#606/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ ) 90/ 9/ 8 22:16 (188)
「小説家入門」(2/3) 浮雲
★内容
近くの飲み屋に入ると、座敷に尻を落ち着かせる間もなく、森山という古株が
口を開いた。
「実は、あなたの今度の作品ね、あれを井上先生にお見せしたんですよ」
俺はこの時ほど表情を作るのに戸惑ったことはなかった。余りに突然に、しか
も予測を越えた事態の出現に特技を生かす余裕すらなかった。とにかく、せい一
杯驚いてみせた。
「まあ、最後まで聞いて下さい。もったいぶるのは止して、結論から話しましょ
う。実は、井上先生はあなたのこんどの作品をぜひ、『文芸界』の次号に招待作
品として推薦したい、と言うのです」
俺は、照れ笑いでもしてやろう思った。ところが、なんとしたことか顔面の筋
肉はひきつるばかりで俺の言うことを聞いてくれなかった。
「しかも先生は、あの原稿はもう作品として立派に完成している。手を入れる必
要はあるまい、こうおっしゃるんです」
【分かった!】俺は腹の中で手を打った。やはりそうだったのだ。
今度の作品は、たしかに完成度は高い。それに同人誌にとって生命ともいえる
品位を備えていた。「あすなろ」最新号のトリをとったのも、誰もが作品の出来
栄えをそれ相応に認めたからであった。
しかし、所詮同人誌だ。「あすなろ」のレベルが高いといってもアマチュアの
トップはアマチュアでのトップでしかない。プロの最下位のものと比べ様もない
ことは言うまでもない。
金井がいつも言っている通り「読者の目は肥えている」。読者はアマチュアに
対してはフイルタ−を通して見てくれる一方で、同人誌の役割を厳しく限定して
いる。「身のほど知らずな動きには実に手厳しいものだ」金井はそんなことも言
った。
また、山田が指摘してくれたことだがこんどの俺の作品は、最後のところで支
えを失っている、そんな不安定さが見られるというのだ。実は、そんなことなど
この俺がいちばん承知していた。あの井上謙らがそれを見抜けない筈がない。そ
うなると答えは一つしかない。
奴らは、俺を芽のうちに摘みとろうと謀っているのだ。「文芸界」*号の書評
で痛めつけたはずなのに、俺が起き上がってきたのはなんと言っても奴らにとっ
て大きな誤算だったに違いない。「文芸界」招待作品というエサで俺を釣ってお
いて徹底的に叩きのめし、こんどこそ日本の文学界から抹殺しようと企んでいる
実はこんなチャンスを待っていたといった方がよい。
突然の吉報に、この俺が気が動顛して口も利けないものと思ったのだろう、森
山が続けた。
「ぼく達も驚きましたよ、それは。でも、そんな意味じゃなくてなんて言うか、
『あすなろ』にとって名誉なことだし、あなたにとってもいろいろ勉強になるに
違いない、願ってもないチャンスだと思うのです」
そこで森山は一呼吸入れた。
「それで、先生もおっしゃっておられるように、改めて推敲の必要もないし、実
は一週間しかないのです。締切まで」
「はあ、」
俺はまだ呆然自失の態をつくろっていた。
「わかります、あなたの気持ちは。しかし『あすなろ』としてもぜひということ
でみんな一つになっているのです」
ははあ。「あすなろ」も一枚噛んでいるわけか。これで何もかも分かった。
あの火がいま、俺のからだ全体に広がっていくのを、俺はなぜか心地良いほどに
感じていた。
「あまり突然のお話なので、なんと言ってよいか考えがまとまりません。少し時
間をいただけるとありがたいのですが」
俺はそう言って、額の汗を拭った。
「当然です。・・・が良い返事を待っています」
森山が俺の手を握ってきた。汗でねばついたその感触の気持ち悪さは、は虫類
を思わせた。
「時間がありません」
森山が念を押した。それから、例の通りの飲み会となった。その晩、俺がどん
なにもてはやされたかは言うまい。
7
その日の夜遅く、俺は家族の者に頼んで娘が勉強部屋にしている四畳半を仕事
部屋として貸してくれるよう頼みこんだ。一週間だけ、という期限付きであった。
森山の言うとおり、時間がなかった。井上謙らの鼻を明かし、併せて文壇への
入場券を手に入れるためにも、なんとしてもこんどの作品の最大の欠点である結
末の部分をしっかりしたものにしなければならなかった。その気負いからであろ
うか、俺はそれまでに経験したことのない極度の緊張と興奮にがんじがらめにな
っていた。
最初の二日間、俺は休暇をとった。それにも拘らず一文字も加筆はおろか修正
すら出来なかった。四日目の夜、俺は幻覚症状を覚えて近くの市民病院に救急車
で運ばれた。栄養失調と睡眠不足による極度の疲労によるものと診断された。肝
臓もだいぶ弱っていた。当り前であった。
俺は、会社を休んだ日からアルコ−ル以外何も胃袋に入れていなかったのだっ
た。幸いに一日で退院した。家族の者は医者と計らって俺を当分病院に閉じ込め
ておこうとしたらしいが。
病院から戻った日、俺は作品に何ケ所か手を入れることができた。そして、と
うとう最後の一つのところへたどり着いた。或るひとことを入れるか、それとも
入れずにおくか決断すれば良いだけであった。そのひとことが俺のこんどの作品
の成否のカギを握っていると言って過言ではなかった。井上らとの勝負もただ一
点ここに集約されていると言ってよかった。再び眠れぬ夜が続くだろうことは目
に見えていた。
深夜突然、家族が集まっているからといって、俺は呼び出された。
「もう身体をこわす様な真似はやめてほしい」
小説家のまねごとなどやめてくれ、と言うのであった。
俺は、何も野心を抱いている訳でもないし、会社をやめようとも思っていない。
ただ、せっかくの機会だ。思い切ってあたってみたい。自分の気持ちに正直であ
りたいだけだ。そんなことを言った。
女房はメソメソするだけであったし、子供たちは、何このおじさん、とでもい
うようにうるさそうな態度をあらわにしていただけだった。
約束の日まであと一日を残すだけであった。その日は季節はずれの陽気に襲わ
れ、朝からの蒸し暑さは夕方になって、いよいよがまん出来ないものになった。
風は、そよとも吹かなかった。
俺は、散歩に出た。少し歩いてみれば考えの整理もつくだろうし、ほど良い疲
れは眠りを誘ってくれるかも知れないと思ったからであった。
「ギャァ−ッ」
叫び声を聞いたと思った。俺は考え事をしていたに違いなかった。気がつくと
横断歩道の上にいた。そして右足のわずか50センチぐらいのところに自動車の
バンパ−があった。
「このやろぉ!」
ドアが開いてチンピラ風の若い男が飛び出してきた。
「赤じゃねぇか、どこみてんだこのじじぃ!」
その男は、俺の胸ぐらをつかまんばかりに身を寄せてくるなり罵声を浴びせて
きた。次の瞬間、俺は思わずニヤリと笑った。チンピラは白い外車に乗っており、
服装もブランド品で装備していたのだが、なんとも残念なことに二本ばかり鼻毛
が飛び出していたのだ。そんな事など知らない彼は、バカにされたとでも思った
に違いなかった。血相を変えると殴りかかってきた。
ところがどうしたことか、俺の目と奴の目が合ったとたん、「ひっ」とばかり
悲鳴を呑込むと、だっと駆出しドアを閉めるのもそこそこに車を発車させ、キィ
キィタイヤをきしませながら走り去ったのだった。
俺は、あの火が身体中をぐるぐる走り回るのを感じていた。「よしっ」俺は、
声に出した。「入れるのはやめよう」俺は、そう決断した。
8
そして、ついにあの日がやってきた。
それは、俺が原稿を森山に渡してから一週間ばかり経った日であった。森山か
ら呼び出しがかかった。急いで指定された喫茶店に行ってみると、そこには森山
のほかに、いつか編集会議のあと飲み屋で一緒だった連中がそっくり顔を揃えて
いた。何かある。俺はピンときた。連中は、一様に緊張した面もちをしていた。
この前の時とはまるで正反対の空気を感じないではいられなかった。
俺が席に着くのを待っていたかのように、「あすなろ」の代表幹事を任じてい
る高野という男が神妙な顔つきで切り出した。
「大変なことになったのです」
そこで高野は一呼吸おいた。実にうまい間合いのとりかたであった。世間を知
らない者なら、これでいっぺんに術中に陥ってしまうところだ。
「あなたのこんどの作品ですが、あるところからクレ−ムがつきました」
えっ、というように俺はトボケてみせた。
「それが、実は誠に言い難いんですが、実は井上先生の筋からのクレ−ムなんで
す」
なにっ、なぜ井上の名前が出るんだ。俺は、腹の中で口汚く井上の名をののし
った。
「実は、このあいだ『文芸界』へあなたの原稿を渡したのですが、昨日の夜にな
って井上先生から私のところへおしかりの電話があり、いや、すっかり驚いてし
まって。それでもなんとか昨日のうちに井上先生にお目にかかって、事情をお聞
きしたんです」
俺は、その時まだ高野の話の先にあるものが少しも見えなかった。
「井上先生の話では、あなたの原稿と瓜二つのものを『文芸界』の編集部員から
見せられ、とんだ恥をかかされた、というのです」
おしまいの方は井上の声色を真似しているのは見え見えであった。高野が俺を
威嚇しようとしているのは明かだった。
「あなたはご存じかどうか分かりませんが、数年前に『文芸界』の新人賞をとら
れた吉元さんという中年の方がいるのですが、その吉元さんが久しぶりに筆をと
られ『文芸界』の次号に掲載を予定している作品と、あなたのこんどの原稿とが
酷似しているというのです」
俺は、奴が「あなたの作品」と言わず、「原稿」と言い替えていることに本性
を見せられた思いがした。俺は、そろそろ反撃の準備にかかることにした。
「高野さん。それはどういうことでしょうか。私の作品がまったくのオリジナル
であることは、皆さんがよくご存じの筈ではないでしょうか。高野さん。もちろ
ん井上先生に反駁していただいたのでしょうね」
「いや、あなたが盗作なさったというつもりはないのです」
そら、本音が出た。
「とにかく、テ−マはもちろん、登場人物の設定、筋立て、そして一人称で書か
れているところまで同じだというのです」
さあどうだ、といわんばかりに高野は語気を強めた。
「井上先生がおっしゃるのは、君の作品が盗作だということよりもだよ、『あす
なろ』の名誉さらには君の将来が心配だという訳なんだよ」
突然、森山が妙な言い回しで口をはさんできた。俺のことは「君」になり、言
葉遣いもぞんざいになっていた。
「森山さん。それではまるで私が盗作したと決めつけている様ではないですか」
「まあ、そう興奮なさらずに聞いて下さい」
高野が割ってはいった。
「ざっくばらんに、いわせてもらいますよ」
その後高野がくどくどと話したことを要約すると、
「文芸界」への推薦の件は無かったことにしてもらいたい。そして「あすなろ
」への掲載も辞退して欲しい。そうすることで井上の名誉は損なわれず、「あす
なろ」も安泰でいられる。そうすればいつか、「文芸界」に登場出来るチャンス
も訪れるであろう・・・云々。
しまいには、慰めのはずの言葉がいつのまにか、縁切り宣言としか思えないも
のに変わっていた。
俺は、心底言葉が出なかった。唇がふるふる動くだけだった。指一本動かすこ
とができなかった。奴らは、俺よりも一枚も二枚も上手であった。それだけだ。
俺は、まんまとうまいことやられたのだ。あの火は、どこかに隠れてしまったよ
であった。
俺に起死回生のチャンスはあるだろうか。反撃のための力は身近に準備されて
いるだろうか。事実をもってすべてをひっくり返すことは出来るだろうか。俺は
、忙しく自問自答してみた。結果はすぐ出た。俺は、反攻することを放棄した。
敵の圧倒的なパワ−に恐れをなしたのではない。あまりにも不甲斐ない自分がみ
「思いのままにして下さい」
その時だった、俺がある計画を思いついたのは。あの火は決して消えてはいな
かったのだった。
「いやあ、そうですか。ありがたい」
高野はさすがにほっとした様子であった。
「いつかきっと、あなたは報われますよ」
先ほどとは別人のように森山が言った。
「とにかく、これはお返ししましょう」
高野が茶封筒を俺の前に出したとき、俺はもう一度掛け値なしで驚かなければ
ならなかった。そして、自分の甘ちゃんぶりを嫌というほど思い知らされた。自
嘲以外に俺に残されたものはなかった。奴らの恥知らずは底なしであった。
つづく