AWC はぐれる街(1)  YASU


        
#678/3137 空中分解2
★タイトル (UTJ     )  90/10/14  14:22  (149)
はぐれる街(1)  YASU
★内容
                              はぐれる街
                                                            YASU

「池見さんでしょう」
 振り返ったら、若い女のいくぶん媚を含んだ笑いと、すがるようなまなざしがあった
。そして、笑いの奥には、自信をもって呼びかけているのに、自信が刻々と揺らいで、
自分でももてあましているようなおびえがうかがえた。立津の方も呼びかけられた瞬間
、自分には全然心当たりのない名前にもかかわらず、自分のこととは思わないまでも、
全く無関係ではないような気持ちで、ちょうど会社で同僚と見間違えられて呼びかけら
れたような気になって、しごく気軽にひょいと振り向いた。 女はベージュ色のポシェ
ットをたすきに掛けていた。立津を見て、女は眩しそうに目を細めた。困った顔付きを
するのかと思ったら、かえって自分の勘が当たったかのような安心感を浮かべて、しか
し、やはりまだ自分の記憶に確信が持てないような訝しさも残しながら、立津の方が気
圧されるほど真正面から彼を眺めた。
 人違いであることを言えばいいと思いながら、このまましばらくは相手の思い違いを
いいことに、その人間のままでいたいような気がして、かといって、こちらから積極的
に役割を演じるつもりは毛頭なく、相手まかせに流れたらどうなるか、猥雑な思いがよ
ぎった。
 そう思った瞬間、立津の心を読んだかのように、女の目が怪訝そうにこちらを見て、
口角の笑いが消えた。
「すみません、あまり似てたもので」
 こっくり下げた頭を少し乱暴に上げるしぐさに、たぶらかされたと感じているような
敵意があった。
「そうみたいですね」
 立津は自分でも少し馴れ馴れしすぎるかなと思いながら、女の敵意に誘い出されるよ
うに言葉が自然に出たので、ことのついでにとこちらも顔を見返した。
 女はなぜか安堵したように息を大きく吸った。「道に迷って困っていたところに、高
校時代の同級生の姿を見掛けたもので、追いすがって声をかけてしまったんです」
 それにしても少し切羽つまった声だった、と思いながら、道に迷ったあげく、都合よ
くみつけた同級生は、もしかして訳ありの人物かしら、と心の中で詮索しつつ、立津は
物分かりのよい顔を作ってふんふんと聞いていた。
 女の名は宣子といった。訪ねる先は叔母の家だと問われもしないのに語り、しだいに
立津に凭れかかるような気配もある。あつかましさをあつかましさとして感じさせない
だけの周到さを持ち合わせているのかとも怪しんだが、そうではなくて、むしろ不用意
で不用心なところが、こちらの警戒心を解くらしかった。
「叔母の家へは五度目なんですよ。ついひと月ほど前にも来ているのに」と切って、立
津の反応をうかがうように、ちらっと彼の目を見て、またさりげなく目を伏せたが、さ
ぐったのは自分の言葉に対する彼のでかたではなく、立津の心の中に何が錯綜している
のか、みきわめようとする目だった。
「一種の方向音痴なんだと思っているんだけど」
 そして、少し間をおいて、本当、おかしいのよね、と立津に言うというより、自分で
自分のおかしさに感心しているような口調で言った。
 地下鉄が着いて、ホームに降り立つまでは問題はない。
 走り去る電車の方向に歩いて、こちら側の階段を上がる人数はいつも少なくて、どう
かすると最後にひとり階段を上りつめ、急に地下道が右へ曲がって、まだだいぶん歩く
つもりでいると、びっくりするほどすぐ近くに改札がある。改札を出るといっそう地下
鉄は狭くなって、何度か直角に折れて、最後は灰色の壁面ばかりになり、行き止まりか
と思うと左へ続いて、反対方向に戻りながら数段階段を上がって外に出る。宣子が言う
には、外へ出るともういけなくなっている。方向が自分の思っているのと逆方向になっ
ている。そんなはずはないのだが、と頭の中で来た道をなぞってみる。電車の走る方向
をもとに、ゆっくり地下道の折れ方を描いて、自分の今いる場所に到達するのだが、頭
の中と実際の方角は逆になっている。最初二、三回は気付かずに歩き出してみて、だい
ぶん歩いてから間違っていることに気付く。それでも自分の感覚はいつまでも修正され
ない。ジグソウパズルをやっていて順調におさまっていたのが、急にどうしても当ては
まらなくなってしまう、あせるとますますわからなくなってしまう、あの感覚と似てい
る。
「体が捩れているみたいなのよね、そんなときは」
 女はほんとうに上体と下半身を奇妙に捩ってみせながら、多少はそんな異和感を楽し
んでもいるみたいに、困ったような笑いを浮かべた。
 正反対の方向感覚にとまどいながらも、頭の中で無理に現実の世界に自分を合わせて
どうにか目的の場所へたどりつくと、自分に裏切られた感覚の方が今度は勝ってきて、
ますます体は捩れていくらしかった。身の置き所がなくなる、という言葉のままに、体
と外界が遊離してしまって、自分はまた外の世界と自分の間をとりもつはずの体の異和
感を、どこかで感じとっているといった何段構えもの自分ができてしまう。
「帰りの地下鉄に乗って、次ぎの駅に停まるころに、急に捩れが取れるの。ぱっと現実
と自分の感覚が元へ戻っていっしょになるわけ」
 でもそんな感じなら、誰だって体験するものの一つですよ、そら、心理学の本なんか
によく載っているやつ、帽子をかぶった女のひとがちょっと見方をかえると醜い老婆の
顔になるという手合いの錯覚ですよ、と言おうとして、そんな説明がこの場合、二人の
間で何物も共有しないように思えて黙ってしまった。
 叔母なる人の家をいっしょに捜してほしいと言うのかと思っていたら、彼女はまるで
用向きは終わったかのような顔で、地下鉄へ向かう立津の後をついてくる。家のある町
の名前を言うと、自分もJで乗り換えるからと、やはりどこかで高校時代の同級生と彼
の姿を重ね合わせているのか、年来会わぬ友達にしゃべるように言う。地下道の曲がり
角で彼女は何度かふりむいて確かめているようで、立津が立ち止まってそんなようすを
見ていると、悪戯をみつけられた悪童のように、白い歯をちょっとのぞかせて笑ってみ
せるが、目付きは笑うどころでない不安を隠せず、すがる面持ちだった。
 反対側から来た地下道と合流して改札口に出るが、自動切符売場に来たとき、宣子の
両肩はすとんと落ちていくぶん顔も蒼白めているようにみえた。百円硬貨を機械に入れ
るとき、彼女の手はまっすぐその場所に行かず、文字の書いてあるプラスティックの表
面をなぞるように指を移動させて、しかし硬貨の投入口へは何のためらいもなく到達し
て、そんな動作を二度くり返してから、行き先までのボタンを少し乱暴に押した。じい
と歯車の回るような音がしてつり銭の十円硬貨と切符が出てくると、今度は妙におちつ
いた仕草で一枚一枚金を取り出して、最後に切符を無造作に人差し指と中指でつまんだ
。それから彼が待っているのも気付かぬふうに改札口を通って階段を降りていく。上半
身が力なげにみえるのに、長めのワンピースから出ている足の動きが軽やかなので、ぜ
んまい仕掛けの人形の動きに似ていなくもなかった。
 電車に乗り込むときも、彼女は自分の位置を気にしているふうだった。吊り革を握っ
て並んで立っていると、電車の加速度で彼女の体は次第に立津の方に寄りかかってくる
が、気にとめていない。窓ガラスに映る顔はどこか輪郭を失いかけたはかなさを宿して
いた。彼は思わず自分の顔を見たが、こちらは腫れぼったい瞼と、鼻から口への切れ込
みが奇妙なほどきわだっているのが、日ごろのけだるさと不平をためこんだような表情
で我ながら些かぎょっとする。
 口を軽く開いた女の存在を、ガラスの中と自分のすぐ横の温もりのある体に等分に感
じながら、彼は沈黙の中の安らぎを楽しんでいた。
 やがて彼女の体がほうっと緩んでいくのが分かった。走り去る暗い壁に浮かんでいる
顔にも、生気が立ち戻ってくる。彼女は隣に立って自分を見ている立津のガラスの中の
顔を見た。目が笑った。
 結局、乗り換えのJに着くまで何も話さなかった。Jで同じ線ではあるが、反対方向
の電車に乗るので、乗り換え口のところで別々の階段を降りることになった。そこまで
来て彼女は急に立津に、今度の土曜日に会ってもらえないだろうかと言い出した。はあ
、とちょっと間の抜けた返事をして、あらためて彼女の顔を見ると、やはりまだ彼を高
校の同級生と思い込もうとしているふうがある。少し押し付けがましくもあるが、心を
開かれた側は変な男気を引き起こされて、満員のエレベーターに遅れて乗り込んできた
女に場所をなんとか作ってやるような気持ちで引き受けていた。女はJ町にある喫茶店
の名前を言った。立津もその喫茶店は知っていた。それじゃあ、と行こうとするので、
時間は、と問うと、当然了解済みのことであったかのように時計を見て、どう、と言う
ように立津の顔を見上げた。ええ、と言いながら自分も時計を見るとちょうど四時半で
あった。
 ホームに下りると同時に電車が来た。乗り込んで反対側のホームに彼女の姿を探した
が、人混みに紛れこんだ女を見つけることはできなかった。

 その喫茶店は、大通りから二つはいった閑静な道にそって建っている、古びたコンク
リートの建物の一階にあった。数十メートル先に国電の線路があって、電車に乗ってい
るときは感じないのに割合急勾配になっていて、それがこちらの道と並行して走ってい
るもので、道のほうもゆるやかな坂で下っているはずなのが、かえって上っているよう
な錯覚にとらえられてしまう。店の前に某医科大学の付属研究施設があるが、石の建物
は表面がざらついて、あちこち苔むしている。見詰めているとこちらの肌までざらざら
してくるような気がする。 喫茶店にはそれらしい看板がない。よく見れば入口のドア
の上にこの店の名前を書いた桜の木とおぼしい厚い板があるのだが、だいぶん薄汚れて
、白地に黒いペンキで書かれたドイツ文字は、今では戸口を飾る模様でしかない。
 立津は友人の一人にここの炭焼豆のコーヒーがうまいと聞いて初めて来たが、月に一
、二回、二年ほど通っているうちに経営者が変わったらしくて、コーヒーの味も落ちて
しまったので、もう長い間来たことがなかった。宣子がここの店の名前を落ち合う場所
に言ったとき、駅から割合離れた、はやらぬ喫茶店の名前がひどく新鮮に聞こえた。
 約束の時間ぎりぎりに彼は着いたのだが、彼女はまだ来ていなかった。窓際の席に坐
り、コーヒーを注文して、さてどんなようすで来るのだろう、と外を眺めて待った。そ
の位置からは通りを隔てた医科大学の研究所の建物しか見えない。
 宣子はなかなか来なかった。そして、往来の人の中に彼女を見つけようとすることに
倦んできたとき、突然現れた。突然というのは、立津が当然そちらから来るはずだと思
っていたJの方からではなく、反対側から来たので、喫茶店の入り口に立つまで彼には
分からなかったのだ。
 彼女はすぐ彼の居場所を見つけた。別段遅れてきた言い訳をするでもなく、彼女の後
を追うようについてきたウェートレスにコーヒーを注文しながら、淡いピンクのワンピ
ースの裾をつまむようにして、少しまえこごみになって坐った。
「この前はすみませんでした」
 伏し目がちに言うが、やはり体中を触覚にしてこちらの出方をうかがっているのは、
先日と同じだった。言葉がとぎれた。立津の方がなにか引き出す役なのだろうが、改め
て考えてみれば、彼女のことは何も知らないのだ。かといって、初対面の人間に聞くよ
うに、あれこれ礼を失さない範囲で質問を向けてみるのも、そぐわない気がした。宣子
は自分の前に置かれたガラスコップの水をじっと見ている。仕方がないので立津はまた
窓の外に目をやった。はたから見ると、別れ話をしている男と女に見えなくもないな、
とふと思った。
「ここへ来るのを出る間際まで迷っていたんです。でも、お約束して来ないと悪いと思
って、来ることに決めました」
 目を上げないで言っている宣子の言葉には、まるで強いられて約束させられたような
、そして、そのことをなじるような響きさえあった。
 こうやって来たからには、あなたの方には話を聞く義務があるのだと言うように、彼
女は唐突にKのことを持ち出した。




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