#757/3137 空中分解2
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中野原に雪の降るとき(5) YASU
★内容
案ずるよりなんとやらで、隆志は最初の印象とちがって、気さくな人間で
した。ただ、彼は初めに自分から言ったように、仲間に干渉しないかわりに
自分に関わられるのをいやがりました。それは創作活動についてだけではな
く日常生活もそうで、仕事がすむと、それじゃあこれで、とさっさと自転車
に乗って帰っていきます。でも悪びれたふうなく思ったことを言ったりした
りするもので、和也も透も初めはあっけにとられていましたが、すぐに隆志
のやりかたに彼らのほうが馴れてしまいました。窯出しのあとのミーティン
グなどには彼はむしろ積極的に発言しました。彼の意見は奇抜で思い切った
ものが多かったけど、なかなか的を得て適確だったので、武智さんも和也も
いつしか彼の意見を買うようになっていました。はじめは隆志の自分勝手な
やり口に反発していた透も、もともと細かいことにこだわらない性格だった
ので、隆志と同じアパートに住んでけっこうなかよくやっていました。
隆志が加わって半年後に、隆志の高校時代の友人で、本当は自分も同じ美
大に入りたかったが、家庭の事情で大学進学できず、京都の窯元で焼物の修
業をしていたという守が隆志の紹介で私たちのメンバーになりました。
和也は自分たちのグループに「λの会」という名をつけて、年一回作品展
を開くことと、将来ニューヨークとロスで作品展を開くことを自分たちの目
標にかかげました。
和也たちが窯に火入れをして泊まり込みを始めた初夏のある日の夕方、ジ
ョーダンが私を訪ねてきました。
その日の彼はずいぶん疲れているようにみえました。いつもは子供のよう
に大きな目玉をきょろきょろさせて、和也が面白半分に作ったゴリラの置物
や、私が浜辺の漁師の家からもらってきた漁網とウイスキーの瓶で作った壁
掛けーーというより雨漏りでできた壁のしみをカモフラージュするためのも
のなのですがーーなどを珍しそうに見回すのに、その日は和也が愛用してい
る藤の肘掛け椅子にもたれこむように座りました。
「じつはミカ、一人の信者のことでちょっと厄介があってね」
彼は少しばかり不機嫌そうでした。
「その女性はこれまでも何度か私を困難な目に合わせてきたのだが、問題な
のは彼女なのではなくて、K教会のランク神父なのです。彼女はもともとK
教会に通っていたのですが、五年前ご主人の転勤でAへ来てからは私たちの
教会へ来ています。彼女は教会を自分の思うように取り仕切ろうとするもの
で、ほかの古い信者たちとうまくいかないのです。彼女はしょっちゅう教会
の行事のことでごたごたを起こし、自分の言い分が入れられないとランク神
父に長い電話をかけて、A教会のやりかたがいかに神の御心に背いているか
を訴えるのです。こういう人はどこの教会にもいるものです。でもランク神
父は彼女の言い分をうのみにして、神父会のときに私のとった態度を問題に
します。私がどのように説明しても彼は理解しようとしないのです」
キリスト教徒でもなく、キリスト教に関心もない私には、彼の言う問題が
どのようなものか分からないので、別にあいづちを打つわけでもなく、クッ
ションを抱え込むようにして彼と向かい合って座ったまま話を聞いていまし
た。私はそのときジョーダンが酒に酔っているのでないかと思いました。吐
く息がかすかに臭っていましたし、彼の目はいつもとちがって、とろんとう
るんでいるようにみえました。
以前サキさんがこんなことを言っているのを思い出しました。
「うちの神父さんはね、私が帰ったあとでウイスキーを飲んでいるみたいな
のよ。飲んでいるところを見たわけじゃないけど、ある日私が朝早く出掛け
ていったら、彼は二階の自分のベッドではなくて台所の隣の部屋で寝てい
て、テーブルにウイスキーの空瓶とグラスがころがっていたの。私が入って
いくと彼、あわてて瓶をくずかごに入れて、二階へ行ってしまったけどね。
これまでお世話した神父さんでお酒を飲む人などいなかったのにね」
私はカトリックの神父が酒を飲んではいけないという戒律があるのかどう
か知らないし、そんな戒律があったとしても、ジョーダンがウイスキーを飲
んだってかまわないんじないのって思っています。神父だって酒を飲みたい
気持ちになることだってあるでしょう。でも言葉も習慣もちがう異国の、し
かもこんな片田舎に宣教師として派遣されてきて、酒を飲んで晴らさないと
いけないような憂さがあるとすれば、私はジョーダンに同情します。もしか
すると、私はジョーダンのことを誤解していたのかもしれません。日本や日
本人のことを好いていて、Aを自分の第二の故郷だと言い、三浦綾子の小説
をこつこつ英語に訳して将来アメリカで出版したいと言う彼を、私は単純に
日本びいきのガイジンとして見ていたのかもしれません。
彼がミッショナリーとしてどうして日本へ来ることになったのか、訊いた
ことはありませんでした。それが彼自身の意志であったのかどうかも、彼は
話しませんでした。でも、私が考えていたほど、彼は日本が好きでやってき
たのではないかもしれません。
ジヨーダンは急に黙りこくってしまいました。私は、彼が自分のしゃべっ
たことがカトリックの神父としてふさわしくないことだ、と後悔しているの
だろうと思いました。そんなことなら私はクリスチャンでないのだから気に
することはない、と彼に言ってあげようかと考えて、彼の顔を見ました。そ
のとき、彼はあおざめた顔色をして睨みつけるような視線で私をみつめてい
ました。私は彼がまた心臓の発作を起こすのでないかと思いました。彼の巨
体が私の方に倒れかかってきたので、てっきりそうだと思い、抱きとめよう
としたら、彼の唇が私のに押し当てられ、抱きすくめられて私は自由を一瞬
失ってしまいました。彼の荒い息からはかすかですが、やはりアルコールの
臭いがしていました。私は顔を激しく左右に振って逃れようとしました。
「ミカ、私はあなたのことが好きです。こんなことを言ってはいけないこと
は、よく分かっています。でも、好きなのです。私はカトリックの神父です
から、誰とも結婚はできません。でも、神父が女性を好きになってはいけな
いでしょうか。お願いです、お願いです。一度だけ、一度だけ・・・」
私の中のどこかに彼への同情の気持ちはありました。しかし、かれが哀願
すればするほど、私は彼を受容れることができませんでした。もし彼が何も
言わずに私を奪おうとすれば、私は彼を許したのかもしれません。どこかで
彼は迷っているのだという気がしてなりませんでした。とうとう私は彼の体
から逃れて、なおも迫ってくる彼のたるんだ頬を思いきり右の手の平で叩い
ていました。ジョーダンははっとして私を見ました。その目は大きく見開か
れ、私の方を見てはいましたが、私を通り越して恐ろしい何かを目の当たり
にしたかのようにおびえてみえました。
「Damn it!」
ジョーダンは呻くように言いました。
「Go to hell! 」と私はこころの中で思いましたが、さすがに
口に出しては言いませんでした。
彼は苦しそうな息づかいをして、ソファーに座り込みました。今度こそ心
臓発作が起こりそうでした。私の方は食器棚を背にして立ったまま彼を睨み
つけていました。
「ミカ、すみません。もうこんなことは二度としません。どうか座ってくだ
さい」
それでも私は立ったままでいました。ジョーダンは悲しそうに私をみつめ
ました。
「それじゃあ、帰ります。本当にすみません。約束します、二度とこんなま
ねはしません」 彼は肩を丸めるようにして帰っていきました。
和也にジョーダンのことを話そうか話さずにおこうか、迷いました。で
も、これからも教会の英会話教室を続けるのなら、ジョーダンと私の間の奇
妙な雰囲気に彼は気付くでしょうし、英会話教室をやめるのなら、その理由
を話さないといけないわけで、結局私はその日のできごとを夕食のときに和
也に切り出しました。
彼は黙って私の話を聞いていました。話し終えてもずっと黙っているもの
で
「どうしたの、怒ったの」と訊くと、
「抱かれてやればよかったのに」とぽつりと言いました。その言い方には嫉
妬も非難も、そしてジョーダンに対する哀れみもない、自然の成り行きとし
てそうなるべきだったのだという気持ちがあるだけでした。だから、そう言
われた私の方も腹立たしい気持ちは全然おこりませんでした。
「でも、あのときはどうしてもいやだったの」「そうか、それならしかたな
いな」
私はあのときだけではなく、和也以外の人とは絶対寝ないと思っていまし
た。
「俺たち、そろそろ結婚しようか」
和也はまるで日常のことを話しているように言いました。
「それジョーダンのことと関係あるの」
「ないよ。でもさ、そろそろけじめをつけてもいいのじゃないかと思って
さ」「なんだか、いまさらっていう気がするけど」「ああ、でももういいん
じゃないかって思うんだ」
「私は今のままでいいわ」
「ミカは子供欲しいと思わないかい」
「正直言って、欲しくないわ。それに和也にしたって、今赤ちゃんできたら
困るんじゃない」
「このごろ考えるんだけど、このままここで好きな焼物作って、一生いても
いいんじゃないかって」
私は何も言わずに和也の目を真正面から見ました。冗談なんでしょ、と言
いたかったけど、いや真面目な話だ、と言われたら後の言葉に困るので何も
言えませんでした。 遼がいなくなってから、和也の陶芸に対する情熱が薄
らいできたのでは、という気がしていました。私が和也について四国の南の
端まで来たのは、彼に何かを期待してではありません。でも、彼が焼物に寄
せる情熱に自分も引きずられてやってきたとは言えることと思います。和也
にしてみれば迷惑な話かもしれません。結婚を口にしたのも、こんな所まで
私を連れてきたということへの彼なりの責任の取りかたなのかもしれませ
ん。でも、私は彼に責任など取ってもらいたくないのです。
その日私は自分の方から求めて、汗の臭いがうっすらとする彼の胸に顔を
押しあてました。彼は黙って私の裸の背中を長いあいだ撫でていました。私
は自分が和也の胸で泣き出すのでないかと思っていたのですが、涙は出ず、
もし私が彼の子供を産んだらどんな子供ができるだろう、と考えていまし
た。
それからも私たちの毎日は取りたてた変化もなく過ぎていきました。ただ
竹の子の里ではタドン君をめぐって、ちょっとした出来事がありました。そ
れまで母親代わりに彼の世話をしてきた祖母が脳卒中で倒れ、彼の処遇が親
類のあいだで話し合われた結果、彼と彼の父を残して大阪へ行ってしまった
母親に面倒をみさせるのが一番いいということになり、父方の叔父が母親の
もとに交渉に行きました。渋る母親は、あんたも人の親ならここまで大きく
してもらった子供を、引き取るくらいはするのが当然だ、とせまられて、そ
こまで言うならと返事はしたが、結局は府の精神薄弱者施設にタドン君を預
けることにしたことが私たちに分かり、武智さんは激怒しました。武智さん
はタドン君の父親に会いに行き、彼を説得して今までどうり彼の手元にお
き、竹の子の里へ昼間通わせることを約束させました。