内を遠く近く呪咀の叫びがどよもした。
そしてはるか彼方から、哄笑が轟きわたっていた。勝ち誇った哄笑が。
「甘かったな……」
苦鳴に苦渋をにじませて、武彦は霞む視界を前方に向けた。
渦巻き、叫び、群れ集う念塊のただなかに、人形がいた。
能面の無表情だった。
その端麗な顔が、泣いているように見えた。
笑っているようにも。
苦しみ悶えているようにも。
怒り狂っているようにも。
あらゆる顔が、めまぐるしく浮かんでは消えていく。
それはそのまま、人形がたどってきた数奇な運命を徴しているのかもしれなかっ
た。
ずいぶん長い旅をしてきたんだな……。
薄れていく意識の底で、武彦はおぼろげな感慨を抱いた。
ぐらり、と膝をつき、前のめりに崩おれた。その時――
空を切り裂いて、真一文字に影が奔った。
黒い細線。
その細線が、宙に浮かんだ人形を砕いた。
絶叫が轟いた。幻の声だった。
ばらばらに砕けて落下していく人形の破片の彼方で、泣き叫ぶいくつもの影が逆
巻いた。
「兄さま!」
コンテナの山の上から現れたゆかりが、倒れかけた武彦をすばやくささえる。さ
さえながら、手にした鞭状の数珠を蒼龍に向けて突き出した。
距離が足りない。鞭はむなしくアスファルトを打ちすえた。
「逃げろ、ゆかり」
かすれた声が、ゆかりの耳もとで告げた。
「兄さま!」
「逃げろ……憑代を失った念塊がくるぞ……!」
「駄目!」
叫び、ゆかりは力を喪失した兄を懸命に抱えあげようとした。
力が入らない。絶望的な想いで、月を見上げた。
曇天だった。否、群れ集う無数の気魂が、視界をおおいつくしているのだ。
「逃げろ」
つぶやく武彦を、ゆかりは強く抱きしめた。できることは、それだけだった。
気塊が渦巻きながら凝縮し、鬼となった。鬼となって、押し寄せた。
「兄さま……」
口にできなかったひとつの言葉を、ゆかりは今、告げようとした。
そして、気づいた。
鬼が押し寄せていくのが、二人に向けてではないことに。
「返りの風?」
ゆかりはつぶやいた。呪術を駆使する者にいつか訪れる、因果応報の風か、と。
「いや」
武彦がつぶやいた。
言葉どおり、鬼が怒涛のごとく肉迫する場所にいるのは、蒼龍ではなかった。