#760/3137 空中分解2
★タイトル (GVB ) 91/ 2/ 4 22:38 ( 60)
大型百人一首小説 「三秒」 ゐんば
★内容
喜三郎は姿勢をただし、読み手の声に神経を集中する。最初は……?鼻子音だ。
「n」
八つの歌が頭に浮かぶ。
ながからむ (長からむ心も知らず黒髪の
乱れて今朝は物をこそ思へ)
ながらへば (長らへばまたこの頃や偲ばれむ
憂しと見し世ぞ今は恋しき)
なげきつつ (嘆きつつ一人ぬる夜の明くる間は
いかに久しきものとかは知る)
なげけとて (嘆けとて月やは物を思はする
かこち顔なる我が涙かな)
なつのよは (夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを
雲のいづこに月宿るらむ)
なにしおはば(名にし負はば逢坂山のさねかづら
人に知られでくるよしもがな)
なにはがた (難波潟短き芦の節の間も
逢わでこの世を過ぐしてよとや)
なにはえの (難波江の芦の仮寝の一夜ゆゑ
身をつくしてや恋わたるべき)
次の母音が「a」であることは明白。問題は、その次の子音が「ts」だった
場合である。一瞬「夏の夜は」の札に視線を流す。
「a」
当然相手もこの後の子音への変化をうかがっているはず。次が破裂音となるの
は「夏の夜は」だけであり、鼻音の「η」、「n」とは明確に区別がつく。破裂
音なら一瞬いま発音されている「a」の後に切れ間ができる筈である。が、どう
やらその一瞬の空白はない。どっちだ。「が行」か、「に」か。
「η」
一瞬迷う。「n」と似ているが、鼻濁音の「g」だ。となると次の母音だが、
「i」や「u」なら割と子音自体がはっきりと違ってくるのだが、あいにくこの
場合は後ろは「a」または「e」である。喜三郎には子音だけでは区別をつけら
れない。
「a」
一瞬気をゆるめる。読み手は二音目を長くのばす。これが「e」だったら、次
の文字は「き」か「け」で子音こそ同じだが、母音の違いによって延ばしている
「げ」の終わりの部分が、後ろの音の口の形に引きずられて変化してくる。
「ー」
この場合は「a」だから、次は「か」か「ら」である。逆に口の形は同じだが、
子音が「k」と「r」ではっきりと違う。「a」の音が終わる一瞬前、読み手が
「r」を発音しようと舌を歯茎の裏に動かす瞬間、あるいは「k」を発音するた
めに舌を奥に動かす瞬間。どちらにしてもそこが勝負になる。
「a」の音を引き延ばしている読み手の声に集中する。
「ー」
喜三郎は手を伸ばす。
「r」
札が宙に待った。
「a」
喜三郎と相手の指の先には「うしとみしよそいまはこひしき」の札がある。
「e」
喜三郎はその札を拾い、自分の脇に置く。
「ー」
飛び散った回りの札を元に戻す。
「b」
飛び散った回りの札を元に戻す。
「a」
飛び散った回りの札を元に戻す。
「ー」
とりあえず、百分の一の戦いが終わる。
[完]