#894/3137 空中分解2
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影の棲む館(9) 青木無常
★内容
おおおおおおおおおお――
地の底から湧きあがる呪咀のうめき声が、夜の闇を席巻していた。
悪夢よりもなお重く暗いその声は、《南条邸》の隅々にまで沁みわたろう
とするごとく、陰惨に、どす黒く、響きわたる。
秀明も千種も、その声を聞いていた。
眠れぬ一夜になりそうだった。朝になって、朦朧とした頭をふりふりベッ
ドから這い出したとき、武彦たち兄妹が苦悶の表情で心臓を停止させている
という、おぞましい光景が脳裏にこびりついて離れない。
そして自分たちにもまた、見えざる主の退散した赤煉瓦の屋敷を晴れやか
に見上げる日など来ないのではないか、いや、生きてこの館を出ることさえ、
できなくなるのではないか――そんな不吉な予感さえ、幾度となく夫婦の脳
裏を去来していた。
もう、数え切れないほど見せつけられてきた悪夢だった。
腐食性の酸のごとく、精神の深奥へと直接的に浸透してくる奇怪にして凶
々しい声に悩まされながら、まんじりともできずに夫婦は、長い不安な夜を、
ただやり過ごすことしかできなかった。
おおおおおおおおおお――
武彦とゆかりもまた、その呪声を耳にしていた。
のみならず、間を置かずにジャブをくり出してくるポルターガイストに悩
まされていた。
――否。
悩まされていた、という部分を訂正すべきだろう。
「ようよう、高い高い」
潜りこんだ布団ごと、ゆかりがゆっくりと空中に浮遊していくのを眺めな
がら、武彦がはやしたてた。
「それがんばれ。もう少しで天井だぞ」
「兄さま、他人ごとだと思って無責任なこと言わないでよ。つぶされちゃ
ったらどうすんのよ」
と抗議するゆかりの口調にも、緊張感はまるでない。
「おまえならペチャンコにされても大丈夫だろう。半日もすればもとに戻
っちまうんだからな」
「気楽にゆー。頭がつぶされたら、もとには戻んないかもしれないのよ」
「試してみろよ。いい機会じゃねえか。おれは戻るほうに賭ける」
「ひどーい――きゃん」
糸がぷっつりと切られたように落下したゆかりに、武彦は遠慮のない笑い
声を浴びせかけた。ひどいひどいと文句を言いつつ、ゆかりもまた笑ってい
る。
兄妹は、ポルターガイストを、こともあろうに遊園地かなにかのように楽
しんでいるのであった。
躍起になったように怪現象が続く。しかし、兄妹はまるでこたえる風もな
く、布団が突然すべり出せば「おう、わははこりゃ楽しい」置物が強襲をか
ければ「カーン、ホームラン」ぱかん! などと楽しげに応対するばかりで
あった。
そんな二人にさすがに根負けしたのか、おちょくられて怒り狂うようにく
りかえされた超常現象もやがて、ぴたりと静まりかえってしまった。「おい
おい、もう種切れかよ」と挑発をかけても乗る気配は見せず、冥府からのう
なり声だけが残った。
と見るや、武彦はがらりと口調を変えた。
「どう思う」
「うん……」
「屋敷に憑いているのは、人間の霊じゃない」
「うん。動物霊でもないみたいね」
「ああ。だとすれば、なんだ?」
「うーん……」
「妙に無機的な感じがするんだが」
「そうだね。生きものって感じが全然しないのよね」
「“もの”の気に近い雰囲気だな」
「うん」
「木石に猛悪な邪念を加えれば、これと同じになるかな」
「うーん、よくわからないなあ。でも兄さま、見当ぐらいはもうついてる
んじゃない?」
「うーん……」
要領を得ない返答だった。
柳瀬家の通夜の席を立ち、個人秘書の中山とともに南条邸に関する資料を
検討した時、武彦の脳裏に有力な容疑者として刻みこまれたのは、いうまで
もなく南条秀太郎の第三子、隆行であった。
屋敷にこもりがちな画家志望青年の写真から感じ取られた雰囲気は、たし
かに隆行の妄執の強さを暗示していた。昭和三十四年に芦屋界隈を恐怖のど
ん底に叩き落とした少女十三人の連続惨殺事件の容疑者にあげられている事
実も強力だ。結局犯人は検挙され、南条隆行は無罪という形で事件は解決さ
れた形になってはいるが、精神異常者と断定され病院送りとなった犯人は当
時「おれがやったのは七人だけだ」と主張していたという非公式の記録もあ
る。そして、犯人が検挙される以前から南条隆行が失踪していたという事実
……。
さらに決定的な要因として、翌年の秀太郎の急逝に始まる家族のあいつぐ
心臓発作による急死。三十五年、父・秀太郎、五十五歳。三十七年、兄・和
彦、三十四歳。そして四十年、兄・照信、三十六歳。ちょうどそれらと相前
後して、和彦、照信の妻子ともに全滅しているのである。死因はいずれも心
不全。
柳瀬もまた、この南条隆行にスポットを当てていたらしい、と中山朋子は
武彦に語った。隆行に関する詳しい資料を引き続き集めるよう要請する電話
を、中山も傍らで耳にしていたのである。
が――これだけの材料がそろいながら、武彦は憑霊の正体を隆行とは断定
できずにいた。それは、この館に憑いている噴きつけてくるような妄執に、
有機的な念を微塵も感じることができなかったからに他ならない。
「感覚としては、水子霊の気に通ずるところがあるな」
「うん。でも、それとも違うような気がするのよね」
「ああ。違うな」
それきり、しばらくの間、沈黙が続いた。
それを断ち切ったのは――
パシッ
――鋭く響きわたったラップ音であった。
「来たわ」
ゆかりが言った。
「なんだ、知らなかったのか」軽く武彦が受けた。「さっきからずっと、
おれの上にへばりついてるぜ」
「あら」
と言って、ゆかりは武彦に視線を向けた。
ゆるやかにラインを描く美しい眉が寄せられ、淡い色の瞳が透かし見るよ
うにこらされる。
「ほんと。気がつかなかったな」
その視線が、武彦の布団の上にとらえたのは――黒い気の塊であった。
人型、と取れる。薄気味悪い黒い霧が武彦の胸の上にのしかかり、その右
手を差し出している。
武彦の心臓に。
「ずっとそのままで?」
さして心配している風もなく、ゆかりが訊いた。
武彦はうなずいてみせた。
「やせがまんしちゃってさ」
からかうようなゆかりの口ぶりに、武彦は苦笑した。
「くそ、逆襲されたか」
「たまにはね」ゆかりはにっこりと笑い、その華奢な手を武彦の胸にそっ
とのばした。
「さっき葉子ちゃんに気をあげすぎたのね」いたわるように、優しく言っ
た。「あたしの気をあげるから、無理なんかしなくてもよかったのに」
「悪いな」
武彦は言い、のばされたゆかりの手に視線を向けた。
快い、かすかに熱を伴ったものが、やわらかなパルスとなって注ぎこまれ
た。
黒い霧状の霊体が、もがき苦しむように全身を激しく震わせた。
のたうち、苦悶に喉をかきむしる仕草を見せてから、霧は四散した。
ふう、と武彦は息をつく。
「助かった。これで明日の朝飯までは、なんとか保ちそうだ」
「晩御飯、すごく豪華だったもんね」笑いながらゆかりもうなずいた。
「もし死んだら、化けて出てこなきゃ」
「大食娘。おまえの食欲にゃ、みんな目ェ丸くしてたぜ」
「いいでしょ。育ちざかりなんだから」
「限度ってもんがあらぁ」言って、武彦はその笑顔をふと曇らせ、「泣い
ているみたいだ」
「うん」
地獄からの呪咀の声は、その言葉に同調するかのように、ひときわ激しく
慟哭をくりかえした。
兄妹の闇を見つめる瞳の奥に去来したものは――悲哀と、そして憐愍では
なかったか。
おおおおおおおおおおおおおお――
哭き、哀しみ、この世に生きるすべてのものを憎悪し呪う声は、葉子の耳
にも届けられていた。
そして、別の声も。
――出……セ……!
――出…セ!
――オレヲ…ココカラ出セ!
どうして?
少女の心の中で、悲痛な叫びが問いかけた。
どうして? どうしてわたしをこんなにも苦しめるの? もう厭。お願い、
わたしを苦しめないで! もうわたしに構うのはやめて!
――オマエダ!
声が宣告した。
――オマエダケガ、オレヲココカラ出スコトガデキルノダ! 暗ク四角ク
狭苦シイココカラ、オマエダケガオレヲ出スコトガデキルノダ!
――出セ!
――出セ!
――オレヲココカラ、出セ!
(続)