#1562/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (TEJ ) 89/ 5/17 23:12 (110)
『秋本さすペンス劇場』(目薬をさす女)ー秋本 89・5・17
★内容
目薬。めぐすりは何処。どこなの。
引き出しの中。一番下の。箪笥の上の引き出し。そこしか引き出しはないの私
の部屋はだからそこが引き出しのそして一番下。目薬は。目薬は何処にあるの
かしら。手が動かない。どうしたの、手が私の手が右手。いやあ!
いやっいや。わ、私。いやいやっ。わ、私。どうかなって。手が。手が……。
左手?左手は動く。左手が動けばできるわ。できる……できる?何。私は何を
左手?左手がどうかしたの、左手じゃない違う。違う何か。あっ目薬。そう。
落ち着いて。落ち着くの。めぐすりなの。めぐすりを取ろうとしていたの。そ
れで左手じゃなくて、右手が。違う、右手は指が動く。動くわ。よかった。動
く。だったら右手で目薬を取ればいいの。大丈夫よ、私の右手は動く。確認す
るの。いいっ。目薬は引き出しの中にある。その引き出しは、あの箪笥の上。
あの引き出しの一番下の引き出し。いいわ。ちゃんと分かってる。大丈夫。
立ち上がれない。私、立ちあがれない。
どうしたら立てるの……命令?そうよ。ちゃんと立ち上がるように自分に云う
の。立って。立って! RRRRRRRRRR RRRRRR
RRRR RRRRRRRRRR RRRRRRRRRR RRRRR
RRRRR RRRRRRRRRR RRRチャッ!
「…はい」
(僕だけど……)
「はい」
(あ、僕だけど……大丈夫?)
「ええ」
(…よかった。いや、ちょっとね)
「どこから電話なさってるの」
(えっ?どこって…大丈夫?ああ、そんな意味じゃなくって……ごめん)
「ええ」
(ええって。あ、あのね。今、君んとこの駅前からなんだ。ほら『カプリ』あ
るだろ。あそこ、まだ、やってるよね……出て来てくれないかな)
「……」
(智子がね)
「智子さんが一緒なの」
(あ、いや智子はいない。僕だけ。だから出て来てくれないかな……もし、なん
だったら、君のアパートまで行ってもいいんだけど)
「だめ」
(……ごめん。行かないよ。行かないから、だか)
「目薬をさしたいの」
(何?)
「目薬をささないと私、何処へも行けない。行きたいの、でも行けないの目薬
をささないと私何処へも行けない」
(目薬がどうかしたの?何か)
チャッ!
目薬をささなくちゃ。めぐすりは、そうだわ。あの引き出しにある。だから。
足。足が動かない。どうして。どうやって動いたらいいの。どうやって。どう
やって。ここへはどうやって来たの。私。電話が鳴って……わ、わからない。
わからない。どうして。電話が鳴って、電話が鳴って、私はさっきテーブルの
ところに座っていRRRRチャッ!
「はい」
(あっ、いや。どうしたの?電話が切れたみたいだけど)
「はい」
(……怒ってるの?いや、だから、ちゃんと説明しようと思って、君さ、きっ
と誤解してる。だからね。話したいんだ。でないと)
「足が動かないんです」
(えっ?)
「…………」
(足が動かないって、どういうこと?何かやってるんじゃ。まさか、お、おい!)
「目薬をささなくちゃいけないの」
(行くから。今すぐ行くから!)
チャッ!
*あの人がアパートの私の部屋に飛び込んで来た時、私は目薬をさしていたそ
うです。狭い六畳一間の部屋です。その頃、部屋の真ん中に私はガラスのテー
ブルを置いていました。そのテーブルの前に正座して顔をあげ、右目と左目に
交互に一滴ずつ、くり返し目薬をさしていたそうです。そして、あの人が声を
かけても、私には何も聞こえていないみたいで、ただ何度も何度も目薬をさし
ていたと。だからあの人は私の手から無理やり、その目薬を取り上げたという
ことでした。さあ、何故って訊かれても私にはわかりません。確かに父が交通
事故で突然亡くなってしまった、そのすぐ後ということで気持ちがおかしくな
っていたのかも知れません。ええ、お葬式は済ませてから後の話です。でも予
感はあったし……。え?ああ、つまり、あの人と智子さんのことです。うすう
す感づいてはいたんです。でも……見てしまいましたから。ええ、あの日です。
あの人のマンションに寄りましたから。でも、もう何とも思っていません。忘
れてしまいました。ですから、ショックだったと云っても、そんなではなかっ
たと思います。それに私はオーストラリアに留学する予定でしたから。ええ、
そうです。父が死んで私ひとりになったもので。その父の保険なんかがおりて
来ましたし。それで、私も会社をやめて、好きな語学の勉強をもっとしたいと
思っていましたから、それで。え?いえ、そう思ったのはその時より前です。
高校生の時から英語だけは好きでしたから、その頃から機会があったらと。で
すから随分前から思っていたことですから、関係ありません。え?あの人です
か?その時から会ってないのでわかりません。亡くなったんですか?知りませ
んでした。病気か何かでしょうか。何だかもう、随分と昔のことみたいなんで
す。ですからあの人のことを訊かれても何にも思い出せなくて……
目薬ですか?ありますけど……。いえ、違います。胃に潰瘍ができてるみた
いなんです。もう随分とよくなっていまして。ええ、手術をする程の病気じゃ
ないんです。ただほっておいて、それが悪化するといけないんで。外国で病気
になることくらい心細いことはありませんもの。ですから、ここでお薬と食事
療法とで完全に治してから行こうと思ったんです。ええ、オーストラリアです。
あちらは今、秋なんですよ。あっ、そろそろ回診の時間ですので。ええ、また
よかったら、お寄りください。でも、申しましたように、私、あの人のことあ
まり覚えていないんです。ですから、お力にはなれないとは思いますが、今日
はなんだか随分と、身体の具合がいいんです。ひさしぶりのお客様だからかも
知れません。ええ、それでは。はい、ありがとうございます。
姉はそんな風に話したんですか。じゃあ、まだ直ってはいないんですね。で
も本当の気持ちを云うと、このままそっとしておいてやりたいんです。もし、
正常になって、そして自分がやったことが分かったら…それを思うと。ええ、
ありがとうございます。交通事故じゃなくて親父は肝臓を悪くして死んだんで
す。半年あまり入院してました。看病はだから姉がひとりでやっていました。
私達は遠方に住んでいるということもあって、親父のことはだから、姉に任せ
っきりになっていたような恰好でした。確かに辛かったとは思います。あの事
件も葬式があってすぐのことでしたから、やはりショックが重なったからでし
ょう。姉はおとなしい性格でしたが、芯が強くて。そうですね、小さい頃から
姉の泣き顔なんて見たことがなかったです。親父の葬式の時もそうでした。で
も、わたしから云うのは何ですが、とっても優しい姉でした。今でも……そう
ですね。優しい姉だと思っています。
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パソコン通信ドラマ『秋本さすペンス劇場』(目薬をさす女)いかがでした
でしょうか。次回の『秋本さすペンス劇場』は(水をさす男)を予定しており
ます。それではこの辺で。
貧乏寺の鐘の音は陰にこもらず……カーン!