AWC 中野原に雪の降るとき(2)     YASU


        
#754/3137 空中分解2
★タイトル (UTJ     )  91/ 1/31  17:17  (173)
中野原に雪の降るとき(2)     YASU
★内容

 結局、私は竹の子の里ではミカねえちゃんと呼ばれることになり、ボラン
ティア一号になりました。私の最初の仕事は、焼物に使う土を子供たちと一
緒に掘りに行くことでした。土はこのあたりの窯元が共同で買い付けをして
いる土建会社に注文すれば、トラック一台分いくらということで買うことが
できるのですが、武智さんは土掘りから仕事が始まるということをみんなが
知らんといかんと言って、毎回スコップや鋤や竹箕など今時めずらしい農具
を持って山へ行かせるのです。
 途中までは奥に営林署の管理する杉山があるので、舗装された広い道です
が、そこから脇道に入り採土場に至る道は、ごつごつした岩がむきだしのひ
どいでこぼこ道で、リヤカーの舵をとる者も後押しする者もたいへんです。
とくに雨上がりのときは涌き水が小川のように坂道を流れるもので、舵とり
をするものが細心の注意を払っていないと、リヤカーごとみんなが崖を転落
することになりかねないのです。私は武智さんにそんな日は土を買うように
したらと言いましたが、彼はそういう点に関しては頑固でゆずりませんでし
た。
「見可子さん、この子たちがそんな器用に人生を渡っていけると思います
か。私はね、この子たちが不器用でもいいから、自分たちなりの生き方で生
きていけたらいいと思うんです。愚直ですよ、愚直」
 武智さんはなにかというと愚直ということを言います。正直言って、その
ころ私は武智さんの言葉に反発を感じこそすれ、共感できませんでした。そ
れは武智さん自身の信条を言っているのであっても、ここに集まった子供ら
は好き好んで愚直なのではない、彼らは知恵遅れのためにそんなふうな生き
方しかできないのだ、当時私はそのように思っていました。世の中には自分
の不器用さを棚に上げて、それを自分の美徳のようら言う人がたくさんいる
のを都会で見てきて嫌気がさしていたのです。彼もそんな人種の一人と私の
目には映っていたのです。
 竹の子の里のメンバーは全員が武智さんをタケトウと呼びます。武智の父
さんだからタケトウかと思ったら、そうではなくて竹の子の里だからそこで
の一番年長者は竹になっている、だからタケトウなのだそうです。
 確かに中野原一帯は竹やぶが多くて、鬱蒼と茂った竹やぶの中の、外から
はほとんど見えない奥のほうに民家があって、今もそこで年老いた夫婦が住
んでいたりするのです。沖縄についで接近する台風の多いこの地域で竹やぶ
は防風林の役目や鉄砲水から家を守る役目を果たしてきたのでしょう。竹の
子の里という名称にはそんな粘り強い竹と人とのつながりへの郷愁がこめら
れていることは私にも分かりました。
 武智さんになぜ竹の子の里をやり始めたか尋ねてみたことがありますが、
彼はなんとなくこんなことをやってみたくてね、というだけではっきり答え
てくれませんでした。後になってメンバーの一人のヨシ君のお母さんから、
武智さんにはヨシ君と同い年のタケル君という長男がいて、その子が結節硬
化症という難治性てんかんを伴う重度の知恵遅れの子供だったこと、その子
のために武智さんは勤めていた某大手新聞社の記者をやめて郷里のAに帰っ
てきて、窯元だった父のあとをついで焼物で生計を立てるかたわら、竹の子
の里を始めたことなどを聞きました。
 竹の子の里の当面の目標は、毎年秋にこの県の県庁所在地にあるデパート
で開く展示会に出品する作品を作ることでした。メンバーの技術がしだいに
向上したのと、彼らの素朴な作風が好まれて、ここ数年展示会に出す作品の
大部分が、地元の華道家や美術収集家に買われたり、名の通った料亭や旅館
からも少しずつ注文が来るようになった、と武智さんは嬉しそうに話してく
れました。
「だけど、これで将来が保証されたわけではないし、子供たちの自立という
ことでは、まだまだ先が見えてきません。せめて竹の子の里で、彼らが助け
あって彼ら自身でやっていけるようにならないと、私の目標は果たされたこ
とにはなりませんからね」
 武智さんはだいぶん白くなりだした頭髪に指を通してかきあげながら言い
ました。

 私がジェイコブソン神父と知り合ったのは、私がAに住むようになって一
年位たってからのことでした。女にとってさえも酒を飲んで男連中と騒ぐ以
外、これといった楽しみのない四国の片田舎で、私はある日Aの一番の繁華
街の端に建っているカトリックの教会をみつけました。キリスト教には興味
がなかったけれども、入口の掲示板に張ってあった「英会話と聖書を英語で
読む集い」の案内を見て入ってみようかしらという気持ちにふとなったんで
す。
 京都にいたら英会話を習ってみようなどという気には到底ならへんかった
でしょう。嵯峨野のお寺で拝観客の受付をしていたころは、外国人は珍しく
なかったけど、英語で話し掛けてみようなどとはついぞ思いませんでした。
私と交代で受付をやっていた同い年の女子大生は、日本人の観光客にはろく
に物も言わないのに、欧米人には愛嬌をふりまいて、下手な英語ーー私にも
理解できるのだから和製英語まじりの下手な英語にきまっていますーーで応
対していました。私は日本人が英語を話すときの大袈裟な身振り手振りが嫌
いです。あんた、英語しゃべったというて、それがなんやねん、私はいつも
心の中で女子大生に向かって言っていました。でも、本当にそんなことを言
ったら
「あんたこそ、大学受験に失敗したからいうて、私にきつうあたらんとい
て」と、言われるのがおちだったことでしょう。
 彼女はそれくらいのことはさらりと言ってのける人でした。その頃から私
は英語がよけいに厭になりました。それなのにAでは私は和也を誘って、そ
のカトリック教会の英会話教室に通うことにしました。無聊をいやすという
ぐらいの気持でした。和也は将来ニューヨークとロスで自分の作品展を開き
たいという夢を持っていたので、そのために二人で英会話を今から習ってお
こうと言って、いやがる和也を引き入れました。
「言葉なんて通じなくてたって、焼物の世界のことは通じるんだよ。もう大
学の授業と縁が切れたというのに、英語なんてたくさんだよ」
 そう反対する和也を説得して、水曜の夜私たちは教会に出かけていきまし
た。
 教会は古い木造の建物でしたが、廊下の床や木のドアはよくみがかれて明
るい光沢を放っていました。玄関に出てきたのは、白髪をひっつめて後ろで
くくった小柄な女の人でした。この人はサキさんといって、この教会の神父
さんのお手伝いさんを長年してきた人です。私が用件を告げると、彼女は私
たちをすぐ部屋に通してくれました。八畳ぐらいの部屋は中央にニスの剥げ
かけたテーブルが置いてあり、その周りに十脚ほどの木製の椅子が並べてあ
るだけでした。
 時間が早かったせいか、その部屋には誰もいませんでした。しばらくする
とコツコツコツとあわただしくノックする音がして、私より二十センチは背
の高い恰幅のよいガイジンが入ってきました、それがジェイコブソン神父だ
ったのです。
「ようこそいらっしゃい。クラスが始まるまでに時間があります。少しお話
ししましょう」 多少ぎこちなさはあるものの流暢な日本語でした。
「英語は話しますか」
「だめです。話せません」
 和也が引き込まれて変な口調で言ったので、私はふきだしてしまいまし
た。
 英会話を習いにきた目的を問われたら困るなあと思いました。正直にほか
にすることがないから、と答えようと思っていたら、ジェイコブソン神父は
そんな私の意図を見抜いたのか、
「英語を学ぶのに理由はいりません。都合のいいときはいつでも来てください。それと
このクラスでは最後の二十分はバイブルをみんなで読みます。もし興味がなく
ても私たちに付き合ってください」と、言いました。
 バイブルと言うのでさえ、神父は日本語ふうに発音しました。私はそこま
でやることはないのにと思いました。レーガンであろうがリーガンであろう
が、たいした違いはないのに、それをあげつらうアメリカ人が英語を日本語
ふうにしゃべるのを聞くのは、けったいな感じがしました。
「私はジョーダン・ジェイコブソンといいます。私のホーム・タウンはボス
トンです。日本へは一九七一年に来ました。それまではシンガポールに三
年、フィリピンに五年いました、私はカトリックの神父です。一九五〇年に
ボストン大学の神学部を卒業しました。Aに来るまでに私は金沢で二年いま
した」
 彼はそう自己紹介をして、今度は私たちに自分たちのことを話すように言
いました。和也が自分の生まれた町ーーそれは兵庫県の日本海側にある有名
な温泉町で、私もそのときまで彼の故郷を知らなかったことに気が付いたの
ですがーーを言い、今は焼物の修業中であること、将来アメリカで自分の作
品展を開きたいと考えていることなどを話しました。私の番になって自分の
名前を言うと、神父はちょっといぶかしげな顔をしました。私と和也の姓が
違うからだろうと私は思いました。案の定、私が一通り自己紹介をし終わる
と、彼は
「ごめんなさい、こんなことを尋ねるのは失礼かもしれませんが、あなたた
ちは夫婦じゃないのですか。私はてっきりご夫婦だと思っていたのですが」
「同棲しています」
「ドウセイ」
「いっしょに住んでいます、正式の夫婦じゃありませんけど。同居(ハウス
メート)です」
「同棲(コハビタント)ね」
 カトリックの神父にこれはまずかったかなと思いました。でもそんなこと
で態度を変えるようならついていけそうにないから、今のうちにこちらから
願い下げだと考えていましたが、神父は、そうですか、と私たちを等分に見
てうなずいただけでした。
 まもなく今晩の常連たちがやってきたので、私たち三人の話しはそこで終
わりになりました。常連といっても英語を学んで何かに役立てようという者
は一人もいないので、私から見てもお世辞にも上手に英語を使いこなしてい
る人はいませんでした。酒屋の若主人で、教室では名字の藤堂からドッドさ
んと呼ばれている三十前後の男性が、中では一番ましのようでした。ガソリ
ンスタンドを主人と主人の両親とともにやっているスミーさんーー名前が澄
江だそうですがーーは、妹がロンドンにいて、日本社会で住むよりイギリス
のほうがいくら生甲斐があるかしれない、と言って日本へ帰るふうがぜんぜ
んないので、自分のほうがいつかイギリスを訪れたい、と英会話の勉強をは
始めたんだそうです。
「もう3年もやっているけど、上手にならないの。これじゃいつイギリスへ
行けるようになるか。でも自分のことくらい自分で話せるようにならないう
ちは、行かないつもり。負け惜しみじゃなくて、田舎の主婦にもそれくらい
の人生の目標があっていいと思うの」
 彼女はクラスで一番熱心な生徒でした。でも彼女の発音は確かにひどいも
のでした。
 それともう一人、Aの隣の市の県立病院に勤める精神科医のドクター・ク
ラタが一番遅れてやってきました。後で分かったのですが、彼はいつも二十
分くらい遅れてきます。またほかの者がみんな自分の名前をもじったか、こ
じつけて付けたアメリカ名をクラスでは使ったのに、ドクター・クラタだけ
は断じて本名を、しかもドクターという敬称を付けて呼ばないと厭な顔をす
るのでした。彼は一時間のクラスでほとんど何もしゃぺりません。神父が話
しかけても、理解しているのかいないのか、軽くうなずくだけで自分のほう
からは何も言いません。ところが、クラスが終わりに近づくと突然しゃぺり
だすのですが、その内容が決まってむずかしい人間の心理に関係すること
で、彼以外の者には彼が何を言いたいのかさっぱり分からないのです。それ
でもお構いなく彼は一気呵成にというか、まるで暗誦してきたかのような口
調で話し続けます。そっとジェイコブソン神父のほうを見ると、神父もち
ょっと困ったような微笑を浮かべながら、精一杯の寛大さを示して彼の話し
を聞いています。ドクター・クラタはほかのメンバーの理解できないような
単語を得意気に力を入れて発音して、それに対して神父がうなずくととても
喜ぶんです。でも神父が、
「ドクター・クラタ、できればあなたの考えを、ほかのひとたちが分かるよ
うにもっと簡単に説明してあげてくれませんか」と言うとと、彼はとたんに
また動物園の柵の中の鴕鳥のような、つまり周りに注意を巡らしながら人を
馬鹿にしたような目付きになって、黙ってしまうのです。




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