#1769/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (TEJ ) 89/ 8/13 11:49 ( 84)
【脳細胞日記を読んだ】ー秋本 89・8・13
★内容
テレビをつけたら、グルメ番組か何かだったと思う、司会者である作家の藤
本義一氏が、その時のリポーター役である同じく作家の村松友視氏に対して、
どうですか近頃本は売れてますか、と尋ね、それに答えた村松氏の全く売れま
せんという答えと、その時の沈痛とも云ってよい表情は、昨今の日本ブンガク
界を象徴するような日常的挨拶として読みとることができ、わたしには大変に
興味深かった。さもありなん。なのでありましょう。
だいたい、わたしもあまり本を読む方ではない。漫画の方がまだ、少し読ん
でいると云っていい。そして、そのほとんど読まない本という活字メディアの
中でも、それをフィクションとしての小説と限定した場合、これはもう絶望的
と呼んでもお釣りがくるくらい読んでいない。2年前だったか村上春樹氏の
「ノルウエイの森」を読んだ。それからは吉本バナナさんの「キッチン」とな
り、その後には何もない。色川武大氏の「狂人日記」は買っていたが、本棚に
置いてはあるが、これもまだ読んではいない。要するに、話題になった本だけ
を、しかも年に一、二冊しか読んでいないのである。
太田健一氏の小説「脳細胞日記」を知ったのは店頭で、平積みになっていた
その本の一冊をタイトルが面白そうだったので手にとってパラパラとやってみ
たというのが最初で、その時はしかし、それが小説だからという理由で買わな
かった。その後何かの雑誌で、作家の中上健次氏がこの小説を推すでもなく、
けなすでもなく書いていたのが目についた。それから後、しばらくは何もなか
った。そしてある日、このAWCでこの「脳細胞日記」について書いてあるメ
ッセージを読むことになった。二人の人が書いていたように思う。その中のひ
とつは、この小説は自分の感性に合っていたという意味合いの、であるから多
分若い人の、それは読後感想であったと思う。しかしかといって、それから後
も、しばらくは何もなかった。
ところが、このところ生活の中に少々時間的余裕ができるようになった。仕
事の都合なのだが、この獲得された偶発的とも云っていい自由なる数時間は、
単なる物理的な概念においての数時間ではなく、そのわたし個人に与えた精神
的影響という観点からみると、それはそれは大変な変化を及ぼすこととなった
数時間なのでありました。すなわち。
小説デモ読ンデミルカ、という気分になった……
ということで迷わず買って来て読んだのが、この「脳細胞日記」でありました。
ということで、多分年に一度のこれは、読書感想ということになる訳です。
太田健一著「脳細胞日記」福武書店 1200円
一言で云って非常に幼い。しかし、デあるが故に、その意味においてこの小
説は時代を反映した、まさしく「今」に生きる作品であることを証明している
のではないか。と。わたしには思えたのでした。それに少なくともこの小説は
「恋愛以外、することがない」と云われている「今」という日常において、
「今」に生きるものとしての根源的な、自分の存在というものへの真向からの
問いかけが成されている点が評価できる。確かにその問いかけの手法として、
ややSF仕掛けの設定、あるいは主人公の分裂病患者的位置づけがなされてお
り、それがこの小説を幼く観せている原因にもなっているのであろう。が、そ
うでもしないと「今」を「今」の中にいて、しかも正面から語ることから生じ
る不自然さ。を隠すことができないと作者が考えたのであれば、それはそれで
いいとわたしは思う。というか、そもそも、自分が存在していることの意味と
いうものを真面目に考えること自体が、「今」は不自然な時代になっているの
である。とも云えると思う。
この小説には、「今」を積極的に語るために最もふさわしいと考えられる状
況設定が二つ選ばれている。ひとつが主人公の女友達のバンド活動であり、も
うひとつが、男友達の演劇活動である。しかし、この二つのメッセージ伝達メ
ディアとしての対象を考えてみた場合、これらに共通していることは、それが
人の視覚へのそれではなく、どちらもおもに聴覚への語りかけであるという点
を見逃してはならない。活字メディアは「今」を代表するメディア活動にはな
っていないという、小説家としての、あるいは皮肉ともとれる作者の意図をそ
こに読むことはハズレであろうか。活字はクールであるが故に、クライのであ
る。皆んなで一緒にクラくなろうぜ!なんて呼びかけはあるいは、パソコン通
信という双方向の活字メディアだけに許された道かも知れないし、あるいはそ
れは新たなる、参加できるメディアとしての可能性を秘めた活動であるのかも
知れない。が、わき道の話でもあり、ここでは割愛する。
作者はしかし、ここでこの二つのメディア活動を中心に描くことで、即ち、
そのメッセージを作品として仕立て上げようと意図してはいない。その方法論
としての活路を主人公の裏技としての秋葉原少年的地下活動(テロ活動)に見
い出すのである。つまり、テレビという「今」を作った根源的メディアそのも
のへの参加を単独で、電波ジャックという手段でもって主人公に選択させる。
しかしそれは最も有効な、最終的手段のひとつだという意味で、社会的に非合
法と見なされている行為でもあった。
主人公はテレビの中から『今僕は君に語りかける。<透明な糸>に立ち向か
う方法は一つしかない。それは<自由意志>だ。自分は絶対に自分の意志のみ
で行動し、思索するのだという明確な自意識が<自由意志>の源に他ならない』
と語り続ける。この主人公が語る<透明な糸>というものが、すなわち「今」
という時代そのものを意味しているのであり、それはまたこの主人公か闘おう
としている敵の姿でもあり、そして自由意志こそが、その敵と闘える唯一の武
器であると作者は叫んでいる。という風に解釈できる。
しかし、その闘いで守るべきものが何であるのか。作者は明確にはしていな
い。あるとすれば、あるいはそれは「今」を生きる自らの存在理由とでも云う
べきものかも知れない。しかし、それを云う前にそもそも敵の存在を意識して
いない同時代の人々に対して警告を発すること。敵の存在を知らせること。作
者はそのことを、まずこの作品の中で語ろうとしていたのだ。と解釈できる。
漫画やテレビばっか見ていてはダチカンヨ!
と云いたかったのだ。と思う。あるいはひょっとして。
だから小説もちゃんと買ってネ!
と云いたかったのでは・・というところまで持って行くと。
やはりこれはハズレ。なんでしょうね。
歯歯歯!