#990/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 91/ 6/ 6 11: 7 (182)
呪術士(3) 青木無常
★内容
言葉交わした者すべてに死と凶運をもたらすという風評を裏づけるような、あま
りにも美しい容貌。たしかに、見つめられただけで心臓が停止してしまったとして
も、不思議はない。
その美色が、無感動に言葉を続けた。
「あなたのお兄さま、いまごろはもう死んでいるかも」
と。
ゆかりの眉がひくりと動く。
口調にふさわしくない凶々しい宣告に、戦慄を禁じ得なかった。
「どういうことかしら?」
声がかすれたのは、女の妖美な毒気にあてられていたからだけではあるまい。
黒猫の顔に、初めて表情が湧いた。苦悶とも見まごうそれは、明らかに恍惚とし
た悦楽の顔だ。
「蒼龍は人形を媒介にあなたのお兄さまに念を送ると言っていたわ。あたしは噂
に高い浄土武彦の死に顔を見るために、ここへやってきたのよ」
ぞっとするような美しい笑顔が、ゆかりの背筋に悪寒を奔らせた。
人の生死をゲームのように楽しむ種類の人間は少なくはない。だが、死そのもの
に対して純粋に愉悦を感じる人間など、存在するとは思えなかった。この、黒猫と
名乗る女は、その存在するとは思えない人種だった。
武彦の許へ、踵をかえそうとした。
できなかった。
凶眼が、全身を金縛りに捕えていた。深く、底の知れない黒瞳から発する妖美に
充ちた魅惑は、禁断の感覚をゆかりに沸き出させた。
立ち続けることさえ困難な、抗いがたい官能を。
「どうしたの。可愛いお嬢ちゃん」
赤い唇から、心地よい音楽のように響く声が、ゆかりの耳の奥をくすぐった。
猫の瞳が近づいた。
首筋に、触感が押し寄せる。
指が触れたのだ。
黒猫の指が。
細い指先が微妙な刺激を加えるにつれ、ゆかりのからだの深い部分から妖しいも
のが反応していった。
鼻孔に漂う香気は、眼前の美女の吐息か、それとも体臭なのか。ゆっくりと、ゆ
かりの脳裏から思考力を奪い取っていく。
唇に、唇が、よせられた。
それがひとつに重なる寸前――風が、切り裂かれた!
すばやく、しなやかに後方へ飛びすさった奥羽の黒猫の表情には、小面憎いこと
に驚愕の一片だに沸いてはいない。
酔ったように陶然と両の目を細め、胸もとを裂かれた黒いドレスの切れ目に、そ
のしなやかな指をのばす。一条に走る細い朱線から押し出された血珠を、みずから
の指を這わせてすくいとり、唇にゆっくりと寄せた。
赤い舌が、朱の液体を淫らになめあげる。唇の端がつりあがり、淫蕩きわまりな
い微笑が朝の陽光を妖しく色彩った。
ゆかりもまた、微笑っていた。
右手に握るのは、鞭状の数珠。
無言のまま、微動だにしない対峙が時を浪費した。
どれだけの間、そのままでいたのだろう。数時間を、ほんの数秒に濃縮したかの
ような、今しも弾けてしまいそうな空白。
その空白を、小気味よく断ち切るように、背後の林間からエンジン音が高らかに
響きわたった。
即座に、ゆかりが反応した。聞き慣れたエンジンの音。
しなやかな少女の全身が大きくたわみ、次の瞬間、後方へ飛んでいた。
間髪入れず、黒ずくめの女も後を追う。
葉ずれの音を背後に、二つの影が公園内のまばらな林間を抜けて川岸へ飛び出し
た。
土手の上に、泥と油に汚れ切って鈍い光を放つシトロエンが待っている。ゆかり
はそれを目指して一直線に川原をかけぬけた。
後を追う黒猫の眼前に、黒い閃光が音を立てて急迫した。横方向に難を避けるの
が一瞬でも遅れていたら、車中から放たれた黒い手裏剣は確実に女の胸に突き立っ
ていたに違いない。
助手席にゆかりが飛び込む光景を、猫の瞳が捉える。そして、ドライバーズシー
トでステアリングを握る、うす汚れた貴公子の澄んだ双眸も。
土埃を巻き上げてホイールが回転した。派手な音を立てて鉄の馬はノーズをすべ
らせ、発進した。
奥羽の黒猫の、美しき無表情が消失していた。消させたのは、賞賛と――そして
歓喜だった。
「浄土……武彦……!」
つぶやきにも、陶然とした崇拝の響きがこめられていた。
そして、淫らな情念の炎も。
川沿いの隘路をぬってステアリングを操る武彦の顔貌に、ようやく血色がさして
きたのを見てとって、ゆかりは安堵の吐息をついた。
発進時に、蒼白になった武彦の顔を目にした時、ゆかりは世界が音を立てて崩れ
ていくような恐怖を感じたのだった。十数年傍らで暮らしてきたが、あれほど不健
康な顔色の武彦を見たのは初めてだったのである。蒼龍という名の呪殺者の秘めた
力が、桁外れであることはもはや疑いようがなかった。
「奥羽の黒猫か」武彦はつぶやいた。「死神と同衾して生き延びたってんなら、
蒼龍って奴は噂通りの怪物だな」
つい先刻、心臓を鷲掴みにした凶悪な呪力を思い出し、武彦は小さく首を左右に
ふった。
「兄さま」
心配気にのぞきこむゆかりに、武彦は微笑してみせる。
「大丈夫だ。なんとかな。おまえこそ気をつけろよ。バイオリズムは最下点に落
ちているはずだぜ」
ゆかりは頬を染めてうつむいた。
心臓を刃物で貫かれても一瞬にして回復するゆかりの不死身性も、満月の前後の
期間は拭い去ったように消失する。望の明けた朝である今、ゆかりの超常的な体力
は上昇期にさしかかる直前の低迷期に相当している。この一月に一度のごく短い間
だけ、ゆかりはその外見にふさわしい、か弱く繊細な、十八の少女になるのである。
「とりあえず、おまえはどっかに預けといた方がよさそうだな。姫野女史のとこ
ろへ行くか」武彦の口にした名前は、占星術で名の知れた第一級の霊能力者である。
「女ふたりじゃ不安だろうが、このあたりじゃ他に知り合いもいない。いいな?」
「大丈夫よ、兄さま」微笑は、すぐに心配顔へと変化し、「兄さまこそ気をつけ
て」
武彦はうなずいただけだった。
町並の彼方に朝日がすっかり昇り切った頃、シトロエンは市街の大通りに乗り出
していた。行き交う車の量もまばらな三車線の幹線道路を、山側を目指して走らせ
る。そのあたりから目的の場所へは、すぐだった。
都市近郊の住宅地として開発された一帯である。軒並み真新しい家が立ちならぶ
中でも、褐色を基調にした重厚なマンションの佇まいは、ひときわ異彩を放ってい
た。
受け付けで呼び出しをかけて入口のドアをくぐり、七階、姫野ルイ子と表札の出
された前に立つと、ノックをするまでもなく扉が開かれた。
「そろそろ来る頃だと思ってたわ」
前髪を形のいい眉の上で切りそろえた美女が、口もとにうっすらと微笑を浮かべ
ながら言った。三十三の年齢を感じさせない若々しい美貌の下に、脂ののりきった
女盛りの肉体がネグリジェの薄い生地を透して誇示されている。
「まいったな」眼前の半裸の美女を無遠慮に観察しながら、武彦は後頭部をぼり
ぼりとかいた。「また占いでおれたちの来訪を予期してたってのか?」
「ご用向きもね」武彦の背後から雪片のように舞い上がる白いものに顔をしかめ
て後退りながら、「ゆかりちゃんを預かってくれ。ちがう?」
「ちがわない」武彦は子供のような微笑を浮かべた。「引き受けてもらえるかい
?」
「気が進まないけれど、いいわ」言葉とは裏腹に、笑顔には屈託がない。「わた
しと一緒にいても、たぶん安全ではないだろうけど」
「それも占いで出たのか?」
ぎょっとしたように訊きかえす武彦の肩を、姫野女史はポンとたたいた。
「カードがあなたたちのことを告げたから、詳しく占ってみたの。そしたら、か
なり危険で複雑な網が二人を取り込んでいることがわかったのよ。どう動いても、
情況はよくないわ。だから、わたしのところへゆかりちゃんを預けにきたのは正解。
後は、チャンスが来るのを待つことね。といっても、どうせここでおとなしく待っ
てるつもりはないんでしょうけど?」
「当然。おれは蒼龍の野郎をいぶり出しにいく。とめても無駄だぜ」
「とめる気なんかないわ。あんたっていつもそうだもの。鉄砲玉なんてもんじゃ
ないわね。機関銃みたいに、走り出したら行きっ放し。ちょっとはゆかりちゃんの
ことも考えたらどう? 顔には出さないけど、死ぬほど心配かけてるのよ」
「余計なお世話だ」
三人は笑み交わした。
ふいに姫野女史が真顔になり、
「そう、相手はあの呪殺屋蒼龍なの。それでわかったわ。浄土武彦にあんな形で
運命の糸がからみついてくるわけが。たしかつい最近、あの凶運招きの黒猫が合流
したはずよね」
「アンテナ高ーい」とゆかりが口を開いた。「あたしたち、それ今朝知ったばか
りなんですよ」
「そういう情報は得意なの。だれとだれがくっついた、とかね」と照れたように
笑い、「とにかく、ゆかりちゃんは引き受けたわ。武彦、あんたは流れには逆らわ
ないよう行動しなさい。そして、もつれた糸をほぐすのもあなたよ。忘れないで」
「あんたの言うことはあいかわらずよくわからんな。だがまあ、覚えておくよ。
ありがとう」武彦は言い、女史の手をとって握りしめた。「ゆかりを頼んだぜ」
くるりと背中を向けかけた。その腕を、姫野涙子が引き止めた。
いぶかしげに眉をひそめる若者の耳に、女は熱い息とともにささやいた。
「汚れた場所にも光の亀裂があるわ。氷を溶かすのは、火」謎めいた警句を告げ
るとともに、熱く濡れた唇が蛭のように吸いついてきた。「おまじないよ。気をつ
けて」
不敵な笑みを、といきたいところだが、デレデレとしただらしない顔になってし
まった。武彦も女史にかかっては形なしだ。胸の奥に淀んでいた、呪法による攻撃
の名残の不快感がきれいに洗い流されたような気がするのは、美女の口づけの効能
か。
だが、周囲にはまだ陰気がまとわりついているのを武彦は感じていた。今にも空
気中に拡散してしまいそうな希薄な陰気だが、おそらく振り払っても離れまい。い
わば蒼龍の使う呪法の、触手のようなものだ。
放っておいてもたいした害はないだろう――車のエンジンをかけながら、そうた
かをくくっていた。失態であった。陰気を逆にたどって奴を見つけだしてやる、そ
ういう目論みもあった。
町は心地よい眠りから覚め、あわただしい一日に向けて活動を開始していた。歩
道にはジョギパンに身をつつんだ老人の姿が見られ、すれちがう車の量も増え始め
ている。開け放した窓から、身を引き締めるような朝の冷気が吹きこむ。
もうしばらくも経てば、街へと向かう二車線には通勤途上の乗用車があふれかえ
るに違いない。武彦はアクセルを踏みこんだ。
前方の信号は、そろそろ黄色に変わるころだ。だが、抜け切れない距離じゃない。
シトロエンのスピードをぐんと上げる。黄色に変わった。交差点は目の前だった。
楽に行ける。
側方で、わだかまっていた陰気が一気に爆発した。
大型トラックの巨体が驀進してきた。コクピットに、居眠りからさめた運転手が
双眸を大きく見開いているのが、ストップモーションのように鮮やかに見えた。
タイヤとアスファルトの摩擦が上げる、耳ざわりな悲鳴が朝の街路をつんざいた。
トラックの膨大な質量が慣性の法則を助長する。
「くそ――」
全開に踏みこんだアクセルも、パワーをホイールに伝え切れないまま、車体後部
がトラックの鼻面にひっかけられた。ゴムの焼ける臭いをまき散らしてスピンがか
かる。
片輪が浮き上がった。転倒寸前だ。ステアリングとアクセル操作で車を立て直し
つつ、武彦は歩道に逃げこんだ。
火花を上げて縁石に車体をこすりつけ、反動で大きく荒れ狂う。歩道に乗り上げ、
ノーズが植樹と強烈な口づけを交わしてから、やっとのことでシトロエンは停止し
た。
腰を抜かしたジョギング中の老人が、ガラスごしに呆然と武彦を見つめていた。
真新しいグリーンのジョギパンの股間が重く濡れている。寿命を十年は浪費しただ
ろう。
ハンドルに顔を伏せ、深く息をついてから武彦はつぶやいた。
「ケリがつくまで、息抜きはできん、か」ぎらりと、目を剥いた。「楽しくなり
そうだぜ」