#892/3137 空中分解2
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影の棲む館(7) 青木無常
★内容
次から次へとこぼれ落ちてくる涙が、数え切れない哀しみをその胸の奥に
あふれさせていった。
同じだった。
だが、まったく違ってもいた。
自ら望んで得たわけでもない力が、人を遠ざけてきた。自分となんら変わ
らぬはずの、友が、師が、両親が、まるで奇怪な異種を見るような視線で自
分を見る。
ときに同じ年ごろの少年少女たちに受けるいわれのない迫害は、いまにな
っていよいよその激しさを増している。どう弁解しようと彼らは、自分を理
解しようとさえしてくれない。彼女の家を訪れた友達の多くは、それ以後は
二度と来ることはなかった。強ばった笑みと哀れみ、そして深奥に恐怖を隠
したさげすむような冷たい視線。
今でもよく覚えている。一年前のことだ。桜吹雪の下で、同じクラスの女
生徒に取り囲まれ、思いやりのかけらもない言葉の暴力を浴びせられた。
理由のない迫害には慣れていた。身体を傷つけられ、屈辱的な罵倒を受け
ることには。だが――心の底のどこかで、小さな希望が生き続けていたのか
もしれない。新しい土地では、新しい学校では、と。
それが入学して一週間と経たずに破られた。葉子を取り囲む顔の中には、
入学式の日に楽しく語りあった顔も含まれていた。友達になれたと思ってい
た顔だった。
少女の心は泣きぬれた。だが、その涙を顔には出さなかった。決して涙は
見せまい――そう心に誓っていた。
哀しい誓いだった。
そうして、十五年間を生き続けてきたのだ。明日こそは――そんな、はか
ない希望に胸こがれながら。
深く傷つきながら、なおもあきらめることのできない哀しみが、今、涙と
なって抑えようもなくあふれ出してきたのである。
幾度も、幾度も希望に裏切られて、なおあきらめることのできない衝動が。
そして今、そんな葉子をその胸に優しく抱きとめて、しなやかな白い腕が
あやすようにして長い黒髪を撫で下ろしていた。
涙にぬれた目で、葉子はゆかりを見た。
そのちいさな身体が、ゆかりの腕の中で小刻みに震えていた。
人の力をはるかに超えた、気高く美しい野獣の双眸。
そこには、誇りがあった。
そして、そのさらに奥には、哀しみも。
隠された哀しみではなく、抑えられたものでもない。
運命を受け入れ、それに立ち向かう勇気を得たものだけが持つ、平穏で暖
かい哀しみであった。
「よかった……」
小さく、つぶやくように言った。
「ゆかりさんに会えて、……よかった」
嗚咽の間に間に、やっとそれだけを口にした。
ゆかりの体温が、暖かく葉子をつつみこんだ。ゆっくりとした息づかいが、
やわらかい胸の上下となって快いリズムを刻む。
不思議な感覚が葉子の胸に満ちていった。
葉子にとってゆかりは、今日初めて出会ったばかりの見も知らぬ他人だ。
それが、今までずっと忘れていたはずの、深いやすらぎを思い出させてく
れる。その微笑を一目見ただけで、心の中に熱い、哀しみにも似た快いもの
がその両手を広げているのを感じることができるのだった。
傷だらけの胸のなかに、新しい希望を見つけた。
ゆかりのように、強く生きることもできるのだ、と。
そして、ゆかりが妬ましくもあった。
武彦がいるからだった。
武彦がそばにいるから、ゆかりも勇気をもって生きられるのだと思った。
その妬ましさも含めて、葉子はゆかりに会えてよかった、と思った。
否。
ゆかりに、ではない。
会えてよかった。このひとたちに……。
慈母の腕のなかにその身をまかせて、葉子は、心の底にわだかまっていた
ものが氷解していくのを覚えていた。
「がんばったね」
ゆかりの、澄んだ声が心地よく透きとおっていった。
「明日からも、がんばれるね」
その言葉が、新たに涙を誘った。
もう哀しくはなかった。
いくらでも泣けてきた。いくらでも、涙があふれ落ちてきた。
そのまましばらくの間、葉子はゆかりの腕の中で、静かにむせび泣いた。
「さ」涙にぬれた感傷を思い切りよく断ち切るようにして、明るい声が言
った。「兄さまが帰ってくる前に、心身ともにきれいにしておかなくちゃ。
勝負は、これからよ」
見上げると、明るい笑顔が輝いていた。
涙をふいて、葉子も微笑んでみせた。
「あたし、顔を洗ってきます」声が明るくはずんでいた。ずいぶん昔に置
き忘れてきた明るさだった。「こんなに思いっきり泣いたの、ひさしぶり」
明治四十二年建築の《南条邸》は、明治政府が設定した西洋医、南条清三
郎が診療所兼住宅として開設したものであった。
通夜と葬式の準備でごった返している中を、柳瀬の個人秘書をしていた中
山朋子の好意で捜し出してきた資料によると、秋月家が現在所有している西
洋館の由来は、そういうことになっている。
柳瀬が私立探偵の友人に頼んで調べあげさせた資料は、きわめて詳細なも
のであった。南条清三郎に始まる五十年近くにわたる南条家の当主、家族の
略歴から、ごく個人的なエピソードに至るまでが事細かに網羅され、一九六
四年、南条家が洋館を手放してからの買い手と、彼らがそれを手放した理由
にまでも言及されている。
それによると、館は人手にわたってから二十数年、三度にわたって売りに
出されている。最初の買い手は増田某、一九六四年末に入手して五年間、こ
の館を別荘として利用した。ところが実際には、三年目には持ち主はぷっつ
りとこの別荘には訪れなくなっている。次に買い手がついたのは七一年。こ
れも一年を経ずして住人は館を去っている。三人目の所有者もまた、手放し
た時期はほぼ一年目だ。
そして、四人目にこの《南条邸》を手に入れたのが、秋月秀明。
奇妙なのは、南条家がこの館を手放した理由だ。五十数年、三代にわたっ
て受け継がれた屋敷を相続人の南条照信が売りに出したのはよしとしても、
その後一族が逃げ出すようにして関西から姿を消したのはどういうわけか。
三代目当主、南条秀太郎には三人の息子がいた。長男の和彦は清三郎、順
造と受け継がれた医師の血を、一代飛び越えて継ぎ、一時期は閉鎖されてい
た医院を再開している。次男が照信、三男は名を隆行といった。この隆行は
昭和三十四年にその消息を断っている。エリートコースを歩む二人の兄に比
して、定職も持たず志望していた画家への道も開けぬまま、日々を館にこも
って過ごしていた、ということだが、記録によると三十四年に起きた猟奇的
な連続殺人事件の容疑者の一人に数えられていた。それと相前後しての蒸発
である。当時二十六歳。
そして翌三十五年、父、秀太郎が他界した。死因は心不全。享年五十五で
ある。二年後には和彦も三十四歳で急逝。これも死因は心不全。
相続という形で一人館に残った照信は、翌年放り出すようにして屋敷を売
却し、東京に移住。それも軌道に乗り始めた事業を天から放り出しての上だ。
そして昭和四十年、三十六歳で没している。死因は――やはり心不全。
幽霊屋敷の奇怪な歴史は、この三人の兄弟の不可解な生死に端を発してい
ると見てまちがいあるまい。だが、それはいったい、いかなる形で――?
5
武彦が《口寄せ》の場に選んだのは、一階にある家族の居間であった。
邸内でももっとも多くの家具や調度品でうめられたこの部屋を交霊の場所
に当てた選択は、すべての家具を取り除けた上で除霊に臨んだ柳瀬とは対照
的な判断といえる。
霊媒をつとめるのは、ゆかり。
一見、ごく平凡でどこにでもいそうな十代の少女としか見えないゆかりが
《口寄せ》という儀式においてもっとも重要な役割を与えられた事実は、秀
明や千種に不安と違和感を与えずにはおかなかった。が、外見からは想像し
がたい武彦の実力を垣間見ている以上、あえて異を唱える気にはならなかっ
たようだ。まして葉子は、兄以上に得体の知れないゆかりの一面を目のあた
りにしている。
「あたし、霊媒でも巫女でもないんだけどね」部屋に入る前、ゆかりは葉
子にそうこぼしている。「今夜の口寄せもうまくいくかどうかしれたもんじ
ゃないな。でも、葉子ちゃんに霊媒をやってもらうわけにもいかないし、兄
さまについて歩いていると、こういうことって少なくないのよね」
だが、そんなゆかりの言葉も、葉子に不安を抱かせるには至らなかった。
なにが起こるにせよ、ゆかりがいれば大丈夫という信頼感を、漠然とだが抱
いていたのだ。
《口寄せ》――地方によって名称は異なるが、一種の交霊術である。神霊、
生霊、死霊などの超自然的な存在を霊媒などに宿らせて交信を試みることを
さす。通常、こういった交霊術にはものものしいほどの小道具や儀式が必要
とされるのだが、武彦とゆかりの場合は特殊な道具立ては一切必要としてい
ないらしい。ただ応接セットからテーブルを取り除いただけで、準備段階は
すべて終えてしまった。