#927/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 91/ 4/19 7:42 (186)
封神(2) 青木無常
★内容
2
朝靄が山間にわだかまる。
白々とした光の中、ロビーにはまだ冷えびえとした空気が残っている。
菊村明久はあくびをかみ殺しながら森閑とした屋内に、ゆっくりとその視線をめ
ぐらせた。
ひとけのないロビーに、訪問者はすぐに見つかった。
よれよれのコートを着たうす汚い男だった。
何日も山間をさまよい歩いた挙句、ふいに現われた小さな田舎ホテルに休憩とも
の乞いをかねてひょいと足を踏み入れた、といった感じの風貌だ。その顔にある漂
然とした雰囲気の下の怜悧な眼光に気づかなかったら、菊村は頭ごしに怒り出して
いたかもしれない。
そのかわりに、警戒心は一層強固なものと化していた。
「菊村だ」口を出た言葉には眠気の一片だに含まれてはいない。「君かね、私を
呼び出したという人は」
若者がうなずく。芒洋とした表情の奥で、精悍な容貌が光を放った。
「朝早くからお呼び立てして申し訳ありません」言葉とは裏腹にのんびりとした
口調だが、不思議と怒りや反発を覚えさせなかった。「浄土武彦といいます」
菊村はうなずき、粗末なつくりの長椅子に身を沈めた。
町の旅館よりも小さいような名ばかりのホテルに、人の活動する気配はない。裏
へまわれば、早起きの従業員が起き出して雑用にとりかかっているのだろうが、早
めのモーニングコールでたたき起こされて「面会したいという方がいらっしゃって
るんですが」と遠慮がちに告げてよこしたフロント以外、菊村が今日目にした人物
はこの男が初めてであった。
発掘の再開予定時刻は十時。まだ四時間近く余裕がある。近くの民宿などに分宿
しているアルバイトたちは、まだ布団の中でぬくぬくと惰眠をむさぼっているだろ
う。
くわえたキャスターマイルドに、眼前の若者が火のついたライターを差し出した。
年齢は、自分が大学で教えている学生たちとそう変わらないようだ。が、漂然と
した風貌の下に隠されている独特の雰囲気は、現代人から失われた野性を秘めてい
る。さらにどこか高貴なものを匂わせる凛然とした瞳の輝きは、山人の若長、とい
った想像を菊村の脳裏に閃かせた。
「用件を聞きましょうか」
幻想を軽く追いやって、菊村は穏やかな口調で言った。。
若者はうなずき、そして単刀直入に切り出した。
「発掘作業を中止して頂けませんか?」
言葉の意味を理解するのに、数秒の間が要された。
茫然とした顔が怒りの表情へと変化し、菊村は怒気を含んだ口調で言った。
「いま、なんと言ったのかね?」
「発掘をやめてもらいたいんです」
若者はくりかえした。
菊村は憤然と若者に問い正す。
「君はどこの関係の人なのかね?」
その質問に対して、若者が示した反応は曖昧だった。
「答えにくい質問だな」一人言のようにつぶやき、「現代日本における、いかな
る公的な資格も持たない、ある団体、としか答えようがありません」
「ある団体とはなんのことかね?」
「団体、というのは正確な言い方ではありませんが……。そう、種族、あるいは
一族、とでも言えばいいかもしれない。具体的な説明は、申し訳ないができかねま
す」
目眩の感覚が菊村を襲った。あり得ない幻想が再び浮かび上がる。山人の末裔―
―
「なんのことだか見当もつきませんな」軽く頭を左右にふりながら、「さっぱり
わからない」
「でしょうね」
とぼけたような若者の合いの手が入る。
「失礼だが、そういったことはまず大学の方を通して交渉していただけませんか
な。いきなり発掘現場に来られて、私にそんなことを言われてもどうしようもない。
ちがいますか?」
「遺蹟が出そうになった時点で、なんらかの手を打つべきだったんでしょうがね」
と若者は言う。「うかつにも遺蹟が出ちまって、その上発掘が始まるまで責任者が
気がつかなかったらしくてね」
「この土地の持ち主かなにかかね、君のいうその、団体、とやらは。いや、違う
な、この山の持ち主には話が通っているはずだ。どうもよくわからない。なぜ発掘
をやめさせたいんだね、君は」
「危険だからです」若者は答えた。「もうかなり危ない部分まで掘りかえされて
いる。これ以上発掘を進めると、死者が出ますよ」
さらりとしいた口調で、とんでもないことを言った。
あまりにも馬鹿げていた。
では、一瞬、背筋を走り抜けていったものは、恐怖ではなかったのか。菊村は思
い、そして首を左右にふりながら苦笑した。馬鹿ばかしい。
だが、次に若者が口にした言葉を聞いた時、菊村はそれが錯覚などではないこと
を確認しなければならなかった。
「実はもう、死人は出てるんじゃないかと思うんです。今朝ここへ来る途中で血
の臭いをかぎましてね」
「いいかげんにしたまえ――」声は低かったが、怒気は満面にこめられていた。
「帰ってくれ。狂人のたわごとにつきあっている暇はないんだ」
落胆の表情が若者の顔を曇らせた。どこか、哀しげでさえあるような、いかにも
情けなさそうなその表情を見ているうちに、同情の念がわいてくる。
が、浄土武彦の見せた哀しみが、自分たちに向けられたものだということまでは、
菊村にはわかるはずもなかった。
「帰ってくれ」
もう一度言った時には、その顔からは怒気が消え失せていた。
ばさりと、地を這う下生えになにかが落ちた。
武彦は眉を潜め、樹上をあおぐ。
鳴き騒ぐ鳥の声が朝の光を満たしている。不審なものは、なにひとつ見当らない。
にもかかわらず、武彦はなにか異常な気配を感じていた。
「ゆかり……じゃあねえな」
ひとりごとのように言いつつ、うす汚れたコートの懐中に手を差し入れた。
「物騒なマネすんなよ、ミコト」
嘲るような声が、頭上から降ってきた。
身構える武彦の視線の先に、人影はない。
「おれをミコトと呼ぶな、彪太」
気配に向けて、武彦は低く言い放つ。
彪太、と呼ばれた男は、あいかわらず姿を見せぬまま嘲り笑いだけを樹間に響か
せた。
「プレゼントは気に入ってくれたかい、武彦」
「悪趣味な真似しやがって」
苦々しく言うと、武彦は下生えに落ちたものを蹴り上げた。
手首だった。人の。
傷口は、まるで鮫かなにかに食いちぎられたかのような惨状だ。
「この先に落ちていたのさ。手遅れだったようだな」さも楽しげに声が言う。
「それで首尾はどうだったんだい、ミコト」
風が鳴いた。
黒い影が朝の大気を一文字に切り裂き、樹幹に突き刺さる。
それより一瞬はやく、塊のようなものが難を逃れて枝から枝へ移動した。
猿のような身軽さだった。
「おお、こわいこわい」おちょくるような口調はあいかわらずだったが、かすか
に恐怖が混入している。「勘弁してくれよ」
「冗談さ、本気じゃねえ」
「悪い冗談さね」
「つぎは本気でやるぜ」黒影が潜む樹間に向けて、武彦はぎらりと眼を剥いた。
「二度とおれをミコトと呼ぶな」
「わかったよ、たしかにあんたはミコトじゃないさ。なにせあの時に、その資格
を失ったわけだからな」
あの時に、という台詞を強調するようにして彪太は言った。
もう一度にらみつけ、武彦はおもむろに懐から手を抜く。
歩を踏み出し、樹木に突き立てたものをぐいと引き抜いた。
両端の研ぎすまされた、十センチほどの金属製の棒。
手裏剣の一種だろう。半径数ミリの球をはさんで、長い四角錐を二つ、両端にく
っつけたような形の代物だ。独鈷、と呼ばれる仏具によく似ている。
「首尾はよくねえ。責任者の先生、取りつくしまもなかった」
ぶすりとした表情のまま、武彦は手裏剣を懐に戻す。
「そいつぁ、大変だ」言葉の内容とは裏腹に、むしろ、おもしろいことになった
とでも言いたげな口調で、彪太は言った。「で、どうする? 政府にはたらきかけ
て、上から圧力でもかけさせるか?」
「いまさらだな。時間がねえ。もう扉のところまで出かかってるんだぞ」
「じゃあ幻術でも使って追いかえすか。ちょいとビビらしゃ、大挙して山を降り
るだろうさ」
「どうかな。下手すりゃ幻術より先に本物が出てくるぜ」
「ほかに手はあるめえよ。そうじゃねえのか、え? 武彦」
「わかってる」苛立たしく吐き捨てた。「だいいち、ことをややこしくしたのは
てめえの怠慢だろうが。えらそうな口きくんじゃねえ」
「へえへえわかってますって」
ニヤニヤ笑いが漂ってきそうな声だ。
武彦は不審げに眉根を寄せ、
「わざと、じゃねえだろうな、彪太」
突き刺すような口調で、訊いた。
返答はない。嘲りの雰囲気だけが、じわりと沸き出しただけだった。
「答えろよ、彪太。見張りのてめえが役をおっぽり出して静観の構えでいたって
んなら、長老連も厳罰どころじゃすませられねえだろうぜ。どうなんだ」
すると、静寂を破って狂おしいほどの笑い声が響きわたった。
「そのとおりさ、武彦」
笑いの間に間に、やっとのように言い放つ。
武彦は目を剥いた。
「てめえ……」
が、そんな武彦の様子には頓着する風もなく、彪太は笑い続けた。
「武彦、もったいねえとは思わねえか? 日本をまっぷたつに引き裂いてしまい
かねねえような代物を手もとに押さえときながら、それを目のあたりにすることさ
えできねえなんてよ」
「冗談じゃあすまされねえぜ、彪太」
冷厳な無表情に変わった武彦が、静かに言った。
唐突に、笑いがやんだ。
濃密な静けさを、険を含んだ声音が破る。
「無論、冗談なんかじゃねえさ、武彦」口調には、殺気が充ち溢れていた。「無
論、冗談なんかじゃあねえとも。なあ武彦、てめえの方こそいい気になってるんじ
ゃねえのか、ええ? たしかに浄土翁の強権が効いている今、表立っててめえを狙
う奴ァいねえ。だがな、てめえが里抜けをした事実はまちがいねえんだぜ。東安様
の決定に異を唱えるつもりはなくとも、おもしろく思ってねえ奴も一人や二人じゃ
ないだろうさ。富士の樹海でてめえに兄貴を殺されたこのおれも、当然な」
無言で、武彦は樹間に目をやった。
「忘れるなよ、武彦。てめえの背後にゃ、刃を突き立ててやろうと隙をうかがう
視線が四六時中張りついてるってな。てめえの命と引き替えなら、長老どもの拷問
なんざ屁でもねえんだ」
「わかってるともさ、彪太」
抑えた声で、武彦は答えた。
その顔には、笑みが浮かんでいた。
獰猛きわまりない、野獣の笑みが。
その凄絶な顔に、彪太は心底、怖気をふるった。
返り討ちにしてやる、と、微笑は語っていた。苦もなくひねり殺してやる、と。
顔面からすうと血が引いていくのを覚え、舌打ちをする。
「へ、せいぜい気をつけるこったぜ。血のつながりさえねえ化物じみた妹のため
に、てめえは一族の半分を敵に回したんだ。きさまの寝首をかいてやろうって狙っ
てんのは、なにもおれだけじゃ――」
今度は、影さえ奔らなかった。
きらりと、なにかが武彦の胸元で閃き、ほぼ同時に立ち並ぶ樹林の間から押し殺
した悲鳴が上がる。
そして、左耳をおさえた小柄な人影が樹上からどさりと落ちた。
下生えの奥からくう、とうめきが揺らめき上がる。
「ピアスの穴には大きすぎたか?」氷のごとき呼びかけが、今度こそ彪太の心胆
を凍てつかせた。「片耳だけってのもシャレててよさそうだが、いかんせんバラン
スが悪い。ためしに、もう一度妹の悪口を言ってみろよ。左右のつりあいを整えて
やるぜ」