#901/3137 空中分解2
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影の棲む館(16) 青木無常
★内容
金属質の大蛇が頭上から右手方向に流れていくのと入れ違いに、粘液に濡
れ光る内臓が視界に入った。
グロテスクにデフォルメされた、子宮だった。まるでそれ自体がひとつの
生き物ででもあるかのごとく、うねうねと蠕動しながら外子宮口から汚物に
まみれた自己複製品を次々に吐き出していく。
下方からは渦状星雲が回転しながら上昇しつつあった。水音を上げている
のは、その星雲の構成物質が通常のものではあり得ないからなのか。
汚怪なヘドロの湖が心臓のような鼓動を続けながら眼前をかすめ過ぎてい
く。無数の虫を踏みつぶす時のような生理的嫌悪感を誘う鼓動音を立てて、
拡散し、収縮し、時にその広げた触手を鼻先にかすめさせて。
すべてが、あの南条隆行の奇怪でおぞましい芸術世界の創造物であった。
ゴムの塊を思わせる奇怪な触手が、球状に武彦のまわりを取り囲んだ。汚
怪な粘液を拡散しながら、ぐねぐねと茎を震わせる。ここでは、空間自体が
不定形にねじくれているようだ。歪み、渦を巻き、その色と背景を千変万化
にうつろわせていく奇怪極まりない異空間――そもそも、ここはどこなのか?
なぜ、武彦はここにいるのか? そして――彼をここに誘ったものの正体は?
「野郎」低いつぶやきは、そのまま物理的な圧力となって世界を揺るがせ
た。「予想外の力だ。まさかこんなところに連れこまれちまうとはな――」
流されるままに、まさに漂っているより他に方法はなさそうだ。身体はほ
とんど動こうとはしなかった。移動しようにも、大地からの反動など一切存
在しない。気流のようなものはあるようだが、それを利用するにはあまりに
も実体の希薄な代物だ。取れる方法はふたつ。ただ気流にまかせて漂い、奇
怪な創造物が牙を剥いて迫ってくるのを甘んじて待つか、あるいは無駄と知
りつつ不様にもがきながら同様の運命が訪れる時を待つか。
――武彦は、そのどちらもとらなかった。
懐剣を腰のベルトに突き立てると、自由になった両の掌をゆっくりと前方
に突き出し、気を送った。
すいと、身体が移動した。
「なるほど」
仮定は、ほぼ確信となった。
目を軽く閉じ、意識を四方に散らした。
同時に、光景が変化を見せた。
武彦の姿がゆらりと震え、その輪郭がにわかに曖昧となる。
そして、本来肉眼ではとらえ得ないはずの意識の波が、白光となって放射
状に広がっていった。
轟音が響いた。
と同時に、世界そのものが激しく震動した。大地震なみの衝撃。ただし、
震動それ自体は地震の比ではない。震えているのは、空間自身なのだ。
粘液の波涛が渦を巻いて湧き上がり、閉ざされた震える空洞と化して武彦
の四囲を侵食した。振動する汚水の壁を突き破って、巨大な鎌首をもたげた
蛇が次々に現われる。
無数の大蛇は、牙を剥き出しにして一斉に襲いかかってきた。静止する腕
を薄紙かなにかのようにやすやすと突き破って、口腔から、あるいは眼球を
食い破り、血に飢えたピラニアのように群がって次から次へと体内に侵入し
ていく。
穿たれた傷口から血と臓物が飛び散り、うねくる異空間に四散する。飛沫
とともに異様な悪臭をともなった煙が噴き上がった。
からみつき、内臓をかき乱し、胸板を、腹を、喉を突き破っては再び体内
に侵入する。武彦の肉体が残骸と化すまでに、数秒とかからなかった。
その時、翻弄され、輪郭を崩した武彦の姿が一瞬、解体寸前の霧のように
四散した。
薄れていく身体に置き去りにされ、粘液に濡れ光る蛇の群れは戸惑ったよ
うに虚空に取り残されて四散した。
ひょう、と風が鳴った。
澱んだ臭気を吹き払う一陣の涼風に、のたうつ粘液の壁が後退した。
と同時に、霧と化した武彦の身体が、凝縮され、瞬く間に復元していった。
「あぶねえ」つぶやきには、さほどの緊迫感は含まれていない。「油断は
できねえな。ここは奴の世界だ」
再び四囲を探る。今度は、意識の波を放射させるようなへまは避け、探る
ようにして慎重に繰り出した。
おーおーおーおー……
彼方から幽かに、異音が響いてくる。邪悪な憎悪に充ちた、呪咀の響き。
奇怪な創造物は影をひそめた。かわりに、もっと得体の知れないものが生
まれ始めていた。
泡だ。濃密な質量を伴った泡が、漂流する武彦を取り囲むようにして幾つ
も、幾つも、はじけては消えた。妖魅の発するつぶやきのような異妖な音を
立てて、極才色のスパークを四方に飛び散らせている。
その飛沫のひとつが、武彦の腕にすいと触れた。
苦鳴をもらさずにすんだのは、人知を越えた苛烈な鍛練による自制が働い
たからに他ならない。常人であれば、絶叫を絞り出しながらのたうちまわら
ずにはいられなかっただろう。はじけるマグマの熱を、その飛沫は内包して
いたのである。
付着した液体はじゅうと音を立てて蒸発し、その下から焼けただれて肉の
剥き出しになった皮膚が現われた。
武彦は、わずかに眉をしかめてみせただけだった。
「ひでえことしやがる」
つぶやき、目を閉じて意識を収束させた。
ふいに再び、武彦の輪郭があやふやになり、そして次の瞬間には復元して
いた。
傷跡もまた、きれいに消失している。
「からくりは解けた。もう子どもだましは通用しないぜ」
虚空に向けて、挑むように言い放つ。
うああああああああああああああ〜〜〜〜ああおおおお――
応えるように呪声が響いた。
そして、異臭が充満しはじめた。
重く澱んだ空気が、身体の芯から熱を奪っていく。苛立つように気泡が次
々に弾け飛び、マグマの熱量をもった飛沫が周囲を交錯した。
見えざる妖気の主が今までにも増して強烈な波動を放ち始めているのだ。
「やばいなあ」
つぶやき、武彦は四囲に気を向けた。
光の粒子がゆっくりと飛び、暗黒をぬって世界を探索する。
「いたか」
目を閉じたままつぶやき、移動を開始した。
ぼんやりとした武彦の姿が、不意に目映い光輝に包まれた。
空間が、警戒も顕に球状に収束する。
肉の壁が、光の粒子に包まれた武彦を取り込み、うす汚い湿った音を立て
ながら縮み始める。
その時ふいに、武彦の全身を鎧った光の粒子が電光と化した。
瞬間、光球はまぶしく輝く光の矢となって肉の壁を突き破り、異空をあざ
やかに飛翔し始めた。
異世界が狂おしく身悶えた。空間が、それ自体ひとつの生き物ででもある
かのように激しく痙攣し、次の瞬間、体内に侵入した異物を取り除く生体機
能の歪んだカリカチュアが展開された。
毒素――生体への侵入者たる武彦を排除すべく放たれた白血球を形容すべ
き言葉はただひとつ。すなわち――鋭利な刃をその先端に円状に配した蛆虫
の大軍。
うす汚い粘液を飛び散らせながらぶよぶよと身をくねらせ、それらは一斉
に光の矢めがけて群がり寄った。
ぷち
先頭を切って強襲した一匹が、おぞましい音を立てて弾け飛んだ。
ぷち、ぷち、ぷち――
汚汁を四方に巻き散らして、虫の大軍は光球に触れる端から無残に解体さ
れていく。
呪声とも、苦鳴ともつかぬ声音が異世界をどよもし、再び隆起した肉の壁
がトンネル状に武彦を包囲した。無数の繊毛がぞろぞろとうねくりながら出
現し、一点に凝集した。すなわち、武彦の侵攻する先端に。
光球がすばやく旋回し、急襲する触手を跳ね飛ばした。
前進を阻むものは、もはやなにもない。輝く光の矢はそのまま一直線に異
界を縦断した。
その前方に、小さな黒点が現われた。
接近するにつれ、それは人の形を明確にしていく。
凶々しく渦巻き流れる異空間に翻弄されるままに漂う裸形の人影は、まぎ
れもなく葉子であった。
まだどこかに幼さの片鱗を残しながらも、葉子の裸身は美しく優雅なライ
ンを描いていた。
長い黒髪は、いかなる物理法則によるのか、気流に逆らってあらぬ方にな
びいている。目を閉じ、全身は力なく弛緩していた。
漂流する葉子の前にたどりついた光球が消失し、その下から武彦の身体が
復元した。
「葉子」
呼びかけながら武彦は、固く目を閉ざした少女に気を送った。
小さくうめいて、葉子は目を開く。
「武彦さん……」
「気分はどうだ」
訊きながら手をさしのべようとした武彦の脳裏に、声が届いた。
――兄さま。
「ゆかりか」手を差し出した姿勢のまま武彦は言った。「どこにいる?」
――そこじゃない。
声が答えた。